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2011年6月

2011年6月26日 (日)

「統合失調症」の「圧倒的な他者」

「統合失調症的状況」で起こることを、一言で言い表すならば、「圧倒的な他者」に翻弄されるということである。

「統合失調症」において生じる、様々な事態は、この「圧倒的な他者」をめぐって展開される。要するに、「統合失調症」とは、「圧倒的な他者」によって「自己」が「崩壊」の危機に瀕することである。

「幻聴の声」の「主体」も、このようなものであることが多く、圧倒的で、逆らいがたい調子で、その者の行動を非難したり、嘲笑したり、なじったりする。典型的な「妄想」にも、この「圧倒的な他者」が強く反映される。「CIAにつけ狙われる」とか「宇宙人に監視される」などの、「CIA」や「宇宙人」は、この者につきまとう、この「圧倒的な他者」を、表象しているのである。

つまり、この「圧倒的な他者」は、明確な対象というよりは、ある漠然とした、未知の対象で、何しろ、「自己」を脅かす、ある「他なるもの」なのである。その意味で、本来的に、「圧倒的な他者」という「抽象化」された呼び方こそが、ふさわしいものである。ただし、本人は、むしろ、その漠然とした「未知」性こそが、恐怖なので、それを認めるよりは、それを極力、具体的な「他者」として、表象しようとする。だから、「妄想」においては、ある特定の現実の「他者」や、それでは無理と考えられるときは、まさに「CIA」とか「宇宙人」などの、「非日常的」または「超越的」な「他者」として、現れることにもなる。

これを逆から言えば、この「圧倒的な他者」は、具体的な場面では、ある特定の「他者」の「背後」に、あるいは、それと「重なる」ようにして、「投影」され、または「顕現」することが多いということになる。

だから、「圧倒的な他者」とは、むしろ、何かある特定の「一元的」なものに帰されるのではなく、本来的に、様々なものが、縦に重なった、「重層的」なものというべきなのである。

このように、「統合失調症者」が「妄想」において、あるいは、精神医学や精神分析の理論で、この「圧倒的な他者」を、ある特定の「他者」として表象しようとすることには、一定の理由がある。しかし、そうした場合、その具体的な「他者」に、全てを「押し着せる」ことになり、より「根源的」な「他者」を、取り逃がすことになる。それでは、本当には、理解できない面が、大きく取り残される、ということである。

この「圧倒的な他者」として「重層的」に貫くものを、次のように例示してみた。下にいくほど、より「根源的」なものである。

Photo_2 要するに、「統合失調症」に陥るような具体的な場面、または「きっかけ」となる場面では、表面上、特定の「他者」や、「父」または「母」(の記憶)が立ち現れることが多い。しかし、それが、「統合失調症」を招くような、「圧倒的なもの」として立ち現れるのは、その背後に、より根源的な「他者」の「投影」ないし「憑依」的な現れがあってこそである。

これまでみて来たように、それが、「圧倒的なもの」として現れ出るのに、最も「力」あるのは、「捕食者」といえる。が、それは、宗教的伝統の影響も受けて、「神」または「悪魔」として認識されることも多い。しかし、何しろ、どのような場合でも、真に「自己」を脅かす、「根源的」に「圧倒的なもの」とは、それらの根底にある「虚無」である。この、「虚無」の「投影」は、どんな「他者」にも、常に「重層的」に働いているというべきである。実際、統合失調症者も、この間近に迫った「虚無」について語ることも多い。

「他者」とは、「自己にあらざるもの」であり、その意味で、潜在的に、「自己」という「境界」を脅かすものである。そのような、根源的な「他者」とは、最も原初的に、「自己」という「境界」を生み出す働きをした、「虚無」以外ではあり得ないのである。

しかし、一方で、「他者」とは、また「自己」という「枠組み」の根拠となり、その「境界」を維持する働きをするものでもある。この点を見逃すと、なぜ、特定の者のみが、この「他者」によって翻弄され、他の者は、そうならないのかが理解できない。

多くの者は、この「他者」によってこそ、「自己」を支えられているのである。それは、「捕食者」や「虚無」のような、「根源的」なものについても言えることである。それは、もちろん、「恐怖」の対象であることに変わりはない。が、同時に、その「恐怖」こそが、「自己」という「枠組み」や「境界」を維持させ、強化させる「モチベーション」ともなる。端的に言えば、「他者」があるからこそ、「自己」もあるのである。([君がいて僕がいる。チャーリー…]ではないが)

その意味では、「統合失調症」に陥る者は、このような「他者」を、「自己」の「根拠」として抱え込むことに、失敗したものといえる。「統合失調症」に陥る者は、普段、日常から、この「他者」の作用が、ほとんど「不在」なのである。それは、「自己」を「恐怖」させるものとしても、「強化」さるものとしてもである。だから、当然、その反面として、「自己」も希薄なものとなる。

しかし、いざ、ある「きっかけ」において、この「他者」の、真に「他者」たる「恐るべき面」(より「根源的」な「他者」の顕現)に触れると、普段、そのようなものに対する抵抗のない「自己」は、「崩壊」の憂き目に会いやすいのである。つまり、「他者」の、「自己」の「境界」を脅かす、破壊的な面が、そのような機会に、ことさら「圧倒的なもの」として、浮上しやすいのである。

精神医学ないし精神分析でも、この「圧倒的な他者」について、鋭い考察を試みたものはある。その一つとして、それは、幼児期の「父親」の記憶が、回帰したものだという説がある。フロイトの精神分析が典型的であるし、ラカンも「父親」そのものではなく、「父の名」という「言語」の根底的な働きなのだが、似た解釈をしている。

特に、「父性的」な文化たる「西洋」では、父の「権威」は絶大だから、このことが受け入れられやすいであろう。しかし、そうでなくとも、一般的に言って、幼児期に「父親」が、何か、「圧倒的な存在」として迫るということは、十分に予想されることである。それが、そのときは、無意識の奥底に押しやられるが、後に、何か似た状況や人物などに触れることによって、明確化されない、漠然たる「記憶」として蘇ることは、十分にあり得ることである。それが、その具体的な「他者」などに「投影」されて、その者が、「圧倒的な他者」として知覚されてしまう、ということである。

そのこと自体は、確かに「あり得る」ことであり、図でも、具体的な他者→「父」または「母」→言語(「父の名」)というところは、大体、そういうことを表している。

ただし、そのことだけで、具体的なレベルにおいて、「幻覚」や「妄想」をすべて「説明」するのは、無理というものである。そこには、「日常性」または「人間的なもの」を超えた、「未知」の要素が、必ずみられるからである。それだけでは、「統合失調症」に陥らせるだけの、「圧倒的な他者」そのものとはなり得ない、ということである。そこには、さらに、より「根源的な他者」の働きが、「投影」され、または「顕現」しているというべきなのである。

次回は、そのような、幼児期又は子供期にみられる、より「根源的」な「他者」の働きとして、「捕食者」の働きかけを、例を挙げて、みてみたい。(またまた、私の好きな?「なまはげ」が登場します)

2011年6月18日 (土)

「神」も「解離」する!?

前に、B.モーエンという人物が、体外離脱中に、ある生命体を通して知ったこととして、「神」が「大いなる未知」(虚無」)を前にして、恐れと探索の興味をもったことから、「創造行為」が始まったというあらましを紹介した。(記事  『魂の体外旅行』-「ルーシュ」の生産  )

その部分を再掲すると、

初め、「創造者」である「存在者」は、自分の回りを取り巻く、得たいの知れない「大いなる未知」に恐れを抱いた。「存在者」は、その探索をしたいと思い、自らの一部を「分身」としてさまざまに集めたものを創造して、そこに飛び込ませた。ところが、それらは、「大いなる未知」に突入すると、崩壊してしまって、戻ってくることがなかった。

そこで、「存在者」は、さまざまな実験を繰り返すが、結局、それらの「分身」は、「無条件の愛」をもって、全体を「統一」していない限り、そこで崩壊せずに、帰ってくることができないことが分かったという。

これは、あくまで、一つの単純化された「物語」として受け取るべきものである。周りを取り巻く「大いなる未知」とは、まさに「虚無」そのもののことであろう。「無条件の愛」ということが、何か取ってつけたような形で出てくるが、要するに、全体を「統合」することの、ひとつの象徴的意味合いであろう。しかし、それにしても、この「物語」は、これまで聞いたどんな「創造説」よりも、説得的で、頷ける面を持ち合わせているのは確かである。

「神」は「虚無」を前にして、「恐れ」を抱き、「分身」を作り出して、いわば自己を「切り離し」、自己は背後に退くことで、その状況に対処することをその分身に背負わせた。それこそが、自己の分身たる(意識ある)「生命」の「創造」ということになる。しかし、これは、人間が、虐待やストレスという状況にあって、自己を切り離して、切り離した人格にその状況を請け負わせようとする、「解離」そのものではないか。

前々回みたように、「人格」というものは、そもそも「解離」するものなのであった。人間の生まれながらの「自己」さえ、「解離」されたものである可能性があることを指摘した。しかし、それ以前の、そもそもの初めたる、「神」による「生命」の「創造」ということすら、「解離」によって始まっている可能性があるということになる。

「<無条件の愛>による<統合>がなければ、<虚無>から戻れないことが判明した」というが、そもそも「解離」から始まっている「生命」の「意識」に、そのような「統合」を押し着せることも、どうかと思われる。

前には、その「分身」が「虚無」へ突入すると、「崩壊」してしまうことを捉えて、この「神」の「虚無」を前にした出来事を、「統合失調症」の「原点」のようなものと言った。が、その「神」の「行い」の実質的な意味合いとは、むしろ、「解離」そのものだったというのが、本当のところである。

こうみてくると、「人間」が、「統合失調症」や「解離性障害」に陥る可能性というのは、そもそもの初めから、内に「孕まれ」ていたものといえる。「神」のモチーフを「人間」が「再現」しているだけだからである。

しかし、もし、その「物語」に言うとおりに、「神」の分身たる「人間」が、「無条件の愛」による「統合」ということを成し遂げて、真に「虚無」を通り抜けて、「戻る」ことができたとするなら、それは、初めの「神」の「原点」をも、大きく通り越したことになるはずである。

あるいは、「無条件の愛」による「統合」とは、最終的には、「人間」の「基本人格」と「解離した人格」との「統合」と同じように、もともとの「神」と分身たる「人間」との「統合」ということを、含意しているのかもしれない。だとすれは、B.ロバーツも示唆するように、「人間」と「神」との「本来的」な「統合」によってこそ、真に、「全体」として、「虚無」を通り抜けること、というよりも、むしろ、「虚無」そのものへと「溶解」することが可能となるということになろう。つまり、原初の、「神」と「虚無」との対立(「二元性」)そのものが、解消されるということである。

2011年6月 8日 (水)

「許して前を向く日本人」

漫画家のいがらしみきおが、昨日付け朝日新聞朝刊で興味深いことを言っていた。(タイトル「許して前を向く日本人」)

いがしらみきおは、「神」や「宗教」を問う漫画も書いている。自分は、「人を信じる」ということを疑うようになって、人間は何のために生きるのかとか、世界とは何かなどを、問うようになった。

ところが…

今回の震災では、被災を受けた人やその周りの人など、互いに手を取り合って励まし合ったり、協力し合っている姿が印象的である。そこには、「人を信じる」ということが、一貫して伺われる。テレビなどの報道でも、「人」の話ばかりで、「神」がどうのこうのということが言われることはない。

今回のような大きな震災でも、多くの日本人は、起こったことは「許し」て、「前向き」に、「人を信じる」ということを続けているようにみえる。

これは、自然災害(一般には「不可抗力」と思われている)だから、ということではない。かつては、原爆を落とされたことにも、同じような対応をしている。今回も、やはり、日本人は、「神」を「許し」て、「前を向いて生きる」ことを続けていくのだろう、ということを述べていた。

これは、「いいとか悪い」とかではないと言っているし、別に「揶揄」する意図でもないようである。ただ、多少違和感を感じつつも、日本人というのは、そういう風であることを、改めて感じたということであろう。

これは、確かにそうで、私も、同じような感じをもった。外国などが、驚く点も、やはり、大規模な被害を受けたにも拘わらず、自暴自棄になったり、暴動じみたことがほとんど起こらず、人々が協力しながら、前向きに生きている姿なのだと思う。日本人が、表向き「無宗教」であることを知ると、なおさら、この驚きも膨らむのだろう。

欧米などでは、「神」は信じても、「人」は信じないということが、当たり前のように行き渡っている。むしろ、「神」を信じるということで、何とか、人と人のつながりや、慈善などの行いも、つなぎ留められているのであろう。その「神」を信じるということさえ取り払ってしまえば、むしろ、人を「信じる」ということも、更に有り難いものとなる。中国では、現在、そのような傾向がかなりはっきり出ている。「許す」という点でも、中国とは大きな違いがある。

(ちなみに、日本で、約束をするときの言葉に、「ウソついたら針千本飲ーます!」というのがあるが、これに対応する中国の言葉は、「ウソついたら、首吊って死んでも、百年は許さない!」である。日本のは、一見残酷だが非現実的で、実際には行いようのないものだが、中国のは、何ともリアルな話である。ただ、百年という限定があるのが、救いか。)

そのような「信仰」もないのに、「人を信じ合える」という姿は、やはり、外国にとっては、大きな驚きなのだろう。

これは、いがらしも、「神のない宗教」のようなものと言っているが、決して、単純な「無宗教」のなせる技ではない。これまでもみて来たところで言えば、日本人の「世間」への「信仰」の、「いい面」が表れたものと言うべきである。ここでは、「世間」は、一種の「人と人のつながり」を表象するもの、「運命共同体」的な「共同意識」を表すものとなっている。そこには、狭い土地へ多くの者がひしめき合って生きている日本人の現状や、「単一民族的」な民族的幻想も、働いているだろう。が、いずれにしても、震災という大きな出来事をきっかけに、そのような「共同意識」が強く表に表れ出ていることは、確かと思われる。

この日本人の、「世間信仰」にみられる、「楽天的」というか、「ナイーブ」ではあるが、前向きの「共同意識」は、確かに独特で、何か「犯し難い」ものがあると感じられる。それは、実際、いがらしも言うように、大きな「自然災害」でも、戦争や「原爆」のような人為的な災害でも、崩れることはなかったわけだし、今後も、容易には、覆されることはないと思える。

私は、これまで「世間」について、「悪い」面を多くあげつらって来て、そこには、「捕食者」のような存在も入り込み、むしろ、それを通してこそ、「人と人の間」の確執を拡大したり、人の集団の支配を強化して来たということを述べた。それは確かにそうであり、今も十分深刻な事態であるはずなのだが、しかし、その「捕食者」ですら、このような意味の「共同意識」は、容易に打ち砕くことはできないかのようにみえる。

それが、どこから来るのか、容易には、理解しかねるが、ある種の「宗教性」といえるもので、確かに、そこには、何か独特の、犯し難いものがあることは、まず認めておきたい。私は、このような「世間」的な「共同意識」からははみ出すことが多いし、いがらしのように違和感も感じるが、それにしても、そのこと自体は、否定できないことで、また、私自身の中にも、そのようなものがあることは、やはり感じるのである。

ただ、私としては、その「違和感」というか、その「世間」的な「共同意識」が、「悪く」出る方のことにも、触れておきたい。それは、一つには、その反面として、これまでも何度かみたように、そのような「世間」からはみ出る者を、ことさら「排除」したり、「差別」するなどのことが起こることである。分裂気質の者などは、やはり、そのような憂き目に遭いやすい。分裂気質の者が、「被害妄想」的な発想をしやすいのも、普段から、そのような「世間」に対する、「違和感」や「不適応感」を抱えていることが、大きな理由の一つである。

また、いがらしも言うように、「人を信じる」ことを疑うこと、つまり、そのような「世間」の「共同意識」から離れてこそ、人間や世界などの、本質的な問題を、問うということも起こり得るはずである。しかし、このような「世間信仰」は、そのようなことを問うこと自体を、「許さない」という面が強い。それは、その「世間」的な「共同意識」自体が、一種の「宗教的」な「価値観」ないし「感情」でできているので、むしろ、人間や世界などの、本質的な問題を問うというのは、そのような、現にある「宗教」に対する「反逆」とみなされることにもなる。「世間」というもの、それ自体が、一種の「安全」や「保証」を与えてくれるものなので、そんなことを問うのは、そのような「世間」に対する「不信仰」の表明以外ではなくなるわけである。

さらに、それは本来、一種明らかに「宗教的」なものなのに、自分自身を「無宗教」的なものとみなしている。だから、むしろ、何か「宗教」的なものに関わることなどは、この「世間」からは、「毛嫌い」される傾向がある。そこには、「世間」が、現代の「唯物論」的な発想と、奇妙に結びついて、歪なものになっている、ということもあるというべきだが。

さらに、その「世間信仰」の「楽天性」ゆえ、「原発」でもそうだが、危険や危機管理の意識が薄く、育たないばかりか、「危険」を訴えかけること自体が、同じく、その「世間信仰」に対する「反逆」であるかのようにみなされるという問題もある。

この「世間」的「共同意識」は、震災という特別の出来事で、改めて確認されたものだが、それは、普段から常に潜在的にあるものが、よりはっきりとした形で、浮上したに過ぎないともいえる。それは、今回の震災のような非常事態の時には、「よい」面として働くが、、普段から、日本人を強烈に縛るものでもある。そのように、「よい」面もあるからこそ、いがらしも言うように、容易に、それを超えるような見方や変化を起こさせない、強力な足かせのようになっているとも思われるのだ。

それは、一つには、この「世間信仰」が、何となく育まれた「無自覚」的なものであることにもよると思われる。今回の震災は、改めて、日本人にとって、自分らの根底にある、そのような「世間信仰」そのものを、自覚的に問い直す機会にもなり得るはずである。

2011年6月 2日 (木)

用語集

注)「用語」は、今後、増やしていく可能性があります。

〇「霊界の境域」

ルドルフ・シュタイナーの用語で、感覚的世界と霊的世界との「境界領域」を意味する。霊的領域として、初めに、入って行かれやすい領域である。しかし、秩序づけがたい、「混沌」とした領域で、破壊的な「力」をもった「存在」も多く、様々な「破壊的」な現象も起こりやすい。

「分裂病的(統合失調症的)状況」とは、まさに、このような領域に入って行くことなので、この言葉を使っている。ただし、シュタイナーは、水平的な「進化」の観点からしか、この領域をみていない。私は、「虚無」や「闇」など、「垂直的方向」の根源的なものが浮上しやすい領域としても重視している。

記事;  「霊界の境域」を超える二方向性

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post-7797.html

      「霊界の境域」の「図」

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-fb4c.html

 

〇「境域の守護霊」

やはり、ルドルフ・シュタイナーの用語で、「境界の領域」で出会われる可能性のある「存在」の一つ。ただし、「守護霊」というよりも、一種の「監視者」である。初め、「身の毛もよだつような恐ろしい」姿で出会われるというが、自己の「ドッペルゲンガー」(生き霊)から発展したもので、全体としての「自己」から切り離されたものといえる。「捕食者」と混同されやすいという意味でも、重要である。

記事;  「境域の守護霊」とは 

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post-2336.html

      「境域の守護霊との出会い」まとめ  

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post-262b.html

〇「捕食者」

やはり、「霊界の境域」で出会われる可能性のある「存在」の一つ。カスタネダのドンファンが使っていた言葉で、古代トルテックでは、「主題中の主題」とされた。人間の意識や感情的エネルギー、特に「恐怖」を「栄養源」として「捕食」する「霊的存在」。かつて「悪魔」や「鬼」として呼ばれて来たものと、基本的には重なるが、「善悪」の観念から自由で、人間との関係の実質を端的に言い表すこの言葉の方がふさわしいので使っている。「分裂病的(統合失調症的)状況」でも、この存在の破壊的な面が、何らかの形で関与していると思われるゆえ、重要である。

記事;  ドンファンの「捕食者」論について  

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post-f8c3.html

      「捕食者」という理由 

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-b27f.html

〇「分裂病的(統合失調症的)状況」

一般には、このような、何らの客観的な「状況」がないにも拘わらず、「妄想」や「幻覚」などの「反応」を生じるのが、「分裂病(統合失調症)」だと思われている。しかし、実際には、そういった「状況」は、「見えない」領域ではあっても、厳として存在し、それらは、そのような「状況」に対する「反応」なのだ、ということを強調する意味で、特にこう呼ぶ。それは、最初の項でみたとおり、基本的には、「霊界の境域」に入っていくことを意味する。

記事;  「分裂病的状況」の場合 

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post-1072.html

〇「水平的方向」と「垂直的方向」

「水平的方向」は、時間的または空間的、領域的な「移行」または「進化」の意味合いをもった方向性。「垂直的方向」は、無時間的、無領域的な、「現在」の瞬間の根底に向かって下降する方向性である。一般に、「霊的進化」は「水平的方向」、「悟り」は「垂直的方向」に関わる。水平的観点からは、垂直的方向が、見落とされることが多いが、それは、時間的、領域的に枠づけられないものゆえ、仕方のない面がある。しかし、「分裂病(統合失調症)」では、このような方向の「破壊的」影響も強く受けるので、抜かすことはできない。

記事;   「イニシエーション」と「垂直的方向」 

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-e8a1.html

 

〇「虚無」または「闇」

「垂直的方向」の根底で出会われるもので、決して、「抽象的な観念」ではなく、ある種の「実在」である。が、「枠」づけられぬ、または「限定」づけられらぬものゆえ、当然、「理性」によって、捉えられるものではない。仏教で「空」といわれるものに、相当するともいえるが、私は、その「無」の面を際立たせるため、「虚無」と呼ぶ。「分裂病的(統合失調症的)状況」では、ますます、その「無」としての破壊的な面が、前面に現れるので、こう呼ぶことが適当である。「闇」は、その「虚無」の「実体的な面」というべきもので、その「実体性」は、はっきりと把握できる。「光」と「闇」という対置された形での「闇」は、抽象的なもので、この「闇」そのものを捉えるものとはいえない。

記事;   「虚無」・「闇」あるいは「無限」 

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post-6f09.html

       「闇」ないし「虚無」との接触  

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/22-163c.html

〇「イニシエーション」

ある集団への「加入式」を意味したり、オカルト的に特殊な意味をもたされたりする。が、実質的には、何らかの「超越的な存在」が関わる、「成長」または「変容」のための「試練」という意味である。その過程は、端的には、「死と再生」の過程で表される。「分裂病(統合失調症)」も、一つの「イニシエーション」といえるのだが、それは、「再生」へと至らないで、「死」の「破壊的」側面のみが、際立ってしまうことが多い。

記事;   「イニシエーション」と「分裂病」 

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post-f0c6.html

       「成人儀礼」としての分裂病  

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5f1f.html

〇「アーリマン(的)」と「ルシファー(的)」

ルドルフ・シュタイナーの「悪魔論」では、「アーリマン」存在と「ルシファー」存在の二系統の存在を区別し、それらの、人間を舞台としてなされる、ダイナミックな闘争的関わりを明らかにしている。私も、分裂病(統合失調症)的体験で、ほぼシュタイナーの言うとおりの二系統の存在を確認している。どちらも「捕食者」的だが、「アーリマン」存在の方が、より「捕食者」的である。人間は、進化史的にどちらの性質も受け継いでいるので、人間の中には、「アーリマン(的)」性質と「ルシファー(的)」性質が共存し、格闘、葛藤を生む。シュタイナーでは、それらの「均衡」が目指される。

記事;   「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」 

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post-f9e6.html

〇「実体的意識性」

ヤスパースの用語で、知覚以前の直感的な感覚として、そこにありありと、ある「実体」を感じ取ること。「解離性障害」に伴って言われることが多いが、「統合失調症」においても、重要である。というより、「統合失調症」における、圧倒的な恐怖は、これから来るのであり、「幻覚」や「妄想」の元にも、これがある。だから、この「実体的意識性」を抜きにした論議は、無意味と言ってもいいくらいである。

記事;   「知覚のリアリティ」と「実体的意識性」  

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-68c0.html

       「実体的意識性」と「オルラ」 

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-b854.html

〇「中間的現象」

「物理的現実」と「非物理的現実」の「中間領域」に起こる現象のこと。多くの者に目撃され得るなど、「物理的現実」と同様の要素を含むが、「物理的現実」そのもののように、固定的、客観的な現象として、確認できるものではない。いわゆる「UFO」や「ネッシー」などの珍獣、妖怪なども、この種の現象の一つと解される。統合失調症の「幻覚」にも、このような現象があり得るので、厄介である。

記事;   幻覚的現実と物質化現象の「中間的現象」 

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-0f93.html

〇「解離」

広くは、通常の意識状態が変容される場合を、広く含むようであるが、普通は、ストレスや虐待等の状況で、意識を分離ないし引っ込ませ、その状況の影響を全面的に被らないようにする対処の仕方を意味している。それ自体は、「自己」を崩壊させないための、防衛方法の一つだが、それが度重なると、「解離性障害」という病的状況を招くことになる。その激しい場合が、「多重人格障害」である。この「解離」は、「分裂病」の「分裂」または「統合失調症」の「統合失調」ということと、紛らわしいために、混同される可能性があるという意味でも、重要な概念である。

記事;   「解離」について    

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post-343d.html

       「人格解離」  

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-5f44.html

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