「統合失調症」の「圧倒的な他者」
「統合失調症的状況」で起こることを、一言で言い表すならば、「圧倒的な他者」に翻弄されるということである。
「統合失調症」において生じる、様々な事態は、この「圧倒的な他者」をめぐって展開される。要するに、「統合失調症」とは、「圧倒的な他者」によって「自己」が「崩壊」の危機に瀕することである。
「幻聴の声」の「主体」も、このようなものであることが多く、圧倒的で、逆らいがたい調子で、その者の行動を非難したり、嘲笑したり、なじったりする。典型的な「妄想」にも、この「圧倒的な他者」が強く反映される。「CIAにつけ狙われる」とか「宇宙人に監視される」などの、「CIA」や「宇宙人」は、この者につきまとう、この「圧倒的な他者」を、表象しているのである。
つまり、この「圧倒的な他者」は、明確な対象というよりは、ある漠然とした、未知の対象で、何しろ、「自己」を脅かす、ある「他なるもの」なのである。その意味で、本来的に、「圧倒的な他者」という「抽象化」された呼び方こそが、ふさわしいものである。ただし、本人は、むしろ、その漠然とした「未知」性こそが、恐怖なので、それを認めるよりは、それを極力、具体的な「他者」として、表象しようとする。だから、「妄想」においては、ある特定の現実の「他者」や、それでは無理と考えられるときは、まさに「CIA」とか「宇宙人」などの、「非日常的」または「超越的」な「他者」として、現れることにもなる。
これを逆から言えば、この「圧倒的な他者」は、具体的な場面では、ある特定の「他者」の「背後」に、あるいは、それと「重なる」ようにして、「投影」され、または「顕現」することが多いということになる。
だから、「圧倒的な他者」とは、むしろ、何かある特定の「一元的」なものに帰されるのではなく、本来的に、様々なものが、縦に重なった、「重層的」なものというべきなのである。
このように、「統合失調症者」が「妄想」において、あるいは、精神医学や精神分析の理論で、この「圧倒的な他者」を、ある特定の「他者」として表象しようとすることには、一定の理由がある。しかし、そうした場合、その具体的な「他者」に、全てを「押し着せる」ことになり、より「根源的」な「他者」を、取り逃がすことになる。それでは、本当には、理解できない面が、大きく取り残される、ということである。
この「圧倒的な他者」として「重層的」に貫くものを、次のように例示してみた。下にいくほど、より「根源的」なものである。
要するに、「統合失調症」に陥るような具体的な場面、または「きっかけ」となる場面では、表面上、特定の「他者」や、「父」または「母」(の記憶)が立ち現れることが多い。しかし、それが、「統合失調症」を招くような、「圧倒的なもの」として立ち現れるのは、その背後に、より根源的な「他者」の「投影」ないし「憑依」的な現れがあってこそである。
これまでみて来たように、それが、「圧倒的なもの」として現れ出るのに、最も「力」あるのは、「捕食者」といえる。が、それは、宗教的伝統の影響も受けて、「神」または「悪魔」として認識されることも多い。しかし、何しろ、どのような場合でも、真に「自己」を脅かす、「根源的」に「圧倒的なもの」とは、それらの根底にある「虚無」である。この、「虚無」の「投影」は、どんな「他者」にも、常に「重層的」に働いているというべきである。実際、統合失調症者も、この間近に迫った「虚無」について語ることも多い。
「他者」とは、「自己にあらざるもの」であり、その意味で、潜在的に、「自己」という「境界」を脅かすものである。そのような、根源的な「他者」とは、最も原初的に、「自己」という「境界」を生み出す働きをした、「虚無」以外ではあり得ないのである。
しかし、一方で、「他者」とは、また「自己」という「枠組み」の根拠となり、その「境界」を維持する働きをするものでもある。この点を見逃すと、なぜ、特定の者のみが、この「他者」によって翻弄され、他の者は、そうならないのかが理解できない。
多くの者は、この「他者」によってこそ、「自己」を支えられているのである。それは、「捕食者」や「虚無」のような、「根源的」なものについても言えることである。それは、もちろん、「恐怖」の対象であることに変わりはない。が、同時に、その「恐怖」こそが、「自己」という「枠組み」や「境界」を維持させ、強化させる「モチベーション」ともなる。端的に言えば、「他者」があるからこそ、「自己」もあるのである。([君がいて僕がいる。チャーリー…]ではないが)
その意味では、「統合失調症」に陥る者は、このような「他者」を、「自己」の「根拠」として抱え込むことに、失敗したものといえる。「統合失調症」に陥る者は、普段、日常から、この「他者」の作用が、ほとんど「不在」なのである。それは、「自己」を「恐怖」させるものとしても、「強化」さるものとしてもである。だから、当然、その反面として、「自己」も希薄なものとなる。
しかし、いざ、ある「きっかけ」において、この「他者」の、真に「他者」たる「恐るべき面」(より「根源的」な「他者」の顕現)に触れると、普段、そのようなものに対する抵抗のない「自己」は、「崩壊」の憂き目に会いやすいのである。つまり、「他者」の、「自己」の「境界」を脅かす、破壊的な面が、そのような機会に、ことさら「圧倒的なもの」として、浮上しやすいのである。
精神医学ないし精神分析でも、この「圧倒的な他者」について、鋭い考察を試みたものはある。その一つとして、それは、幼児期の「父親」の記憶が、回帰したものだという説がある。フロイトの精神分析が典型的であるし、ラカンも「父親」そのものではなく、「父の名」という「言語」の根底的な働きなのだが、似た解釈をしている。
特に、「父性的」な文化たる「西洋」では、父の「権威」は絶大だから、このことが受け入れられやすいであろう。しかし、そうでなくとも、一般的に言って、幼児期に「父親」が、何か、「圧倒的な存在」として迫るということは、十分に予想されることである。それが、そのときは、無意識の奥底に押しやられるが、後に、何か似た状況や人物などに触れることによって、明確化されない、漠然たる「記憶」として蘇ることは、十分にあり得ることである。それが、その具体的な「他者」などに「投影」されて、その者が、「圧倒的な他者」として知覚されてしまう、ということである。
そのこと自体は、確かに「あり得る」ことであり、図でも、具体的な他者→「父」または「母」→言語(「父の名」)というところは、大体、そういうことを表している。
ただし、そのことだけで、具体的なレベルにおいて、「幻覚」や「妄想」をすべて「説明」するのは、無理というものである。そこには、「日常性」または「人間的なもの」を超えた、「未知」の要素が、必ずみられるからである。それだけでは、「統合失調症」に陥らせるだけの、「圧倒的な他者」そのものとはなり得ない、ということである。そこには、さらに、より「根源的な他者」の働きが、「投影」され、または「顕現」しているというべきなのである。
次回は、そのような、幼児期又は子供期にみられる、より「根源的」な「他者」の働きとして、「捕食者」の働きかけを、例を挙げて、みてみたい。(またまた、私の好きな?「なまはげ」が登場します)
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