カスタネダと「ヤノマミ」の著者の例
前回、「シャーマニズム」を理解するのに、「未開」というイメージが障害になっていることを述べた。こういったことは、生まれついた「文明社会」の中で身についた「信念体系」によるので、いくら個人的に「努力」しても、容易には覆すことができない面がある。それを覆すには、単なる「カルチャーショック」ということを超えた、何か、強烈な体験が必要になるはずである。
今回は、今までにもとり上げた中から、そういった体験の例を二つほど挙げてみたい。
一つは、カスタネダの例で、これは、私も好きな場面である。(『呪師に成る』93頁)
カスタネダは、アメリカUCLAの人類学の研究生で、ネイティブの幻覚性植物に関する「知識」に興味を持っていて、その研究をしたいと考えていた。そこで、そのインフォーマントとして紹介されたのが、ドンファンというヤキ・インディアンの老人だった。しかし、彼は、決して、ネイティブの文化そのものに、強くひかれていた訳でも、ましてや、そこで行われている「知の体系」を、実践的に学んでみようなどという気があった訳ではなかった。
カスタネダは、ドンファンに出会ったときから、彼の独特の魅力にひきつけられ、心を見透かすような目に威圧されたりして、ドンファンへの興味を膨らませていった。ドンファンの話は、「自尊心をなくす」とか「カラスの鳴き声を前兆として聞く」など、彼からすれば、奇抜で、興味をそそるものだった。ドンファンは、本気で、カスタネダに、彼の「知の体系」を学ばせるつもりでいるようだった。しかし、カスタネダからすれば、基本的には、ドンファンの話を聞くことも、研究上の手続のようなもので、それ以上のものではなかった。
そんなあるとき、ドンファンは、ふと、マジメな表情で、カスタネダに鋭く尋ねて来た。
「お前と私は平等だと思うか?」
不意をつかれたカスタネダは、一瞬戸惑ったが、取り繕って言った。「もちろん平等さ。ドンファン」しかし、ドンファンは、静かに言う。「いや、わしらは平等ではないな」。あわてたカスタネダは、「いや、絶対そんなことはないよ。ドンファン、平等に決まってるじゃないか」とまくし立てた。
カスタネダは、確かに、これまでのドンファンとの交流から、彼に対して、畏敬の念を持っていた。しかし、心の底では、「文明人」であり、洗練された学生である自分の方が、インディアンである彼より「上」であることを疑うことはなかったのだ。
しかし、ドンファンは、断固たる口調で言った。
「いや平等ではない。なぜなら、私は<狩人>で<戦士>だが、お前はただの<下郎>だからだ。」
この言葉に、カスタネダは強烈な衝撃を受けた。全く、思っていたことを、根底から覆されたようなものだ。カスタネダは、ドンファンがそんなことを言うなんて、信じられなかった。しばらくは、怒りではち切れんばかりになった。しかし、その後、ドンファンは、諭すように、「カスタネダが確かに誰かの<下郎>をしていること。自分自身のではなく、誰か知らない者の闘いをしていること。植物のことや他の何事も、本当には学びたいと思っていないこと。ドンファンの正確な行動、感覚、決断といった世界は、カスタネダのへまな白痴的世界よりはるかに有効な世界であること」などを説明した。
怒りが治まったカスタネダは、これを受け入れざるを得なかった。ドンファンと一緒にいた何日かの経験で、心のどこかでは、そのことを分かっていたのだ。
この時の衝撃がきっかけとなり、カスタネダは、以後、ドンファンから、本当に、「知の体系」を学ぶことになった。もっとも、カスタネダも、急に、全てが変わって、「優等生」になったわけではない。その心意気も、どこまで本気か怪しいもので、時々挫けることがあった。相変わらず、彼には、理解できないことが多過ぎ、何度か、止めようともした。
しかし、この時の、ドンファンの言葉の衝撃が、彼の文化的に身についた「信念体系」及び「自尊心」を、大きくつき崩したことは、間違いない。だからこそ、彼は、彼の「信念体系」からは大きく外れる、ドンファンの「知の体系」を「学ぼう」という気になったのだ。
もう一つは、『ヤノマミ』の著者、NHKのディレクター国分拓の例である。
国分らの取材チームは、奥アマゾンの「未開民族」で、文明人を拒否し、交流することをしないという「ヤノマミ」という民族のもとで、150日もの間、生活を共にするという体験をし、テレビ番組や本で紹介している。
本の調子は、全体として、淡々とした客観的記述が多く、あまり感情や主観的な思いを露わにはしていない。が、その記述の中にも、自ずと、ヤノマミと接するのに連れて、著者の見方や心情が変わっていくのが、反映されているのが分かる。
彼らは、初めから、「文明人」としての意識を持ち込むことを、極力抑えていたようにみえる。実際、そうでなければ、「文明人」を拒否するとされる民族と、150日にも及ぶ共同生活を計画することなどできないだろう。
しかし、とはいえ、事実上、「文明人」として身についた感覚なり、発想は、いやでも随所に現れている。著者が、極力その態度を保持しようとしていたとみえる、客観的な「観察」ということも、そもそもそれ自体が、「文明人」的な態度といえる。
そんな中、時に衝撃的なほど「死」や「暴力」が同居している、ヤノマミのあるがままの生活を間近に見、共にし、交流したり、シャーマンの教えを聞くなどしているうちに、本の終わりの方で、著者は、これまでの流れからすれば、いささか唐突な感じで、次のように述べている。
「そこには、ただ<真理>だけがある」
恐らく、この「真理」は、本当は、「裸のリアリティ」とか「生のリアリティ」などと表現した方が、より適当ではあるのだろう。著者がそこに「見た」ものは、シンプルな「事実」であって、決して、何か「理」的なものとして構成されるような、複雑なものではないからだ。
しかし、著者としては、やはり、「真理」という言葉がピッタリくる面もあったはずである。それは、つまり、そこで現に目の前にする「ヤノマミ」に比して、彼の属する「文化」ないし「文明」というものが、いかに「虚偽」に満ちたものであったかという感覚と、「対」になって生じたものだからだ。「真理」という言葉は、「虚偽」という感覚と対になって生じているはずなのである。
あるいは、その「虚偽」という感覚には、単に「文明人」ということだけでなく、NHKであっても(あるいはNHKであればこそ?)テレビマンとしての彼の日常の感覚も含まれていたのだろう。
彼は、このとき、「文明人」として、あるいは「日常」を通して、身についた「信念体系」の崩壊を、まざまざと経験していたはずなのである。
実際、著者は、この取材から日本に帰って来た後も、心身に不調を来して、「何かが壊れた」という感覚がずっと続いている、と告白している。それは、まさに、彼が、直接は述べられなかったが、ヤノマミに「真理」を見たことの反面としての、「虚偽」の世界へと帰還してしまったことへの、痛ましい「反応」だったともいえるわけである。
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