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2011年5月 2日 (月)

「シャーマニズム」への「違和感」の理由

「分裂病」は、近代以前には、「憑きもの」とか「もの憑き」と呼ばれたわけだが、紹介した、『日本の憑きもの』は、主に江戸期以降の「憑きもの筋」を扱ったものである。それは、「憑きもの」とか「もの憑き」のある一面を扱ったものだが、それはそれで、「集団」における、独特の「人間模様」や「知恵」がみられ、興味深いものだった。

しかし、「憑きもの」とか「もの憑き」について、もっと古くのものから、普遍的に捉えようとするならば、「人間と霊的存在との交流」の最も原初的なあり方を示す、「シャーマニズム」を抜きにしては、あり得ない。

この「シャーマニズム」についても、フィールドワークに基づいた、様々な例を挙げて、分かりやすく、それなりに踏み込んだ解説をしている、『シャーマニズム』(佐々木宏幹著・中公新書)という本がある。

実は、私は、この本を、一連の「分裂病的体験」をする、しばらく前に読んでいた。「シャーマニズム」への興味は、一つは、いわゆる「未開社会」への興味と重なっており、もう一つは、カルロス・カスタネダを通して、「精霊」と交流する「シャーマン」というものに、興味を持ったことにもよっていた。

しかし、初め、この本を読んだときの感想は、それなりに印象深くはあったけれども、どこかピンと来ず、違和感も多いものだった。実は、カルロス・カスタネダの本にしても、もちろん面白く、強い印象は受けていたが、やはり、似たような、違和感があったのである。これは、今思えば、要するに、「シャーマニズム」というものが、今一つ、肌で「ピンと来ない」、「分からない」といった感覚のためだったと思う。

ところが、一連の「分裂病的体験」をする状況になると、それが全く、逆転してしまった。カスタネダにしても、『シャーマニズム』でとり上げていた様々な例にしても、それらが、いかに「本当のこと」で、「ありのまま」が記されたものか、肌で実感することになった。「ピンと来ない」どころか、痛いほど、「よく分かる」ものとなってしまったのだ。

そして、だからこそ、恐らく、多くの者にとっては、カスタネダにしても、この「シャーマニズム」にしても、実際に経験しない限り、かつての私と同じように、違和感を抱き、「分からない」ものであり続けるだろうことが、予想される。その意味では、本当は、このような本を紹介しても、あまり「意味」のないことになりそうである。

しかし、今回は、私が、かつてそのように思ってしまったのは、どうしてだったのか、つまり、「シャーマニズム」の「分かりにくさ」や「違和感」の理由というものを、改めて明らかにすることで、いくらかでも、「シャーマニズム」、さらには「分裂病」の理解に資することにしたい。

1 「シャーマニズム」の「分かりにくさ」の大きな理由の一つは、「精霊」という存在の「分かりにくさ」そのままが、反映されているということである。

「シャーマニズム」にも、「人霊」との交流や「憑依」を中心とするものがあり、それらは日本の、「農耕民的」な祖先崇拝の伝統からいっても、ある程度なじみやすく、理解しやすいものだろう。あるいは、最近は、「スピリチュアリズム」などを通して、そのような人間についての、霊的な面の「知識」も、相当に知れわたっているので、そういった面については、「シャーマニズム」も、決して「分かりにくい」ものではないはずである。

しかし、「シャーマニズム」には、必ず、非人間的な「精霊」との交流というものがつきまとう。特に、「狩猟民的」なシャーマニズムではそうである。『シャーマニズム』では、「脱魂型シャーマニズム」として紹介されている。単に、「霊的存在」の方から、「シャーマン」に「憑依」して、言葉などを伝えるのではなく、「シャーマン」の方から、「脱魂」して、自ら「精霊的存在」に近づいて、さまざまな知識を得たり、ときには、それらを、こちらの目的のために、「動かし」たりするのである。いわば、「受動的」ではなく、「積極的」な「シャーマニズム」といえる。

そして、実は、既にみてきた、江戸期以降の「憑きもの筋」というのも、そのような「動物的精霊」を「操る」のだから、こういった、「狩猟民的なシャーマニズム」の名残りなのである。そして、まさに、そういったものへの、「なじみのなさ」というか、「分からなさ」というのが、一般の「農耕民的」な集団からは、差別される大きな理由となったといえるのである。

私自身、一連の体験のときまでは、そのような「狩猟民的」な「シャーマニズム」とか、「精霊」という存在には、まったくなじみがなかった。それで、現に、それらと接する状況となったときには、その人間的な「みかけ」にも拘わらず、人間的な観点からは、全く「つかみ」切れない、「訳の分からなさ」に相当混乱させられた。

が、それらは、要するに、人間的な「論理」とか「情」というものに、収まる切るものではない、ということであり、もっと、原初的で、枠づけがたい「エネルギー」に、満ちた存在であるということなのである。だから、そのようなものに、人間が、無闇に、直接触れれば、「破壊的」な影響を被る可能性がある。それらは、いわば、「自然」そのものの、荒々しさとか、「力」を体現しているものともいえる。

カスタネダに出て来る「精霊」も、まさにそうで、カスタネダを散々、「死の縁」に連れて行くような、恐ろしい目に遭わせている。後にみるように、狩猟民的なシャーマンが、試練として、接する「精霊」もそうである。が、このような、理解しがたい、「精霊」という存在について、何の「リアリティ」も持てないとすれば、こういった記述に、「リアリティ」が持てるはずはなく、「違和感」が先に立つに決まっているのである。

しかし、同時に、このような「精霊」は、「手なづける」ことさえできれば、こちらの「意を汲んで」「力」になってくれる存在でもある。まさに、「憑きもの筋」の「操る」「犬神」や「狐」のようにである。カスタネダでも、「精霊」と一体となることができれば、それは、以後「盟友」として「力」になる、ということが言われる。

こういった、「危険な力」との交流は、「自然」の領域から離れて、日常的に農耕生活に従事する、一般の農耕民からすれば、なじみにくく、恐ろしいものであるのは、確かであろう。そして、まさに、我々の「シャーマニズム」に対する「分からなさ」や「違和感」というのも、こういった、「農耕民的」な発想の延長上にあるものといえるのである。

2 次に、「シャーマニズム」の理解しにくさには、それが、「未開文化」のものというイメージとも、大きく重なっていると思われる。

「シャーマニズム」そのものは、「文明社会」にも受け継がれてはいるが、そこでは、それも、様々に制度化されたり形骸化されたりしていることが多い。それが、最も「あるがまま」の、「裸」の形で現れているのは、やはり、「未開文化」においてというべきである。

そもそも、「未開文化」というのは、我々「文明人」の観点からは、「理解」できないものをいろいろと持っている。「シャーマニズム」というのも、そのようなものの一つで、そもそも「未開文化」が「訳の分からない」ものなのだから、その文化の中の「シャーマニズム」も「訳の分からない」ものであって当然である。といったように、「未開」ということの「イメージ」が、「訳が分からない」ということの、大きな要因として作用していると思われる。

要するに、「未開」=「非論理的」なので、「シャーマニズム」というのも、「非論理的」で、そもそも「分かり得る」ようなものではない、という理解ともつかぬ「理解」をもたらすのである。そこでは、「好奇心」こそ刺激されることがあっても、初めから、大きな「距離感」があり、「違和感」というものを、感じないはずはない。

「未開社会」に対する「イメージ」というのは、結局、「文明社会」あるいは「近代社会」についての「イメージ」と「対」になっているといえる。「文明社会」あるいは「近代社会」=「理性に基づいた、進歩した社会」であれば、「未開社会」=「非理性的で、遅れた社会」、「迷信が支配する社会」ということになってしまう。

「近代社会」が見直されるようになってからは、人類学者レヴィ=ストロースのように、「未開社会」も、独自の「論理」と「構造」に貫かれた、「知的」な「文化」であることが、明らかにされて来た。

とはいえ、やはり、「現代の文明」という視点から見れば、どうしても、その「訳の分からなさ」は、「非理性的」とか、「幻想的」とかということで、納得するほかないというのは、致し方ない面がある。私自身も、「未開社会」には一定の興味を持ちつつも、やはり、「シャーマニズム」には、そういった意味での「違和感」というか、「距離感」みたいなものがあったわけである。

しかし、今では、逆に、極端に言えば、「未開社会」の方が、現代文明より「優れている」という見方になる程に、「シャーマニズム」というものが、いかに、「真実」を「反映」しているかというのが、実感として「分かる」ようになった。先のような見方は、結局、「未開」という「イメージ」そのものに、惑わされたものに過ぎない、ということなのである。

3 最後に、「シャーマニズム」では、「シャーマン」が、「精霊」的存在と交流する過程で、様々な「試練」(イニシエーション)を受ける。が、それが、いかにも、「おどろおどろし」く、「壮絶」であるということが、「違和感」というより「嫌悪感」にすら、なっているということがあげられる。

テレビ番組などを通して、そのような「試練」の一部を、見たことのある者も多いだろう。それは、ほとんど「非人間的なもの」と言ってよく、「血」や「犠牲」を伴うこともある。その者は「発狂」そのものといった、「異様」な様相を示す。まさに、そこにうかがわれるのは、「死」と「狂乱」そのものである。何故に、そんなことが行われるのか、人は理解に苦しむ。

カスタネダも、まさに、「精霊」によって、そのような「試練」を繰り返し受けて、何度も「死ぬ」目に遭っている。また、これまで何度も触れて来たように、このような「試練」の最中、「シャーマン候補者」は、幻覚、精神錯乱など、「分裂病的状況」と酷似する状況を露わにする。それは、まさに、「精霊」という、人間が制御しがたい「力」との「格闘」である。「分裂病」は、近代以前には、「シャーマニズム」を抜きにしては捉えられないと言ったが、このような「試練」(イニシエーション)こそが、その中核をなすものなのである。

前にみたように、沖縄のユタの「カミダーリ」もまた、そのような試練の一つである。「カミダーリ」は「神がかり」と関連する言葉と思われるが、この「神がかり」こそ、近代の視点からは、異様な「病的状態」なのであり、「分裂病的状態」そのものということになってしまう。

私は、「くぐり抜ける」という言い方で言っているが、こういうことも、やはりどうしても、実際に「くぐり抜け」てみて、初めてその「意味」または「必要性」が分かる、という性質のものと言うほかない。恐らく、ユタを初め、多くのシャーマンも、それを「受けている」時には、全く、理解しがたいもので、それらを通り越してみて、初めて、それらが「必要」なものであったことを、深く認識することになるはずなのである。

しかし、一般には、そういったことの「意味」を、予め「理解」してもうことなどは、ちょっと無理な話である。

そういう訳で、一般に、この『シャーマニズム』(または関連の本)を、単なる知的な興味で読むことは可能かもしれないが、実際に、そこで行われていることを、「違和感」なく、受け入れたり、理解したりすることは、難しいと思われる。が、しかし、実は、それこそが、「分裂病」に対する「違和感」や「恐怖」とも、通底するものなのである。だから、それは、ある意味で、「試金石」のようなものにもなる。

そこに「違和感」を感じることは当然としても、もし、その「違和感」そのものを、ある程度でも、「理解」することができたら、それは、「分裂病」についても、多くのものを、「理解」することにつながるはずなのである。

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