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2011年5月

2011年5月28日 (土)

バックナンバーについて

右横バーの「バックナンバー」の表示は、10カ月分のみですが、バックナンバーは、’05年9月からあります

それらは、右横バーの、青枠の白抜きの「バックナンバー」の文字をクリックすると表示されるので、それをクリックして開いて下さい。

重要と思われるもののみを転載しているので、是非参照下さい。

なお、’05年10月から’06年3月までの記事は、精神医学関連の知識の全くない人を前提に、私の体験も踏まえながら、非常にていねいに、「分裂病(統合失調症)的状況」に陥っていく過程を説明しています。改めて読んでみても、自分でも驚くほど丹念に説明しているので、他の記事を読んでも理解しにくいときなどは、是非ここに立ち返って読んでほしいと思います。

また、いくつかの「特殊」または「重要」な「用語」については、「用語集」を作って、簡単な説明と、重要な記事のリンクをしておきたいと思います。

2011年5月25日 (水)

「統合失調症」という名称

この機会に、「統合失調症」という名称について考えを示しておきたい。

周知のとおり、かつて日本で「精神分裂病」と呼ばれた病は、2002年、日本精神神経学会により正式に「統合失調症」と改められた(英語名「schizophrenia」には変更はない)。

これには、第一に、「精神分裂」病という呼び方は、「精神」が「分裂」するという衝撃的な表現であり、回復不能な病というイメージを与えるため、差別を助長するということが、考慮されたもののようだ。また、時代的に「分裂病の軽症化」ということが現象としてあり、実際に、かつてのようには、強烈な状態を示す病者が少なくなったということも背景としてあるようだ。

つまり、その機会に、「精神分裂病」を「統合失調症」と改めることにより、かつて「精神分裂病」につきまとった、思わしくない「イメージ」を払拭し、それが回復の可能な、特別でない「病」であることを、改めて「アピール」しようという意図があったと思われる。

そのこと自体は、結構なことだし、それなりの理由はあるだろう。しかし、当時も多くの意見があったように、名称を改めるのみで、治療のあり方や社会的な制度の面での実質的な変化がなければ、それは、ただの気休めに過ぎないというより、一種のごまかしにすらなる。

それに、「統合失調症」という名称は、どこか「とってつけた」ような名称で、やはり、大きな「違和感」がある。

「統合失調症」というのは、「分裂」という「強い」表現を避けて、単に、「本来あるべき統合状態」が「失調」しているに過ぎないということを、強調したいのだろう。また、これには、本来、「正常」な状態は「統合状態」だが、その「失調」している状態が解消されれば、正常である「統合状態」に戻れる、という含みがあるのだろう。

しかし、そうだとすれば、その病気の症状とされる、「幻覚」や「妄想」ということとは、随分と不均衡なものとなる。また、前回の「内在性解離」の問題でもみたように、通常の、いわゆる「正常」な状態が、「統合状態」といえるのかどうかということも、非常に怪しいのである。

むしろ、本来からいえば、普通は「通常」の状態として考えられている、「内在性解離」のために「統合状態」が発揮されないような状態こそ、「統合失調症」と呼ぶにふさわしいものといえる。「精神分裂病」に対して、この名称を与えることは、誤解の元ともなる。(もっとも、「分裂病」という言い方にしても、「多重人格障害」のような強度の「解離」と混同される可能性を含んでいたので、一概に、「統合失調症」という名称のみを誤解の元というわけにはいかないが。)

また、「分裂」という言い方が、衝撃的に過ぎ、回復困難なイメージを与えるという点は、必ずしもそうとは言えないはずである。神秘学者のルドルフ・シュタイナーも、『いかにして超感覚的な世界の認識を獲得するか』で、思考・感情・意志の自然な統合は、より高い統合のため(端的に言えば、「それらを自在に使えるようになるため」)、一旦は「分裂」する「必要」があることを述べている。実際、「分裂」という表現には、単に元の状態を超えた、より高度の「統合」のための、根本的な「組替」という意味合いも、含みみることができる。それに対して、「統合失調」という言い方は、あくまで、「元の状態=統合」に戻ることのみが、是とされているかのようである。

まあ、いずれにしても、私としては、別に「名称」に拘るつもりはないのだが、何度か述べたように、もし名称を変えるなら、病名そのものよりも、「幻覚」とか「妄想」という言葉を変えることの方が、よほど重要で必要なことだというのである。

「幻覚」とは、「現実にはないものを知覚すること」とされ、「妄想」とは、「現実にないものをあると確信すること」とされる。実際、この「言葉」自体が、何か、通常では「あり得ない」、ことさら「異常な」状態を、際立たせているのである。つまり、この「言葉」は、通常は、「現実でない」ことが分かるばすのものを、「統合失調症者」は、「病気」のために「分からない」という、「信じがたい」状態にある、ということを、暗にというより、ほとんど明示的に、示しているのである。どう取り繕おうと、この「言葉」がもつ含意は、そういうものであることは否定できないはずである。

しかし、この言葉は、「言い換えられる」ことはおろか、その本質的な意味合いが、「見直される」ことすらない。

これは、明らかに、「分裂病」という強い表現を避けて、「統合失調症」と言い換えようとする発想とは、矛盾するものである。

しかし、実際のところは、この「幻覚」とか「妄想」ということこそ、それが、「異常」な現象で、「病気」であることの、端的な「指標」のようなものとなっている。だから、それは、一般にも、「異常」であることの、端的に「通じやすい」、「幻覚」とか「妄想」という言葉の方が、都合がいいのである。

そこで、実際には、そう容易く、この言葉が見直されたり、変えられることなど、あり得ないのである。

その意味では、やはり、「統合失調症」という名称の言い換えは、実質的な面は見過ごす、「ごまかし」の感が強い。

また、さらに重要なことは、この「言葉」と、それに纏わりつくイメージは、実際に病的状態に陥って、それを体験する者にとって、大きな惑わしとなることである。これも何度も強調したことだが、「幻覚」(特に幻聴の「声」)は、現実(の声)と、ほとんど同じように見える(聞こえる)ものである。ところが、「幻覚」とか「妄想」という「言葉」自体が、それが「現実」のものとは大きく掛け離れたものであることを、イメージさせる。

つまり、現実に、「幻覚」状態に陥った者は、それを、「幻覚」と認識することは、非常に困難になるのである。それは、何も「病気のせい」という前に、割と単純な、「言葉」と「実際」との「齟齬」の問題なのである。それで、結局、それは、「幻覚」であるはずはなく、「現実」であるという判断の方へと傾かせてしまう。それが、また、「妄想」の元となるのである。

だから、「幻覚」とか「妄想」という「言葉」自体が、既に、実際にその状態に陥る者にとって、混乱の元なのである。

そういう訳で、私は、「統合失調症」という言葉を使う気にはなれず、今までは、あえて「分裂病」という表現を使って来た。が、もはや「統合失調症」という呼び方は、一般にも、十分定着した観があるし、それが、それまでの「分裂病」を指すこと自体には、ほとんど誤解もない状況になっていると思う。今後は、「分裂病」という言葉を使う方が、かえって、混乱をもたらしかねないかもしれない。

それで、今後は、まくまで「言葉」の問題としてだが、「統合失調症」という言葉を使うことにしたいと思う。

2011年5月18日 (水)

「人格解離」

前に取り上げた、『マイナスエネルギーを浄化する方法』(記事 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-7dc0.htmlの著者、精神科医小栗康平の第2段が出ている。『人格解離』(アールズ出版)という本である。

前著では、人間の霊による「憑依」を中心に述べていて、「内在性解離」には触れる程度だったが、今回は、この「内在性解離」を中心にして述べている。

「解離」には、2種あって、「多重人格障害」のように、はた目にも、人格の「解離」がはっきり分かるほど、表面化しているものと、周りの者も、本人も意識していないことが多いが、「解離」した人格が、本人の無意識の内部に潜伏しているものがある。この後者が、「内在性解離」である。

私も、これまでにも、「解離」については、何度も述べて来たし、この「内在性解離」についても、ほとんどの者は、内部に「解離」した「複数の人格」をもっているということで、述べて来た。

「解離」そのものは、強いストレスや虐待など、「自己」が危機的な状況にあるときに、自己の人格を分離させて、その人格にその状況を負わせることによって、真の「自己」または「自己全体」を、防衛しようとする試みである。本来は、「防衛反応」であり、自己が全体として壊れてしまわないための、一つの「テクニック」ともいえる、しかし、それが繰り返されると、「解離」した「人格」そのものが、自己の統合を脅かし、さまさまな問題を引き起こすことになる。

著者は、「内在性解離」は、それ自体が、「病気」というわけではないが、「うつ」や「パニック障害」、「境界性人格障害」などの基礎になるともいう。

「統合失調症」が出て来ないが、これについては、前にも触れたとおり、「分裂気質」の者は、「解離」とは相容れ難い傾向があって、むしろ、危機的状況で、「解離」のような柔軟な対応が苦手であるために、「自己」が全体として崩壊しやすいのだともいえる。ただし、「解離」と「統合失調症」が、混交すること自体は、いくらもあるというべきである。

恐らく、この「内なる複数の人格」にも、さまざまな程度があって、誰もが、あるレベルの、分離した複数の人格を抱えているのである。しかし、「内在性解離」というのは、それが呼び出されたときに、一つのまとまった「個性」としての性格を帯びる程度に、十分に「分離」された「人格」というように解してよいだろう。

実際、この本では、タッピングという方法により、「内在性解離」の「人格」を呼び出して、これを諭すことにより、全体として、解離する以前の「基本人格」と「統合」するという治療の実際を、詳しく紹介している。そこでは、呼び出された、「解離した人格」は、特定の「名前」をもち、はっきりとある「個性」を露わにする。多くの場合、その「人格」は、「基本人格」から分かれ出たものであることを、自ら認識しているようである。その「基本人格」は、幼児期には、もはや「解離」している場合が多く、胎児の時点で、既に「解離」する場合もあるということは、多少とも驚きである。

このようにして呼び出される「解離した人格」とは別に、「憑依霊」が現れることもあるが、その違いについても、明らかにされている。「憑依霊」は、様々に対話すると、「基本人格」から分かれ出たものではなく、全くの「他者」であることが、明らかになることが多いのである。その場合には、前著のように、「浄霊」(納得のうえ「あの世」に帰す)ということが行われる。

一つの驚きは、このようにして、現れ出た「解離した格」が、思いのほか素直なことが多く、著者の「諭し」に素直に従って、「基本人格」との「統合」をすんなりと受け入れ、実際、そのような結果になるとみられることである。(もっとも、最後には、いくつか「統合」に失敗した事例も紹介されている。)

これに対しては、私は、いくらか疑問も持つが、そうなることにも、いくつかの納得できる理由はある。まず、「内在性解離」は、「多重人格障害」とは違って、そもそも、「解離した人格」同士や「基本人格」との対立が、それほど激しくない場合と思われること。また、著者は、片岡という霊能者の「浄霊」のノウハウから、学んでいるので、その諭しのテクニックも、実践を踏まえた、実質的なもの(その「人格」を、ないがしろにではなく、一つの独立した「霊」と同じように扱うということ)と思われること。さらに、著者自身も認めるように、このような「統合」は、何も恒久的なものが目指されている訳ではなく、いわば「とりあえず」のものであり、従って、後に、また「解離」してしまう場合もあることが想定されていることなどである。

ただ、この「統合」という結果には、本人自身がそれを自覚することの他に、必ず「知覚」が鮮明になるという現象が伴っていることは興味深い。これは、例えば、瞑想をした後に、感じられるものと同じと解されるし、「体外離脱」をして、身体に戻って来たときに感じられることとも同じと解される。「体外離脱」は、それ自体が「解離」と解されることも多いが、むしろ、「統合的」な行為である場合も多いのである。

いずれにせよ、そこに、一定の「統合」の効果が認められること自体は、確かなことのようである。このような「内在性解離」の治療法は、医師の間でも一定の注目を集めているようであり、これが広まることは、「解離」の問題はもちろん、「憑依」の問題への興味も喚起することにつながるであろう。それを通して、さらに、こういったことへの議論が深められることにもなれば、よいのである。

私自身も、多少通常の解離とは違うようだが、(前に幼稚園時代の記憶を通して述べたように)「解離」への傾向自体は強い方だと思われ、分裂病との関連でもいろいろと考えさせるものがある。さらに言うと、カスタネダのドンファンや、ミゲル・ルイスも示唆するように、虐待による「解離」は、「捕食者」的な存在が人間を「コントロール」する一つの重要な契機となるという点でも、見逃せないのである。

また、そもそも、「解離」という、人格の分離などというこどか起こるということは、「人格」とはそもそも何なのか。あるいは、「自我」といった一つの枠組は、一見正当な根拠があるようにも思えるが、それが分離されたり、統合されたりするということになると、果たして、その根拠とはどのようなものなのかといった、かなり根源的な問題をも喚起する。

このような、個々の問題については、いずれまたもっと深く追求することであろうが、ここでは、最後の「根源的な問題」について、少しだけ触れておくことにしよう。

「多重人格障害」の場合もそうだが、恐らく、多くの者は、このような「解離した人格」が、「名前」をも持ち、普段表に現れる人格とは全く異なる、「独立の」人格であるかのように振る舞うことに対して、驚きを隠せないだろう。「多重人格」というのが、一種の「演技」のように解され、ずっと信じられないで来たことも、頷けるというものである。

何しろ、「人格」というものは、「分離」できるということであり、「分離」した場合にも、あるまとまった「個性」をもち、「人格」としての性格を失わないのである。このようなことは、そもそも「人格とは何か」ということを、改めて考えさせずにはおかない。

基本的には、やはり、「人格」というのは、決して「抽象的」で「実体のない」ものではなく、ある種の「実体」または「エネルギー」として、それ自体の「内実」をもつということである。しかし、同時に、それは、「不変」のものなどではなく、一定の仕方で、「分離」したり「統合」したりすることができるものである、ということでもある。これは、仮に、「魂」のようなものとして想定できるが、しかし、それは、決して、「分割不能な実体」などではなく、それとしての、不動の「同一性」があるというものでもないのである。

たとえば、神社などに勧請される「神々」は、本社から、「分霊」という形で、まさに本体から分離されて、祀られる。しかし、それのことによって、「本体」の「霊」は減少するわけでもないし、「分霊」も、決して、本体の「一部」ということなのではない。

いわば、「神の霊」は、それ自体を減ずることなく、無限に増殖することができるかのようである。しかし、「神の霊」は、(「神体」というのは、仮にそれが宿る物体のことに過ぎず)、「身体」ということで、枠づけられるものではないから、そのような「限定」なく、そのように増殖することも不思議ではないかもしれない。

しかし、人間の場合は、基本的には、「身体」によって区切られた「ある枠組」に対して、「一つの人格」というのが想定される。言い換えれば、それが、「自我」ということであり、それは枠づけられたものなので、「神の霊」のようには、増殖したり、分割しても、全体を失わないものではない。が、しかし、一定の範囲で「分離」すること自体は、(「神の霊」と同じように)可能ということである。そして、分離した場合、それは、元の「人格」ないし「自我」とは別のものとして、新たに生まれ出る。ただ、それが、「内在性解離」の場合は、いわば、もともとの身体と「同居」して、元の人格(基本人格)と同居するばかりか、むしろ、「主人格」となって、その者の「通常の人格」であるかのように振る舞うこともあるということである。

また、この「分離」した人格が、もし、誰か「他の者」のところへ、「飛んで」行って、
その者と同居すれば、それは、「生き霊」ということになる。つまり、「憑依」となる。その意味では、「内在性解離」も、(生き霊の)「憑依」も、元々「自己から」解離した人格か、「他者から」解離した人格かの違いがあるだけで、本質的な違いはないともいえる。

そのように、「人格」は「解離」するということだが、そこには、虐待的な事態や強いストレスなど、外部的な状況が関わることは確かであろう。しかし、それにしても、そもそも「人格」ないし「自我」は、それ自体を、「分離」する能力をもっているからこそ、それが可能となるということになる。そうすると、確かに、人間の場合、身体という一つの明確な指標があって、一つの「人格」という意味がはっきりしやすいが、しかし本来、そのような分離が可能である以上、その「一つの人格」ということにも、どれほどの「意味」ないし「根拠」があるのかということも問題となって来る。

そもそも、生まれる前からあるとされる「基本人格」も、本当に、元々の「一つの人格」なのか、あるいは、それ自体も、ある種の「分離」によって生まれた「解離した人格」という可能性もあるのではないか、ということも問題となって来るのである。

但し、特に現代のような環境では、既に述べたように、多くは幼児期、時によっては胎児の時から、「解離」して、さらに度々「解離」を繰り返して、内部に、多くの「人格」を作り出すことが多いのである。とすれば、既に、幼いうちから、元々の人格は、ドンファン風に言えば、「片隅に追いやられている」のであり、著者も、「解離」によって「基本人格」は、「眠ったようになる」と言うように、元々統合的な行動をとることなど、難しい状況にあるということを意味している。

先程述べた疑問というのは、一つには、このような状況では、容易に「統合」など起こり得ないのではないか、ということがある。また、私の視点からは、そのような「解離した人格」は、「捕食者」と手を結んでいる場合も多いので、なおさらである。

何しろ、「解離」の問題も、「分裂(統合失調)」とはまた違った意味で、非常に根源的な問題につながってくるのである。著者のような試みは、興味深く、さらに今後の成り行きも、見守って行きたい。

2011年5月12日 (木)

カスタネダと「ヤノマミ」の著者の例

前回、「シャーマニズム」を理解するのに、「未開」というイメージが障害になっていることを述べた。こういったことは、生まれついた「文明社会」の中で身についた「信念体系」によるので、いくら個人的に「努力」しても、容易には覆すことができない面がある。それを覆すには、単なる「カルチャーショック」ということを超えた、何か、強烈な体験が必要になるはずである。

今回は、今までにもとり上げた中から、そういった体験の例を二つほど挙げてみたい。

一つは、カスタネダの例で、これは、私も好きな場面である。(『呪師に成る』93頁)

カスタネダは、アメリカUCLAの人類学の研究生で、ネイティブの幻覚性植物に関する「知識」に興味を持っていて、その研究をしたいと考えていた。そこで、そのインフォーマントとして紹介されたのが、ドンファンというヤキ・インディアンの老人だった。しかし、彼は、決して、ネイティブの文化そのものに、強くひかれていた訳でも、ましてや、そこで行われている「知の体系」を、実践的に学んでみようなどという気があった訳ではなかった。

カスタネダは、ドンファンに出会ったときから、彼の独特の魅力にひきつけられ、心を見透かすような目に威圧されたりして、ドンファンへの興味を膨らませていった。ドンファンの話は、「自尊心をなくす」とか「カラスの鳴き声を前兆として聞く」など、彼からすれば、奇抜で、興味をそそるものだった。ドンファンは、本気で、カスタネダに、彼の「知の体系」を学ばせるつもりでいるようだった。しかし、カスタネダからすれば、基本的には、ドンファンの話を聞くことも、研究上の手続のようなもので、それ以上のものではなかった。

そんなあるとき、ドンファンは、ふと、マジメな表情で、カスタネダに鋭く尋ねて来た。
「お前と私は平等だと思うか?」
不意をつかれたカスタネダは、一瞬戸惑ったが、取り繕って言った。「もちろん平等さ。ドンファン」しかし、ドンファンは、静かに言う。「いや、わしらは平等ではないな」。あわてたカスタネダは、「いや、絶対そんなことはないよ。ドンファン、平等に決まってるじゃないか」とまくし立てた。

カスタネダは、確かに、これまでのドンファンとの交流から、彼に対して、畏敬の念を持っていた。しかし、心の底では、「文明人」であり、洗練された学生である自分の方が、インディアンである彼より「上」であることを疑うことはなかったのだ。

しかし、ドンファンは、断固たる口調で言った。

いや平等ではない。なぜなら、私は<狩人>で<戦士>だが、お前はただの<下郎>だからだ。」

この言葉に、カスタネダは強烈な衝撃を受けた。全く、思っていたことを、根底から覆されたようなものだ。カスタネダは、ドンファンがそんなことを言うなんて、信じられなかった。しばらくは、怒りではち切れんばかりになった。しかし、その後、ドンファンは、諭すように、「カスタネダが確かに誰かの<下郎>をしていること。自分自身のではなく、誰か知らない者の闘いをしていること。植物のことや他の何事も、本当には学びたいと思っていないこと。ドンファンの正確な行動、感覚、決断といった世界は、カスタネダのへまな白痴的世界よりはるかに有効な世界であること」などを説明した。

怒りが治まったカスタネダは、これを受け入れざるを得なかった。ドンファンと一緒にいた何日かの経験で、心のどこかでは、そのことを分かっていたのだ。

この時の衝撃がきっかけとなり、カスタネダは、以後、ドンファンから、本当に、「知の体系」を学ぶことになった。もっとも、カスタネダも、急に、全てが変わって、「優等生」になったわけではない。その心意気も、どこまで本気か怪しいもので、時々挫けることがあった。相変わらず、彼には、理解できないことが多過ぎ、何度か、止めようともした。

しかし、この時の、ドンファンの言葉の衝撃が、彼の文化的に身についた「信念体系」及び「自尊心」を、大きくつき崩したことは、間違いない。だからこそ、彼は、彼の「信念体系」からは大きく外れる、ドンファンの「知の体系」を「学ぼう」という気になったのだ。

もう一つは、『ヤノマミ』の著者、NHKのディレクター国分拓の例である。

国分らの取材チームは、奥アマゾンの「未開民族」で、文明人を拒否し、交流することをしないという「ヤノマミ」という民族のもとで、150日もの間、生活を共にするという体験をし、テレビ番組や本で紹介している。

本の調子は、全体として、淡々とした客観的記述が多く、あまり感情や主観的な思いを露わにはしていない。が、その記述の中にも、自ずと、ヤノマミと接するのに連れて、著者の見方や心情が変わっていくのが、反映されているのが分かる。

彼らは、初めから、「文明人」としての意識を持ち込むことを、極力抑えていたようにみえる。実際、そうでなければ、「文明人」を拒否するとされる民族と、150日にも及ぶ共同生活を計画することなどできないだろう。

しかし、とはいえ、事実上、「文明人」として身についた感覚なり、発想は、いやでも随所に現れている。著者が、極力その態度を保持しようとしていたとみえる、客観的な「観察」ということも、そもそもそれ自体が、「文明人」的な態度といえる。

そんな中、時に衝撃的なほど「死」や「暴力」が同居している、ヤノマミのあるがままの生活を間近に見、共にし、交流したり、シャーマンの教えを聞くなどしているうちに、本の終わりの方で、著者は、これまでの流れからすれば、いささか唐突な感じで、次のように述べている。

そこには、ただ<真理>だけがある

恐らく、この「真理」は、本当は、「裸のリアリティ」とか「生のリアリティ」などと表現した方が、より適当ではあるのだろう。著者がそこに「見た」ものは、シンプルな「事実」であって、決して、何か「理」的なものとして構成されるような、複雑なものではないからだ。

しかし、著者としては、やはり、「真理」という言葉がピッタリくる面もあったはずである。それは、つまり、そこで現に目の前にする「ヤノマミ」に比して、彼の属する「文化」ないし「文明」というものが、いかに「虚偽」に満ちたものであったかという感覚と、「対」になって生じたものだからだ。「真理」という言葉は、「虚偽」という感覚と対になって生じているはずなのである。

あるいは、その「虚偽」という感覚には、単に「文明人」ということだけでなく、NHKであっても(あるいはNHKであればこそ?)テレビマンとしての彼の日常の感覚も含まれていたのだろう。

彼は、このとき、「文明人」として、あるいは「日常」を通して、身についた「信念体系」の崩壊を、まざまざと経験していたはずなのである。

実際、著者は、この取材から日本に帰って来た後も、心身に不調を来して、「何かが壊れた」という感覚がずっと続いている、と告白している。それは、まさに、彼が、直接は述べられなかったが、ヤノマミに「真理」を見たことの反面としての、「虚偽」の世界へと帰還してしまったことへの、痛ましい「反応」だったともいえるわけである。

2011年5月10日 (火)

「狂気をくぐり抜ける」の継続

「さるさる日記」にて綴っていた、『狂気(分裂病)をくぐり抜ける』http://www5.diary.ne.jp/user/503535/ をこちらにて、継続いたします。

過去のログは、主だったものを順次転載していきます。

2011年5月 2日 (月)

「シャーマニズム」への「違和感」の理由

「分裂病」は、近代以前には、「憑きもの」とか「もの憑き」と呼ばれたわけだが、紹介した、『日本の憑きもの』は、主に江戸期以降の「憑きもの筋」を扱ったものである。それは、「憑きもの」とか「もの憑き」のある一面を扱ったものだが、それはそれで、「集団」における、独特の「人間模様」や「知恵」がみられ、興味深いものだった。

しかし、「憑きもの」とか「もの憑き」について、もっと古くのものから、普遍的に捉えようとするならば、「人間と霊的存在との交流」の最も原初的なあり方を示す、「シャーマニズム」を抜きにしては、あり得ない。

この「シャーマニズム」についても、フィールドワークに基づいた、様々な例を挙げて、分かりやすく、それなりに踏み込んだ解説をしている、『シャーマニズム』(佐々木宏幹著・中公新書)という本がある。

実は、私は、この本を、一連の「分裂病的体験」をする、しばらく前に読んでいた。「シャーマニズム」への興味は、一つは、いわゆる「未開社会」への興味と重なっており、もう一つは、カルロス・カスタネダを通して、「精霊」と交流する「シャーマン」というものに、興味を持ったことにもよっていた。

しかし、初め、この本を読んだときの感想は、それなりに印象深くはあったけれども、どこかピンと来ず、違和感も多いものだった。実は、カルロス・カスタネダの本にしても、もちろん面白く、強い印象は受けていたが、やはり、似たような、違和感があったのである。これは、今思えば、要するに、「シャーマニズム」というものが、今一つ、肌で「ピンと来ない」、「分からない」といった感覚のためだったと思う。

ところが、一連の「分裂病的体験」をする状況になると、それが全く、逆転してしまった。カスタネダにしても、『シャーマニズム』でとり上げていた様々な例にしても、それらが、いかに「本当のこと」で、「ありのまま」が記されたものか、肌で実感することになった。「ピンと来ない」どころか、痛いほど、「よく分かる」ものとなってしまったのだ。

そして、だからこそ、恐らく、多くの者にとっては、カスタネダにしても、この「シャーマニズム」にしても、実際に経験しない限り、かつての私と同じように、違和感を抱き、「分からない」ものであり続けるだろうことが、予想される。その意味では、本当は、このような本を紹介しても、あまり「意味」のないことになりそうである。

しかし、今回は、私が、かつてそのように思ってしまったのは、どうしてだったのか、つまり、「シャーマニズム」の「分かりにくさ」や「違和感」の理由というものを、改めて明らかにすることで、いくらかでも、「シャーマニズム」、さらには「分裂病」の理解に資することにしたい。

1 「シャーマニズム」の「分かりにくさ」の大きな理由の一つは、「精霊」という存在の「分かりにくさ」そのままが、反映されているということである。

「シャーマニズム」にも、「人霊」との交流や「憑依」を中心とするものがあり、それらは日本の、「農耕民的」な祖先崇拝の伝統からいっても、ある程度なじみやすく、理解しやすいものだろう。あるいは、最近は、「スピリチュアリズム」などを通して、そのような人間についての、霊的な面の「知識」も、相当に知れわたっているので、そういった面については、「シャーマニズム」も、決して「分かりにくい」ものではないはずである。

しかし、「シャーマニズム」には、必ず、非人間的な「精霊」との交流というものがつきまとう。特に、「狩猟民的」なシャーマニズムではそうである。『シャーマニズム』では、「脱魂型シャーマニズム」として紹介されている。単に、「霊的存在」の方から、「シャーマン」に「憑依」して、言葉などを伝えるのではなく、「シャーマン」の方から、「脱魂」して、自ら「精霊的存在」に近づいて、さまざまな知識を得たり、ときには、それらを、こちらの目的のために、「動かし」たりするのである。いわば、「受動的」ではなく、「積極的」な「シャーマニズム」といえる。

そして、実は、既にみてきた、江戸期以降の「憑きもの筋」というのも、そのような「動物的精霊」を「操る」のだから、こういった、「狩猟民的なシャーマニズム」の名残りなのである。そして、まさに、そういったものへの、「なじみのなさ」というか、「分からなさ」というのが、一般の「農耕民的」な集団からは、差別される大きな理由となったといえるのである。

私自身、一連の体験のときまでは、そのような「狩猟民的」な「シャーマニズム」とか、「精霊」という存在には、まったくなじみがなかった。それで、現に、それらと接する状況となったときには、その人間的な「みかけ」にも拘わらず、人間的な観点からは、全く「つかみ」切れない、「訳の分からなさ」に相当混乱させられた。

が、それらは、要するに、人間的な「論理」とか「情」というものに、収まる切るものではない、ということであり、もっと、原初的で、枠づけがたい「エネルギー」に、満ちた存在であるということなのである。だから、そのようなものに、人間が、無闇に、直接触れれば、「破壊的」な影響を被る可能性がある。それらは、いわば、「自然」そのものの、荒々しさとか、「力」を体現しているものともいえる。

カスタネダに出て来る「精霊」も、まさにそうで、カスタネダを散々、「死の縁」に連れて行くような、恐ろしい目に遭わせている。後にみるように、狩猟民的なシャーマンが、試練として、接する「精霊」もそうである。が、このような、理解しがたい、「精霊」という存在について、何の「リアリティ」も持てないとすれば、こういった記述に、「リアリティ」が持てるはずはなく、「違和感」が先に立つに決まっているのである。

しかし、同時に、このような「精霊」は、「手なづける」ことさえできれば、こちらの「意を汲んで」「力」になってくれる存在でもある。まさに、「憑きもの筋」の「操る」「犬神」や「狐」のようにである。カスタネダでも、「精霊」と一体となることができれば、それは、以後「盟友」として「力」になる、ということが言われる。

こういった、「危険な力」との交流は、「自然」の領域から離れて、日常的に農耕生活に従事する、一般の農耕民からすれば、なじみにくく、恐ろしいものであるのは、確かであろう。そして、まさに、我々の「シャーマニズム」に対する「分からなさ」や「違和感」というのも、こういった、「農耕民的」な発想の延長上にあるものといえるのである。

2 次に、「シャーマニズム」の理解しにくさには、それが、「未開文化」のものというイメージとも、大きく重なっていると思われる。

「シャーマニズム」そのものは、「文明社会」にも受け継がれてはいるが、そこでは、それも、様々に制度化されたり形骸化されたりしていることが多い。それが、最も「あるがまま」の、「裸」の形で現れているのは、やはり、「未開文化」においてというべきである。

そもそも、「未開文化」というのは、我々「文明人」の観点からは、「理解」できないものをいろいろと持っている。「シャーマニズム」というのも、そのようなものの一つで、そもそも「未開文化」が「訳の分からない」ものなのだから、その文化の中の「シャーマニズム」も「訳の分からない」ものであって当然である。といったように、「未開」ということの「イメージ」が、「訳が分からない」ということの、大きな要因として作用していると思われる。

要するに、「未開」=「非論理的」なので、「シャーマニズム」というのも、「非論理的」で、そもそも「分かり得る」ようなものではない、という理解ともつかぬ「理解」をもたらすのである。そこでは、「好奇心」こそ刺激されることがあっても、初めから、大きな「距離感」があり、「違和感」というものを、感じないはずはない。

「未開社会」に対する「イメージ」というのは、結局、「文明社会」あるいは「近代社会」についての「イメージ」と「対」になっているといえる。「文明社会」あるいは「近代社会」=「理性に基づいた、進歩した社会」であれば、「未開社会」=「非理性的で、遅れた社会」、「迷信が支配する社会」ということになってしまう。

「近代社会」が見直されるようになってからは、人類学者レヴィ=ストロースのように、「未開社会」も、独自の「論理」と「構造」に貫かれた、「知的」な「文化」であることが、明らかにされて来た。

とはいえ、やはり、「現代の文明」という視点から見れば、どうしても、その「訳の分からなさ」は、「非理性的」とか、「幻想的」とかということで、納得するほかないというのは、致し方ない面がある。私自身も、「未開社会」には一定の興味を持ちつつも、やはり、「シャーマニズム」には、そういった意味での「違和感」というか、「距離感」みたいなものがあったわけである。

しかし、今では、逆に、極端に言えば、「未開社会」の方が、現代文明より「優れている」という見方になる程に、「シャーマニズム」というものが、いかに、「真実」を「反映」しているかというのが、実感として「分かる」ようになった。先のような見方は、結局、「未開」という「イメージ」そのものに、惑わされたものに過ぎない、ということなのである。

3 最後に、「シャーマニズム」では、「シャーマン」が、「精霊」的存在と交流する過程で、様々な「試練」(イニシエーション)を受ける。が、それが、いかにも、「おどろおどろし」く、「壮絶」であるということが、「違和感」というより「嫌悪感」にすら、なっているということがあげられる。

テレビ番組などを通して、そのような「試練」の一部を、見たことのある者も多いだろう。それは、ほとんど「非人間的なもの」と言ってよく、「血」や「犠牲」を伴うこともある。その者は「発狂」そのものといった、「異様」な様相を示す。まさに、そこにうかがわれるのは、「死」と「狂乱」そのものである。何故に、そんなことが行われるのか、人は理解に苦しむ。

カスタネダも、まさに、「精霊」によって、そのような「試練」を繰り返し受けて、何度も「死ぬ」目に遭っている。また、これまで何度も触れて来たように、このような「試練」の最中、「シャーマン候補者」は、幻覚、精神錯乱など、「分裂病的状況」と酷似する状況を露わにする。それは、まさに、「精霊」という、人間が制御しがたい「力」との「格闘」である。「分裂病」は、近代以前には、「シャーマニズム」を抜きにしては捉えられないと言ったが、このような「試練」(イニシエーション)こそが、その中核をなすものなのである。

前にみたように、沖縄のユタの「カミダーリ」もまた、そのような試練の一つである。「カミダーリ」は「神がかり」と関連する言葉と思われるが、この「神がかり」こそ、近代の視点からは、異様な「病的状態」なのであり、「分裂病的状態」そのものということになってしまう。

私は、「くぐり抜ける」という言い方で言っているが、こういうことも、やはりどうしても、実際に「くぐり抜け」てみて、初めてその「意味」または「必要性」が分かる、という性質のものと言うほかない。恐らく、ユタを初め、多くのシャーマンも、それを「受けている」時には、全く、理解しがたいもので、それらを通り越してみて、初めて、それらが「必要」なものであったことを、深く認識することになるはずなのである。

しかし、一般には、そういったことの「意味」を、予め「理解」してもうことなどは、ちょっと無理な話である。

そういう訳で、一般に、この『シャーマニズム』(または関連の本)を、単なる知的な興味で読むことは可能かもしれないが、実際に、そこで行われていることを、「違和感」なく、受け入れたり、理解したりすることは、難しいと思われる。が、しかし、実は、それこそが、「分裂病」に対する「違和感」や「恐怖」とも、通底するものなのである。だから、それは、ある意味で、「試金石」のようなものにもなる。

そこに「違和感」を感じることは当然としても、もし、その「違和感」そのものを、ある程度でも、「理解」することができたら、それは、「分裂病」についても、多くのものを、「理解」することにつながるはずなのである。

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