前に取り上げた、『マイナスエネルギーを浄化する方法』(記事 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-7dc0.htmlの著者、精神科医小栗康平の第2段が出ている。『人格解離』(アールズ出版)という本である。
前著では、人間の霊による「憑依」を中心に述べていて、「内在性解離」には触れる程度だったが、今回は、この「内在性解離」を中心にして述べている。
「解離」には、2種あって、「多重人格障害」のように、はた目にも、人格の「解離」がはっきり分かるほど、表面化しているものと、周りの者も、本人も意識していないことが多いが、「解離」した人格が、本人の無意識の内部に潜伏しているものがある。この後者が、「内在性解離」である。
私も、これまでにも、「解離」については、何度も述べて来たし、この「内在性解離」についても、ほとんどの者は、内部に「解離」した「複数の人格」をもっているということで、述べて来た。
「解離」そのものは、強いストレスや虐待など、「自己」が危機的な状況にあるときに、自己の人格を分離させて、その人格にその状況を負わせることによって、真の「自己」または「自己全体」を、防衛しようとする試みである。本来は、「防衛反応」であり、自己が全体として壊れてしまわないための、一つの「テクニック」ともいえる、しかし、それが繰り返されると、「解離」した「人格」そのものが、自己の統合を脅かし、さまさまな問題を引き起こすことになる。
著者は、「内在性解離」は、それ自体が、「病気」というわけではないが、「うつ」や「パニック障害」、「境界性人格障害」などの基礎になるともいう。
「統合失調症」が出て来ないが、これについては、前にも触れたとおり、「分裂気質」の者は、「解離」とは相容れ難い傾向があって、むしろ、危機的状況で、「解離」のような柔軟な対応が苦手であるために、「自己」が全体として崩壊しやすいのだともいえる。ただし、「解離」と「統合失調症」が、混交すること自体は、いくらもあるというべきである。
恐らく、この「内なる複数の人格」にも、さまざまな程度があって、誰もが、あるレベルの、分離した複数の人格を抱えているのである。しかし、「内在性解離」というのは、それが呼び出されたときに、一つのまとまった「個性」としての性格を帯びる程度に、十分に「分離」された「人格」というように解してよいだろう。
実際、この本では、タッピングという方法により、「内在性解離」の「人格」を呼び出して、これを諭すことにより、全体として、解離する以前の「基本人格」と「統合」するという治療の実際を、詳しく紹介している。そこでは、呼び出された、「解離した人格」は、特定の「名前」をもち、はっきりとある「個性」を露わにする。多くの場合、その「人格」は、「基本人格」から分かれ出たものであることを、自ら認識しているようである。その「基本人格」は、幼児期には、もはや「解離」している場合が多く、胎児の時点で、既に「解離」する場合もあるということは、多少とも驚きである。
このようにして呼び出される「解離した人格」とは別に、「憑依霊」が現れることもあるが、その違いについても、明らかにされている。「憑依霊」は、様々に対話すると、「基本人格」から分かれ出たものではなく、全くの「他者」であることが、明らかになることが多いのである。その場合には、前著のように、「浄霊」(納得のうえ「あの世」に帰す)ということが行われる。
一つの驚きは、このようにして、現れ出た「解離した格」が、思いのほか素直なことが多く、著者の「諭し」に素直に従って、「基本人格」との「統合」をすんなりと受け入れ、実際、そのような結果になるとみられることである。(もっとも、最後には、いくつか「統合」に失敗した事例も紹介されている。)
これに対しては、私は、いくらか疑問も持つが、そうなることにも、いくつかの納得できる理由はある。まず、「内在性解離」は、「多重人格障害」とは違って、そもそも、「解離した人格」同士や「基本人格」との対立が、それほど激しくない場合と思われること。また、著者は、片岡という霊能者の「浄霊」のノウハウから、学んでいるので、その諭しのテクニックも、実践を踏まえた、実質的なもの(その「人格」を、ないがしろにではなく、一つの独立した「霊」と同じように扱うということ)と思われること。さらに、著者自身も認めるように、このような「統合」は、何も恒久的なものが目指されている訳ではなく、いわば「とりあえず」のものであり、従って、後に、また「解離」してしまう場合もあることが想定されていることなどである。
ただ、この「統合」という結果には、本人自身がそれを自覚することの他に、必ず「知覚」が鮮明になるという現象が伴っていることは興味深い。これは、例えば、瞑想をした後に、感じられるものと同じと解されるし、「体外離脱」をして、身体に戻って来たときに感じられることとも同じと解される。「体外離脱」は、それ自体が「解離」と解されることも多いが、むしろ、「統合的」な行為である場合も多いのである。
いずれにせよ、そこに、一定の「統合」の効果が認められること自体は、確かなことのようである。このような「内在性解離」の治療法は、医師の間でも一定の注目を集めているようであり、これが広まることは、「解離」の問題はもちろん、「憑依」の問題への興味も喚起することにつながるであろう。それを通して、さらに、こういったことへの議論が深められることにもなれば、よいのである。
私自身も、多少通常の解離とは違うようだが、(前に幼稚園時代の記憶を通して述べたように)「解離」への傾向自体は強い方だと思われ、分裂病との関連でもいろいろと考えさせるものがある。さらに言うと、カスタネダのドンファンや、ミゲル・ルイスも示唆するように、虐待による「解離」は、「捕食者」的な存在が人間を「コントロール」する一つの重要な契機となるという点でも、見逃せないのである。
また、そもそも、「解離」という、人格の分離などというこどか起こるということは、「人格」とはそもそも何なのか。あるいは、「自我」といった一つの枠組は、一見正当な根拠があるようにも思えるが、それが分離されたり、統合されたりするということになると、果たして、その根拠とはどのようなものなのかといった、かなり根源的な問題をも喚起する。
このような、個々の問題については、いずれまたもっと深く追求することであろうが、ここでは、最後の「根源的な問題」について、少しだけ触れておくことにしよう。
「多重人格障害」の場合もそうだが、恐らく、多くの者は、このような「解離した人格」が、「名前」をも持ち、普段表に現れる人格とは全く異なる、「独立の」人格であるかのように振る舞うことに対して、驚きを隠せないだろう。「多重人格」というのが、一種の「演技」のように解され、ずっと信じられないで来たことも、頷けるというものである。
何しろ、「人格」というものは、「分離」できるということであり、「分離」した場合にも、あるまとまった「個性」をもち、「人格」としての性格を失わないのである。このようなことは、そもそも「人格とは何か」ということを、改めて考えさせずにはおかない。
基本的には、やはり、「人格」というのは、決して「抽象的」で「実体のない」ものではなく、ある種の「実体」または「エネルギー」として、それ自体の「内実」をもつということである。しかし、同時に、それは、「不変」のものなどではなく、一定の仕方で、「分離」したり「統合」したりすることができるものである、ということでもある。これは、仮に、「魂」のようなものとして想定できるが、しかし、それは、決して、「分割不能な実体」などではなく、それとしての、不動の「同一性」があるというものでもないのである。
たとえば、神社などに勧請される「神々」は、本社から、「分霊」という形で、まさに本体から分離されて、祀られる。しかし、それのことによって、「本体」の「霊」は減少するわけでもないし、「分霊」も、決して、本体の「一部」ということなのではない。
いわば、「神の霊」は、それ自体を減ずることなく、無限に増殖することができるかのようである。しかし、「神の霊」は、(「神体」というのは、仮にそれが宿る物体のことに過ぎず)、「身体」ということで、枠づけられるものではないから、そのような「限定」なく、そのように増殖することも不思議ではないかもしれない。
しかし、人間の場合は、基本的には、「身体」によって区切られた「ある枠組」に対して、「一つの人格」というのが想定される。言い換えれば、それが、「自我」ということであり、それは枠づけられたものなので、「神の霊」のようには、増殖したり、分割しても、全体を失わないものではない。が、しかし、一定の範囲で「分離」すること自体は、(「神の霊」と同じように)可能ということである。そして、分離した場合、それは、元の「人格」ないし「自我」とは別のものとして、新たに生まれ出る。ただ、それが、「内在性解離」の場合は、いわば、もともとの身体と「同居」して、元の人格(基本人格)と同居するばかりか、むしろ、「主人格」となって、その者の「通常の人格」であるかのように振る舞うこともあるということである。
また、この「分離」した人格が、もし、誰か「他の者」のところへ、「飛んで」行って、
その者と同居すれば、それは、「生き霊」ということになる。つまり、「憑依」となる。その意味では、「内在性解離」も、(生き霊の)「憑依」も、元々「自己から」解離した人格か、「他者から」解離した人格かの違いがあるだけで、本質的な違いはないともいえる。
そのように、「人格」は「解離」するということだが、そこには、虐待的な事態や強いストレスなど、外部的な状況が関わることは確かであろう。しかし、それにしても、そもそも「人格」ないし「自我」は、それ自体を、「分離」する能力をもっているからこそ、それが可能となるということになる。そうすると、確かに、人間の場合、身体という一つの明確な指標があって、一つの「人格」という意味がはっきりしやすいが、しかし本来、そのような分離が可能である以上、その「一つの人格」ということにも、どれほどの「意味」ないし「根拠」があるのかということも問題となって来る。
そもそも、生まれる前からあるとされる「基本人格」も、本当に、元々の「一つの人格」なのか、あるいは、それ自体も、ある種の「分離」によって生まれた「解離した人格」という可能性もあるのではないか、ということも問題となって来るのである。
但し、特に現代のような環境では、既に述べたように、多くは幼児期、時によっては胎児の時から、「解離」して、さらに度々「解離」を繰り返して、内部に、多くの「人格」を作り出すことが多いのである。とすれば、既に、幼いうちから、元々の人格は、ドンファン風に言えば、「片隅に追いやられている」のであり、著者も、「解離」によって「基本人格」は、「眠ったようになる」と言うように、元々統合的な行動をとることなど、難しい状況にあるということを意味している。
先程述べた疑問というのは、一つには、このような状況では、容易に「統合」など起こり得ないのではないか、ということがある。また、私の視点からは、そのような「解離した人格」は、「捕食者」と手を結んでいる場合も多いので、なおさらである。
何しろ、「解離」の問題も、「分裂(統合失調)」とはまた違った意味で、非常に根源的な問題につながってくるのである。著者のような試みは、興味深く、さらに今後の成り行きも、見守って行きたい。
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