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2011年4月 9日 (土)

「分裂病」と「憑きもの」

「犬神」や「狐」が「憑いた」者は、精神錯乱を起こし、幻聴や幻覚を見、あるいは、高く跳びはねたり、屋根に上るなどの奇行を起こし、「油揚げ」がほしいなどと叫んだりする。まさに、「発狂」するわけだが、ただし、それは、「祈祷師」などにより、「憑きもの落とし」をされることによって解消する。

と述べた。このような「憑きもの」に「憑かれる」という現象は、精神錯乱、幻聴や幻覚など、現在にいう「分裂病」の症状と似たところもあるが、全体として、やはり大きく異なるものである。

著者も、これは、集団の全員が、「憑きもの」の信仰を共有しているために起こる、一種の「集団ヒステリー」のような現象と解している。確かに、そうみるべき点が多く、これは、現在では「祈祷性精神病」とか、「解離性障害」などと呼ばれる、「神経症」の部類に属するものが多いはずである。「憑きもの落とし」によって、一時的な現象として「解消」する点でも、そういえる。

特に、高く跳びはねたり、屋根に上るなどの奇行を起こし、「油揚げ」がほしいなどと叫んだりする、というのは、―実際に、「狐」などが憑いたから、そのような行動を起こすという可能性はおいておいて―、「狐」に「憑かれる」と、そのような行動を起こすということが、一般によく知られているが故の、暗示を受けた、「ヒステリー」的な現象と解される余地が高いだろう。

しかし、やはり、そこには、現在では、「分裂病」へと発展し得るような、現象的には、「分裂病」の元というべきものも、あったと思われる。ただし、それは、「憑きもの落とし」という、村の集団的な「回復」のシステムにおいて、解消されるので、一時的なものとして、消息しているのである。

こういったことは、「分裂病」を取り巻く現在の状況と対比してみれば、十分頷けるものがある、というべきある。

「憑かれる」という現象ないし意識には、何か「外部的」なものが侵入して、乗っ取られるという感覚が伴うわけだが、現在では、そういうことを言えば、「妄想」という名のもとに、一蹴される。また、そこには、一種の「被害意識」を伴うわけだが、それも、現在では、「被害妄想」の名の下に、一蹴され、相手にされない。

ところが、日本の村の「憑きもの」では、そのようにして侵入する「外部的」なものには、「犬神」や「狐」といった、はっきりと「実体的」なものが「認めら」れ、村人全員にもそれが共有される。また、その「被害意識」にも、加害者としての「憑きもの筋」の者が、ちゃんと「用意さ」れ、村人全員に共有されている。「憑かれた」者は、決して、「妄想」などとして、誰にも相手にされずに、一人孤独な立場に、追いやられる訳ではないのである。このように、「周りの多くの者が事態を共有する」ということだけでも、その者に起こる、二次的、三次的な「症状」の拡大は、大きく抑えられるはずなのである。

さらに、「憑かれた」者は、実質的には、村の世間から、反感や妬み、嫉みをもたれた者である可能性があるが、しかし、それは、「憑きもの筋」という、いわば村全体に共通の「悪役」による、反感や妬み、嫉みからする「攻撃」ということに、「仮託」されて実現される。本人も、そこで、「憑かれた」原因を、明確に知り、納得するのである。(現在の「分裂病」であれば、「原因」も何も示されず、何も分からない、「未知の状態」をさ迷い続けることになる。)それで、祈祷師などの諭しを通して、その原因となった行いを認識し、改めれば、「憑きもの」も去っていって、その状態は、「解消」するわけである。本人も周りの者たちも、集団がらみで、そのようなことを、共通して、納得して受け止めるという点が、大きいと思われる。

「憑かれた」者は、初めから最後まで、「被害者」であることができ、その「世間」との「軋轢」も、多くの部分を「憑きもの筋」の家が担うことによって、自らが被る部分は、最小限で済まされる。「憑かれた」者は、そのことを集団的に認められたうえ、一応の「擁護」を受け、その負担も、最小限になるように、処置されるのである。それで、その状態が最終的に「解消」すれば、結果的にも、集団的な「秩序」の乱れの「解消」に役立ったものとさえみなされる。

このような「集団的な扱い」においては、元の現象としては、同じようなものでも、「分裂病」のような、収拾のつかない、手に負えない病状になることなく、解消することも、頷けると言うべきである。

しかし、このようなことは、「憑きもの筋」の家の大きな犠牲の上に成り立っているのも確かである。この「憑きもの筋」抜きには、このような「憑きもの」の「解消」ということも、考えられないのである。

前回、「憑きもの筋」とみなされる理由をいくつか上げたが、その一つに、元々、「犬神」や「狐」に「憑かれる」ことが多く、いわば、それを繰り返すうちに、その勢力圏に取り入れられて、「憑きもの筋」となったとなみなされる、というものもあったようである。

要するに、「憑かれる」側も「憑きもの筋」の側も、「犬神」や「狐」などの「動物的精霊」と関わりやすく、「親和性」があるという点では、共通する面があるわけである。そもそも、「憑きもの筋」とされる側も、「憑かれる」とされる側も、村全体との関係では、互いに、「異質」の者とされているということである。

「異質」というのも、要するに、前回みたように、村全体の「農耕民的な文化特性」という中にあっての、「狩猟民的」または「分裂気質」的な特性ということで、共通するものと解される。「犬神」や「狐」などの「動物的精霊」も、「狩猟民的文化」との強い関わりを思わせるもので、それは、狩猟民的「シャーマン」の「守護精霊」ともいえる。

だから、日本の「憑きもの」は、本来、ある種の共通の元にあるものが、このように、「憑く側」と「憑かれる側」とに分かれることによって、「憑かれる側」の「現象」が、最小限に止められているとみることもできる。

現在の「分裂病」では、このような「構造」はなくなっているから、一人が、この「憑く側」と「憑かれる側」の両方を体現しているともいえる訳である。


最後に、これまで私が分裂病の現象に大きく関わるものとしてあげた、「捕食者」との関連について述べたい。

これまで何度も述べてきたように、現在の「分裂病」の「幻聴」や「妄想」という現象にも、実際に、様々な「霊的存在」の影響が関っている可能性がある。この点では、近代以前に、普遍的なものとして認められた、「憑きもの」という捉え方には、やはり大きな理由がある。それらは、他者の「生き霊」または「エレメンタル」(「想念」の実体化したもの)であったり、「犬神」や「狐」であるかどうかは別にして、様々な「精霊的存在」であったりする。

ただ、私は、ある者に対して、表面的または直接的なレベルで関わるのは、それらの「存在」であっても、その背後で、「誘導」をしたり、「力づけ」を与えたりするのに、大きく影響を与えるのは、「捕食者」である場合が多いことを述べた。あるいは、私の場合のように、「捕食者」が直接前面に出て、関わる場合もあると思われる。それが、「分裂病」を、特別、扱いにくく、強烈なものにしているのに、一役買っている。

ところが、少なくとも、これまでみて来た、江戸期以降の「憑きもの」については、その背後に、「捕食者」のような存在を、みることは難しい。(あるいは、そのようなものは、「犬神憑き」や「狐憑き」とは区別されて、「悪霊憑き」などとして、別物扱いされていた可能性もあるが。)

これは、要するに、江戸期以降の「憑きもの」では、「憑かれる」側と「憑かせる」側とが分かれるが、「憑かせる」側としての「憑きもの筋」は、「憑きもの」の背後で、それらを操る「捕食者」の位置にあって、その役割をも、担わされたということがいえるのである。本来は、「憑きもの」の背後にある「力」は、「捕食者」のように、容易に人間の手に負えないものであるが、それが、人間である、「憑きもの筋」に、明確な形で、背負わされることによって、集団的にも、扱いやすく、御し易いもののようにされたということである。

もちろん、それにより、実際に「捕食者」の「力」が、骨抜きにされるわけではないが、そのような、集団的な「信念体系」ないし「解釈」で、集団的に「行動」することは、それなりの減殺の効果を発揮したはずなのである。

実際、「捕食者」とは、集団を「管理」する者でもあり、集団の秩序を保つ「権威」としての役目ももつ。「憑きもの筋」というのも、村の集団の秩序や掟を乱すと、「憑きもの筋」によって「憑きもの」を憑けられる(懲らしめられる)という形で、結果として、集団の秩序を保つ役割をも負ったのである。つまり、「憑きもの筋」は、まさに、「捕食者」のモチーフをも担って、それに変わる役目を負っていたといえるのである。

このような、「悪」の要素を担いつつ、集団の秩序を乱す者を懲らしめるという役割は、「なまはげ」に典型的にみられるが、それは、「捕食者」そのものを表象していることは、既に述べた。

あるいは、むしろ、これらは、逆からみるべきなのかもしれない。近代以前には、「憑きもの筋」のような具体的人間が、「憑きもの」の背後で力を発揮していたが、近代以降には、そのような役割を、担う人間はいなくなった。そこで、その役目をも、「捕食者」が直接負うようになったと言った方が、正解かもしれない。近代以降には、霊的なものや、「憑きもの」という現象そのものが、否定されるにいたったが、それは、それらの働きを集団的に「抑制」するシステムをも失ったということを意味している。既に何度かみたように、それは、逆に、「捕食者」の、実質的な「力」や「活動範囲」を大きく拡大させたともいえるのである。そこで、それまでは、「憑きもの筋」のような者が担っていた役割をも、「捕食者」が直接「奪う」ようになったということである。

それで、事実上、「現象」としての「分裂病」も、より強力で、手に負えないものとなったわけである。


ただし、「分裂病の軽症化」などを通して、既にみたように、そのような近代以降の流れも、ここに来て、大きく変わろうとしているということも、確かと思われる。

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