「儀式」としての「なまはげ」
前回、「憑きもの筋」は、「憑きもの」の背後で「力」を発揮する、「捕食者」に変わる役目をも負った。そして、それが「捕食者」の直接的な現れを、抑制する効果をももたらした、ということを述べた。この点については、違和感や異論も、多いかもしれない。
しかし、かつて行われた「儀式」というものは、すべて、そういった効果を期したものなのである。「憑きもの筋」というのも、ある意味で、そのような「儀式」の延長上にあるものとみれる。
「儀式」というのは、多くの者が、集団を通して、「この世」的な枠組を越える「霊的」または「神的」なものに触れようとするときに、厳格な手続に則って、十分なコントロールの下に、行おうとするものである。
「霊的」または「神的」なものが、「この世」に、直接的に、無際限に現れ出ることは、危険このうえないことである。「儀式」というのは、この危険をできる限り抑えたうえで、多くの者が、「霊的」または「神的」なものに、間接的な形であれ、触れられるようにしたものである。(シャーマンなどの、特別の技能を身につけた者は、もっと直接的な形で、それらと交流することががある。)
そこでは、仮面などをつけた、「霊的」または「神的」なものの「役目」を「演じる」者がいるのが普通である。それは、人間が「演じる」限りで、その「霊的」または「神的」なものの、疑似的、間接的な現れになっているのである。あるいは、「霊的」または「神的」なものは、それらの「役目」を演じる者に「憑く」という形で、現れるともいえる。が、その場合でも、「霊的」または「神的」なものは、全体として、厳格な儀式のコントロールの下におかれた範囲で、現れ出ることができる。
このような儀式の中には、「捕食者」的な存在を呼び寄せ、交流を図ろうというものもある。日本では、「なまはげ」が典型的である。「なまはげ」は、元は、「鬼」という「捕食者」的な存在をモチーフにしたものである。が、「儀式」においては、仮面を被った人間が、「なまはげ」の「役目」を演じて、子供たちを襲い、恐れさせ、懲らしめることになる。
それは、「儀式」を通して、疑似的、間接的に、「捕食者」という存在の「あり様」や「恐ろしさ」を、子供たちや周りの者に、知らしめているものといえる。それをとおして、「捕食者」という存在についての、疑似的な体験が得られ、「恐ろしさ」を知るととに、いわば「免疫」をつけることもできる。また、それは、「なまはげ」の役目を負う者が、「捕食者」の行動を集団のコントロールの下に「演じる」ことによって、「捕食者」の、直接的で無際限な現れを、「抑制」しているともいえるのである。
「憑きもの筋」が「捕食者」の役目を負うというのにも、村の全体にとっては、まさに、それと似た効果があるわけである。それは、確かに、「憑きもの筋」には、大きな犠牲を強いるものであるが、「捕食者」的な存在が、直接に現れ出ることの、「緩衝装置」のようになっているわけである。それは、「なまはげ」のような「儀式」と同様、一つの、「集団的」な「知恵」ともいい得るのである。
ところが、近代社会というのは、このような意味での「儀式」や「システム」が、全く失われた社会といえる。(もっとも、その「残滓」は、至るところに、いやというほど残っているが、それらは、本来の意味を失って、全く形式的なものと化している。)
それは、近代社会が、事実上、「霊的なもの」や「神的なもの」を「否定」したからである。しかし、そのことによって、むしろ、人間にとって危険な、「霊的なもの」や「神的なもの」は、その「たが」を外され、抑制されることなく、直接的かつ無際限に現れ出る可能性をも、高めたのである。
近代において、「分裂病」が、強力で手に負えないものとして現れたのには、そのような背景もあるということである。
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