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2011年4月 1日 (金)

「日本の憑きもの」

「分裂病」は、「近代社会が作った」という面が大きいことを述べた。しかし、近代以前にも、「分裂病」に相当する「現象」がなかったわけではない。それは、何と呼ばれたかと言うと、「憑きもの」とか「もの憑き」と呼ばれた。(もっとも、それは、「分裂病」だけでなく、現在では、「解離性障害」とか「境界性人格障害」などと呼ばれるものや、その他の「精神病」や「神経症」の多くを含んでいたというべきだが。)

それは、単に「呼び方」が違ったというような問題ではなくて、「現象」を捉える、物事の見方の「枠組」そのものが、全く異なっていたのだといえる。当然、「現象」としても、現在一般にみられる典型的な分裂病とは、大きく異なるものがあったようである。

吉田禎悟著『日本の憑きもの』(中公新書)は、そのような、日本の「憑きもの」について、フィールドワークに基づいた多くの事例をあげて、他の文化とも比較しながら、分かりやすく、詳しい説明をしている。特に、江戸期以降の村落にみられた、「憑きもの筋」(イヌガミスジ、キツネモチなど)といわれる、差別の絡む現象について、社会人類学的な視点から、様々な面を明らかにしている。これは、西洋の「魔女狩り」とも通じる問題であり、日本の「世間」を考えるうえでも、絶対に欠かせない問題といえる。というか、読んでいても、あまりに、今にも通じる日本の「世間」そのままが反映されているので、心苦しくなるほどである。

もちろん、「分裂病」を考えるうえでも、ちょうど、近代において、「分裂病」という「病気」が「作られる」前段階の、移行期の状態が知れるので、貴重である。

「憑きもの」または「もの憑き」とは、まさに「<もの>が憑く」ことで、<もの>とは、いわゆる「もののけ」のことである。人の死霊や生霊、動物霊、精霊、神霊など、さまさまなものを含む。この現象自体は、非常に古くからある、普遍的なもので、それは、シャーマニズムや呪術と結びついていた。

ところが、江戸期以降には、村の内部に、「憑きもの筋」の家というものが、認められるようになる。(ただし、日本全体どこでもというわけではなく、南西部に多く、東北などにはほとんどないという。)「憑きもの筋」の家は、「イヌガミスジ」「キツネモチ」などと言われ、「犬神」や「狐」という動物(または動物的な精霊)を飼っている、あるいは、それらが居着いているとされた。そして、人にそれを「憑け」、あるいは、「犬神」や「狐」の方で、「主人」の意を酌んで、勝手に憑いて、人に災いを起こすと信じられたのである。

「犬神」や「狐」が「憑いた」方は、精神錯乱を起こし、幻聴や幻覚を見、あるいは、高く跳びはねたり、屋根に上るなどの奇行を起こし、「油揚げ」がほしいなどと叫んだりする。まさに、「発狂」するわけだが、ただし、それは、「祈祷師」などにより、「憑きもの落とし」をされることによって解消する。

「祈祷師」は、「犬神」や「狐」などに憑いた理由を聞き、憑かれた者、またはその者の家や先祖が、これこれこういうことをしたので、罰したとか、許せないとか、憎いとかをしゃべる。それで、本人らも、その理由を認め、何らかの措置がされることで、「犬神」や「狐」もその者から去って行き(筋の家の元に戻り)、「解決」がもたらされるわけである。それは、単に、個人的な異常の状態の「回復」というよりも、明らかに、集団的な秩序の乱れの「回復」の問題となっている。それに伴って、個人の異常な状態も「解消」するのである。

「憑きもの筋」というのは、一般に、「おどろおどろしい」イメージに染められている。が、「動物的な精霊」を「操る者」という点では、逆に現代では、ポピュラーなイメージさえあるだろう。宮崎駿のアニメにもよく出て来るし、「式神」を操る「陰陽師」 安部晴明は、一時有名になった。ゲームの「ポケモン」も、まさに、「動物的な精霊」を飼って、自ら育て、戦闘に使役するということが、モチーフになっている。

「憑きもの筋」は、実際、元々は、そのような、「精霊」を使役する「シャーマン」(漂泊的な宗教者)の系譜を引くものであることが、分かる者もある。しかし、江戸期の「憑きもの筋」というのは、もはや、そのようなものから、大きく外れた面の方が大きい。もはや、そのような、「シャーマン」的な者に対する、畏敬の念はほとんど消え失せている。

また、要は、「憑きもの筋」と認めるのも、それによって「憑かれた者」と認めるのも、村の「世間」の方なのであり、あくまでも、主体は、村の「世間」なのである。祈祷師なども、その村全体の「思い」を伝える、代弁役のようになっているといえる。

早く言えば、村の「世間」が気に入らない者は、いくらでも、「憑きもの筋」にも、「憑かれた者」にも、されてしまう可能性があるのである。


そのような、「筋」とされる家は、やはり、元々は、村の外部から流入して来た者が多く、それも、新興勢力として、羽振りがよかったという者が多いようである。そのような者は、村の内部からは発生しない、「貨幣経済」という異質な価値を持ち込んで来たりして、何かと、旧来の村の価値とは衝突することが多い。また、羽振りがよく、富んでいることが、「妬み」や「嫉み」の対象となり、それらは、「犬神」や「狐」を飼っているからこそ、もたらされるものとみなされた。

「憑きもの筋」とされる家は当然恐れられ、同時に、婚姻を忌避されるなどの差別を受けた。「憑きもの筋」と婚姻関係を結ぶと、その者だけでなく、その者の属した家全体が、「憑き筋」となったとみなされるのである。(もっとも、「縁切り」により、それを免れる手はあったという)「犬神」や「狐」は、「家」全体にかかるので、婚姻関係を結べば、その家もその影響圏に入ってしまうということだろう。

アフリカや他の文化にも、ある者を「妖術使い」として忌避するという現象はある。が、それは、個人対個人の問題になることが多く、このように、当然に、集団的、連帯的性格を帯びることはないという。まさに、そのような「集団的性格」が、「日本の憑きもの」の特徴とされる。また、このように、誰が「憑きもの筋」かということが、予め、ほとんど「公然」と明らかにされているというのも、「日本の憑きもの」の特徴とされる。

しかし、実際には、必ずしも、どの家が「憑きもの筋」かということは、誰にも「明示」されているわけではなかったようである。それで、「憑きもの筋」であることを知らずに婚姻したため、後に、家が「憑きもの筋」とされてしまったということも、多々あったようである。それは、一種「暗黙の了解」のような、微妙な形で、「知る人は知る」ということになっているのだろう。が、具体的には、全体の「空気を読ん」だり、有力者や事情通の者にコネがあったりということで、知ることになるのだろう。

こういった「立ち回り」が苦手な「分裂気質の者」は、まず、「憑きもの筋」にされてしまったり、「憑かれた者」にされてしまった可能性が高いはずだ。

「犬神」や「狐」に「憑かれた者」というのも、それらしき、何らかの異常な行動をとるということにもよるが、やはり、何か、暗黙のタブーを破ったり、人から反感を買ったり、「妬まれ」たりしたことにより、「憑かれた者」とされてしまうことが多かったようである。ここでは、「憑きもの筋」というのは、いわば、そのような村の秩序を乱す者を咎め、「懲らしめる」側の役目を担っていることになる。

なにしろ、これらの「憑きもの筋」をめぐるあり方は、何とも、今にも通じる、日本の「世間」の縮図を見るようであろう。「憑きもの筋」とは呼ばれないにしても、似たような、形を変えた差別的な現象は、現在でも、そこここに、いくらも見つかるはずである。

しかし、それでも、このような「日本の憑きもの」は、他の文化でよくみられる、「憑かせる」方を「妖術使い」として非難し、あからさまに「排斥」するのとも異なっている。西洋の「魔女狩り」が最もいい例で、「魔女」は、「告発」されると、ほぼ間違いなく、命を奪われる。しかし、日本の「憑きもの筋」は、差別を受け、いろいろ不利益は受けるが、一応、「共同体の一員」として止まることは、認められるのである。先に見たように、「憑かれた者」として咎められるべき者を、「懲らしめる」側の役目、つまり、結果として、「村の秩序」を担う役目すら負うものとなる。

日本でも、「えた」や「非人」などと呼ばれた、「被差別民」がおり、それらは、村の「共同体の一員」としては認められなかった。前にとり上げたが、明治期に政府が差別を廃止しようとしたとき、民衆は反対の一揆をあげ、それら多くの「被差別民」を、残虐に虐殺するという事件が起こっている。(『身分差別社会の真実』講談社現代新書)これは、民衆の側の、「被差別民」という、平民とは異なる区別ないし印そのものは、取り除くことができないという、強い意志の現れともいえる。

こうしてみると、村の内部での「憑きもの筋」というのは、元は、漂泊する「被差別民」だったかもしれないが、それが、村に定着する過程での、村の側の、一応の「受け入れ」の線を示す、「妥協的産物」ともいえそうである。「被差別民」のように、徹底的に「排斥」するのではないが、決して、村の内部の者と同じように「受け入れる」ことはしない。特に、「憑きもの筋」という「印」と「不利益」だけは外すことができないものとして、それを前提に、その範囲で、何とか、かろうじて、「受け入れ」られたということである。とりあえずは、異質な者同士の、全体の「和」というか、秩序の安定を図る、「合理的」なシステムといえる面はあったわけである。

しかし、そうは言っても、それは、「世間」そのものの、理不尽な「情」的「論理」で動いているものであることには、変わりない。

また、著者は、このような「妖術使い」として排斥したり差別することは、「未開」になるほどあるのではなく、土地に縛られて、移動や流通の困難な、「農耕文化」に多いことを明らかにしている。狩猟文化や牧畜文化の内部には、ほとんどないのである。

日本の村も、まさしく、典型的な「農耕民的文化」であり、また狭い土地に多くの人がひしめき合っているので、より、強力に、このような「異質」の者の「排除」の問題が起こりやすい条件にあるといえる。ただし、江戸期には、そのような者の、一方的な「排除」を続けることは、もはや難かしい状況となって、「憑きもの筋」のような、「妥協的産物」が生み出されたとも解せる。

精神科医中井久夫は、分裂病に親和性のある「分裂気質」の者を、「狩猟民的特性」と呼び、躁鬱病に親和性のある「躁鬱気質」の者を、「農耕民的特性」と呼んだ(『分裂病と人類』)が、鋭い着眼というべきである。

狩猟民的特性の「分裂気質」の者は、わずかな兆候を強烈に感じ取り、先取り的構えで、物事を予兆的に捉える。狩猟という行為には、全く適した特性である。自然や動物への関心が強く、人間同士の関係には積極的ではない。貯蔵ということに関心が薄く、権力構造への志向も少ない。農耕民的特性の「躁鬱気質」の者は、過去への志向が強く、強迫症的である。農耕文化は、計画的に貯蔵をし、権力と支配の構造に貫かれている。自然ではなく、人間同士の関係こそが問題の中心となる。その中で、うまく立ち回っていくことに強い関心が向けられる。

それは、実際、かなり適確に、そのような、それぞれの「文化的特性」を反映しているように思える。日本では、明らかに「農耕民的特性」の「躁鬱気質」の者が多数派を占め、「狩猟民的特性」の「分裂気質」の者は、どうしても、その中で生きにくく、排斥や差別の問題を被りやすいといえる。あるいは、「分裂病」とか「躁鬱病」というのも、それら互いに、相いれない気質の者同士の、葛藤や相克の問題として捉えることもできそうである。

そして、日本の村における、「憑きもの筋」などの問題も、「農耕民的特性」の「躁鬱気質」の者と「狩猟民的特性」の「分裂気質」の者との、「軋轢」の問題として捉えることも可能だろう。

みた来たように、近代にいう「分裂病」というのは、それ以前には、非常に多面的な面をもっていたわけで、単純に「病気」と捉えるのとは、大きく異なっていた。その一面として、江戸期以降には、「世間」の中における「軋轢」を体現するものというがあったわけである。それは、もちろん、「差別」とも結びついていた。しかし、それは、集団全体の問題として、集団的に「解消」されることにより、「回復」するものでもあった。近代において、個人に「内在」する「病気」と捉えられ、治療の名の下に病院に「隔離」され、実質上、半永久的に社会から「排除」される「分裂病」と比べても、それが、不幸なことであったとは、決して言えないはずである。

次回は、もう少し、「分裂病」そのものに即して、さらに「憑きもの」の問題をみていきたい。

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コメント

私は、集団ストーカーと妄想に苦しんでいます。
被害妄想気質は20代からありましたが、27,28歳では改善しました。
しかし、D社(ダイエーグループというだけである特定の人物名<北村女子と藤枝氏>が近隣に集団ストーカー、シーシーサイダー人間、葉隠れ人間、虚無人間、きえると言いゼロとマイナスを並べる人間、不実記載のように二名人物を並べ乗っかる利用)が浮上してきました。
その人物と出会いそして会社を辞めた瞬間にその夜から(キタムラ消える、マツ、来い、行くよ、土下座する、北村は俺だ)とか環境下で幻聴妄想が聞こえてきます。
統合失調症と言われててから30年を過ぎようとしています。
クローンのように増殖するキタムラや藤枝氏は、本当に人間なのでしょうか、飛ぶ人間なんてこの世にいないと警察からも指導されているように、現実感覚ではありえない現象、出来事、模様、様子を察知してしまうのです。
それを法律の不法行為、営業妨害、人権蹂躙、脅迫と脅しのように見えて仕方がありません。
自営業をしていて、あまり繁盛していない貧乏性を守る働きなのでしょうか?
50代を迎えるにあたって、改善するべく手当てを懇願する次第です。

またこのような現象をどう解釈分析すればよいかご指導をよろしくお願いいたします。

ご自分でも自覚のあるとおり、「D社(ダイエーグループというだけである特定の人物名<北村女子と藤枝氏>が近隣に集団ストーカー、シーシーサイダー人間、葉隠れ人間、虚無人間、きえると言いゼロとマイナスを並べる人間、不実記載のように二名人物を並べ乗っかる利用)」とか「クローンのように増殖するキタムラや藤枝氏」などは、明らかに「幻覚」または「幻聴」であり、あるいは、それらをもとにして形成された「妄想」と思います。

「幻覚」「幻聴」といっても、まったく「何もない」ところに見たり、聞いたりしているのではなく、現実の人や物などに重ねるようにして見たり、聞いたりしている(つまり「現実」の中に紛れ込んでいる)ので、現実と交錯するような「妄想」を形成して、混乱しているのだと思います。

もっとも、自分でも、それが「幻聴」「幻覚」や「妄想」かもしれないことを自覚しているので、その部分で、何とか「大事」には至らずに持ちこたえているようにみえます。

要は、その自覚の部分を、今後も失わないようにして、そのような「出来事」が、(物理的な)「現実」、言い換えれば、他の人も同じように知覚している「現実」そのものではないことを、見失わないようにするしかないと思います。

そもそも、「幻覚」「幻聴」は、現実あるいはそれ以上にリアリティのあるものだし、実際に、「現実」の中に重ねてみていることもあって、それが現実そのものにみえてしまうのは、仕方のない面があります。しかし、それでも、それが「現実」そのものではないことに、本当に気づけるか否か、そして心から納得できるか否かが、とりあおえず、大きな混乱から抜け出せるか否かの分かれ目だと思います。

そして、そのような混乱から抜け出せたら、それらの現象が、「(物理的)現実」そのものではないとしたら、一体何なのか、見極める可能性も出てくることになります。

『日本の憑きもの』という記事に、コメントをつけていることからしても、自分でも、それらの現象に「霊的なもの」が関っているという予感があるのではないですか?

私に言わせれば、実際に「霊的なもの」の影響は、必ずあるので、物理的な現実と混同しないことを、はっきりさせるめためにも、その方向で、もっと考えを進めていったらいいと思います。

なお、私のブログの記事では、序論的に全体をまとめている『総まとめ(旧「闇を超えて」より)』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2003/02/post-58de.html)。『「統合失調症的状況」での「知覚」の場合』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-d6ac.html)。『「霊的なものの影響を受けて混乱する」ということ』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-f0b3.html)などが参考になると思います。

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