「村の外部」から「人と人の間」へ
これまでのことを、多少比喩混じりに、簡潔に述べると、次のようになろう。
かつて「村」は、いわば一つの閉じた「宇宙」であり、その「村」に収まらない、あらゆる「混沌」たるものが、その「外部」として「表象」されていた。「村」の「外部」にあるものは、「村」の秩序や存続を脅かす、危険なものであった。
村の「外部」を漂泊する、「宗教者」や「芸能者」なども、まさに、そのような「外部」を体現する者だった。「村」を訪れれば、一定の歓待は受けるが、長居は許されず、体よく「排除」された。それらの者は、さらに、「外部」の典型の一つである、危険な「憑きもの」を、媒介する者としても恐れられた。
「憑きもの筋」というのは、そのような「外部」そのものではないが、「村」の「内部」に抱え込まれた「外部」なのだといえる。実際、それらの家は、村の「外部」と境を接する、「辺境」にあることが多かった。それは、「村」の「内部」と「外部」の境界が揺らぎ、「外部」と「内部」との、一定の混交が起こったからこそ、生じたことである。しかし、それは、単に「外部」との「妥協」の結果というのではなく、真に危険な「外部」に対する「緩衝装置」のような役割も果たした。
しかし、近代にいたると、そのような「閉じた宇宙」としての「村」は、解体する。人々は、「外部」を否定したつもりになる。が、実際のところ、「村」には、「たが」を外された「外部」が、当たり前のように流入し、「内部」と「外部」は融合する。それは、近代的な「都市」となる。そこでは、もはや「外部」は、遠くにではなく、「内部」そのものにある。
「外部」は、人知れず、「人と人の間」に住まうものとなったのである。人と人との日常的な交流、確執、葛藤に、かつての「外部」が蠢くものとなる。そこには、「憑きもの」が闊歩し、その背後には、「憑きもの筋」ならぬ「捕食者」が、暗躍する。もはや、それらを、抑制するシステムも、解消するシステムもない。そのような「日常性」の中から、「分裂病」のような、手のつけがたい「病」も、生じてきた。
そして、そのような「病人」こそ、「治療」という名の下に、「病院」という、社会の「外部」へと「排除」されることになった。それは、意図せずとも、「外部」を「内部」化した社会の、やむにやまれぬ、「外部」の処理の仕方となったのである。
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