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2011年3月

2011年3月10日 (木)

「社会が作る分裂病」と「現象としての分裂病」

結局、「分裂病」といわれる事態には、「社会が作る分裂病」という面と、社会が作る以前の、「現象としての分裂病」という面の、両面があるということである。

そして、現在、「分裂病の軽症化」といわれる状況があるのは、主として、「社会が作る分裂病」という面が、大きく軽減しているからと思われる。
(「現象」としての面にも、変化がある可能性もあるが)

「社会が作る分裂病」とは、要するに、「近代社会が作った病」ということである。近代社会の特に草創期には、「現象」としての「分裂病」、または、それに親和性のある「分裂気質の者」は、社会のあり方に逆行または逸脱するものとして、明らかに、「敵対視」され、「排斥」され、あるいは、「恐れ」られ、「タブー視」された。そのような、「社会」の側の反応が、「分裂病(者)」に対するイメージを大きく貶め、また、実際にも、「分裂病者」に対して、非人格的、攻撃的、排他的に接することを多くならしめた。

そのようなことが、「分裂病者」の「分裂病的状況」に対する「反応」を、大きく悪化させていたことは明らかである。周りの者の「攻撃」的な態度や「排斥」的な態度は、分裂病者の「迫害妄想」を大きく助長するし、ただでさえ休まることのない、緊張やストレスを大きく強いる。また、前回もみたように、「分裂病」に「恐ろしい」「イメージ」が行き渡ることは、多くの者が、「幻聴」を幻聴として把握すること、「分裂病」という事態を「受け入れる」ことを難しくする。

社会の側の攻撃的、排斥的態度→分裂病者の非受容的態度→社会の側の排斥性の高まり→分裂病の更なる悪化→

という悪循環が、「分裂病」を、殊更難しく、扱いにくい病気にしていたのだといえる。

前回述べたNHK教育の番組に出ていた当事者の人たちも、周りに、理解してくれる人、あるいは、話を聞いてくれる人、あるいは少なくとも、消極的に、排斥的な態度をとらない人に恵まれていたということが、状態を良くするのに、大きく影響していたはずである。

逆に言えば、かつてほど、「分裂病」を悪くみない人も増えて来た訳で、それには、時代の影響もあると思われる。

番組の出演者も、むしろ、これからは、分裂病の当事者の人たちのように、(「社会」的にうまく立ち回るとか、「競争」ということには適さないかもしれないが、)むやみに「がんばらない」、「あるがまま」の生き方がいいんじゃないか、みたいなことを言っていた。が、それは、現在のように、行き詰まりをみせた近代社会という、時代の状況にもよる訳である。

かつての、「反精神医学」というのも、このような「社会が作る分裂病」という面を捉えて、それ自体が、自明の「病気」のように扱う「精神医学」に反対していた訳で、それには十分の理由があったといえる。

しかし、「反精神医学」も、「社会が作る分裂病」という面が、「分裂病」の全てのようにみなしていたとしたら、やはりそれは、間違いと言わざるを得ない。

このような「社会が作る分裂病」という面が、たとえ大きく減少することになっても、「現象」としての「分裂病」そのものがなくなる訳ではない。しかも、それは、それそのものが、決して扱いやすいものでも、容易なものでもない。

むしろ、「社会が作る分裂病」という面が減少して、初めて、そのような「分裂病」の「本質的な面」と、正面から向き合う条件が整って来たというべきで、実際、余計な「付加」がされない分、裸の「分裂病」の「現象面」が、浮き彫りにされやすくなった、といえるのである。


「分裂病」の「現象面」というのは、これまで私が、「分裂病的状況」という言い方で述べて来たことで、「妄想」や「幻覚」を生み出す元となる「状況」のことである。そこには、「霊的なもの」の影響も含まれ、多分に、「おどろおどろしい」面がある。むしろ、それこそが、「近代社会」が、「分裂病」を「排斥」して来た、真の理由ともいえるものである。だから、それが浮き彫りにされることは、「近代社会」という「社会」のあり方そのものを、根底から問うことにもつながるのである。

ただし、そのような方向は、本当に、やっとこれから端緒につくかもしれないというもので、まだまだこれからの問題である。また、それがうまくいくという保証は、今のところ、何もないのである。

とりあえず、今は、「社会が作る分裂病」という面が減少して、分裂病が「軽症化」されてきたことが、さらに、社会の側の「分裂病」に対する見方、反応を変えて、その流れに拍車をかけることを期待するしかない状況である。

2011年3月 1日 (火)

『ETVワイド 統合失調症』を見て

NHK教育『ETVワイド 若者の心の病~統合失調症』(26日土曜夜8時)を見た。改めて、分裂病(統合失調症)を取り巻く状況が、変わって来ているのを感じた。

分裂病の当事者本人が、何人も、実名、顔出しで出演し、多少ぎこちなさはあるものの、「普通と変わらない」どころか、「普通の人以上」に、しっかりと、しかし自然に、自分の考えを述べたり、自分の状況を説明したりしていたのには、改めて感心させられた。本人にしてみれば、緊張したり、いろいろ不安を持ちながらの対応なのだろうが、気張ったところもなく、まさに、「あるがまま」にあるということを、地で行くような感じである。そこから伝わってくる「存在感」や「個性」も、明らかに、「普通の人以上」のものがある。

司会者や出演者も、そのようなことを感じていたようだし、テレビを見ていた多くの人も、改めて、分裂病に対する「イメージ」を改めたかもしれない。

そのことの効果は、非常に大きいといえる。

もちろん、それは、「大変な状況」を乗り越えてきたからこそ、出てくるもので、まさに「くぐり抜け」てきたからこそのものといえる。

ただ、本人の話を聞いていて、かなりの人が、分裂病の「幻聴」というのは、単に、周りが自分のことを悪く言っているのではないかという不安が、異常に高まってしまったために、まるで本当にそう言っているかのように聞こえてしまうものだ、と思ったかもしれない。「分裂病」というのは、「その程度のもの」という意味で、分かったような気になった人もいるかもしれないということである。

しかし、実際には、もちろん、そんなに単純なことではない。もし、そんなことで、本当に、分裂病になるのだとしたら、やはり、分裂病者は、「心の弱い」または「非現実的」な人がなるものだ、と思われても仕方ない。

何度も言っていることだが、まずは、「幻聴」の「声」というのは、本当に、実際の「声」と同じように聞こえるものである、ということを確認する必要がある。しかし、それさえ押さえられれば、こういう番組などを通して、「幻聴」というものが、そういうものであることが、広く知れ渡ることは、大きな意味をもつのである。

そうなれば、一般に、人が「分裂病」を発病した時点、つまり、「幻聴」を聞いた時点で、それが分裂病にいう「幻聴」であるという可能性を考慮するということも、十分に起こり得るはずなのである。

つまり、実際には、「幻聴」というのは、「病識」がないから、それと気づけないのではなく、単に、「幻聴」というものについて知識が何もないから、「現実の声と同じように聞こえる」その「声」を、「幻聴」と考える余地がないというだけなのである。

また、本人らの話を聞いていて、分かると思うが、分裂病者のいう「幻聴」というのは、大体、どれも、よく似かよっているのである。要は、その者を「非難」したり、「嘲笑」したり、「脅し」たり、「責め」たりして、恐怖や混乱に陥れるものである。それは、実際には、「ただの普通の人」がそんなことを言ってくることなどあり得ないくらい、「強烈」で「激しい」仕方でなされる。

だから、「幻聴」とは「そういうものである」ということを知っていれば、それが、「現実の声と同じよう」に聞こえたとしても、むしろ「現実の声」ではあり得ず、いわゆる「幻聴」であることにも、気づきやすくなるはずなのである。

ただ、そこで、ネックになるのは、やはり、「幻聴」ということになると、どうしても、「分裂病(統合失調症)」という「恐ろしい病」と、結びついてしまうということである。「分裂病(統合失調症)」ということが、「恐ろしく」て、「受け入れ難い」ものであれば、やはり、「幻聴」というものも、「恐ろしく」て、「受け入れ難い」ことになる。

しかし、こういう番組などを通して、「分裂病(統合失調症)」の「恐ろしい」という「イメージ」が変われば、それを「幻聴」として認識し、「受け入れる」ことにも、大きく影響するはずなのである。

もちろん、「幻聴」として認識されたとしても、それは、強烈な内容のものが、実際の「声」と同じように聞こえることに変わりなく、不安や恐怖そのものが、取り除かれる訳ではない。

しかし、少なくとも、それを「現実の声」そのものと「混同」して、他の可能性を認めないというのとは、大きな違いである。それに基づいて、「現実」のレベルに「妄想」を築いてしまうという可能性も、少なくなるはずである。また、「パニック状態」に近いような状態で、それに振り回されるという可能性も低くなり、それへの対処の仕方なども、「みえ」やすいものになる。

とりあえず、そのような「知識」が広く知れ渡るだけでも、「分裂病の軽症化」といわれる状況は、ますます促進されて行くはずなのである。

ただ、そうなった場合、私のように、そこに「霊的なもの」の影響などを持ち込む必要も、なくなるのではないかという見方もできよう。本人が、せっかく「幻聴」として、「現実の声」と「混同」しなくなっているのに、そこに「霊的なもの」などという「おどろおどろしい」ものを持ち出せば、「現実の声」と混同するのと同じような、「恐怖」や「混乱」を、再び持ち込むことになるともみられ得るからである。

私は、実際に、本人が、その「幻聴」ということで十分に納得して、そこに「霊的なもの」あるいは、何らかの「実体的なもの」を認める必要を少しも感じないというなら、別にそれで構わないと思っている。

しかし、実際には、「幻聴」としても、「現実の声と同じように」、あるいは「それ以上のリアリティをもって」聞こえる声を、ただの「現実には存在しない」という意味での「幻聴」として納得することは、難しいはずである。さらに、「実体的意識性」ともいわれるように、そこに、何らかの「実体的なもの」をありありと感じるということが伴う場合には、なおさらである。

既にみたように、現在は「くぐり抜け」て、ほとんど良くなっている本人たちも、症状の激しい時期には、そのような可能性を考えざるを得なかったこともあるはずである。あるいは、現在でも、あまり他言はできないにしても、内心そのように思っている人も多いはずである。そう思うこと自体が、他人には、「分裂病」であることの証しのように思われてしまう面が、あるにしてもである。

「くぐり抜け」て来たということには、そのような「おどろおどろしい」可能性とも、本気で向き合って来たということをも含んでいる。あるいは、むしろ、そのような人たちは、「幻聴」について、考えられる限りの、「ネガティブ」な発想を突きつめて来たからこそ、その「本当の意味の恐ろしさ」や、あるいはその「無意味さ」というものを十分味わい尽くし、結果として、そのような方向を脱することが出来たのだということもいえる。

だから、逆説的に言えば、「幻聴」は、初めから「幻聴」に過ぎないなどということが知られるよりも、本人が十分それと格闘して、結果としてどういうものか知られるという場合の方が、その影響を脱するという意味では、よりよい結果をもたらす、とも言えるわけである。

まあ、しかし、実際には、何も、あえて、「幻聴」についての知識を隠す必要がある、などということにはならない。実際、そうした中でも、様々な状況から、「幻聴」を「霊的なもの」あるいは、何らかの「実体的なもの」として認識せざるを得ないという者は必ずいるはずだし、あるいは、そのような可能性にも踏み込んで、本当に納得しない限り、その状況を超えることができないという者も、少なからずいるはずなのである。

だから、一般的に、「霊的なもの」を持ち出す必要がなくなる、などということにはならない。

要は、「幻聴」ということの知識が広く知れるようになったとしても、その先は、結局人それぞれで、多様であることは変わらないはずなのである。ただ、全体として、「軽症化」する傾向に拍車がかかることは、間違いないだろうということである。

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