日本人が「霊的なもの」を認めない理由
「目に見えない」(物質的には確認できない)、「霊的なもの」が、一般に認められるのにつれて、「分裂病」も「了解」され得るものとなる、ということを述べた。逆に言えば、「霊的なもの」が認められない限り、「分裂病」が、本当に「了解」され得ることはないのは、自明のことと思われる。
今後、全体として、徐々にでも、そのような方向に行くことは、間違いないだろうが、特に、日本では、それは、まだまだ容易なことではない。
日本人が、「霊的なもの」を認めない理由を、一言で言うなら、「捨てた女(男)と、いまさら、よりを戻す気にはなれない」からである。
もちろん、日本に限らず、近代社会とは、何ほどか、それまでの「霊的なもの」を「切り捨て」て、「物質的繁栄」という方向を「選ん」だことにより、スタートしたのである。
しかし、そのあり方が、極端にはっきりしているのは、やはり日本である。それまで「つき合っ」ていた女(男)を、まるで、すべて、その女(男)の「せい」であったかのように、いきなり「切り捨て」て、手のひらを返すように、新たな女(男)に乗り変えた。そうやってこそ、世界の中で、一角の「成功」を収めて来たのである。
「捨てた」女(男)のことは、悪く言い、まるで、汚点であったかのように、忘れようとした。新しい女(男)のことは、幸福をもたらす「女神」であるかのように、称賛した。しかし、最近になって、その新しい女(男)も、決して幸福を約束してくれるものではないことが、分かって来た。だからと言って、いまさら、蹴るように「捨てた」女(男)と、そう容易く、「よりを戻す」ことなど、できるはずがないではないか。
もちろん、表面的な理由をあげれば、他にもいろいろあげられるが、結局のところ、突き詰めれば、そういうことである。
要は、「理性的」なものではなく、「感情的」なものなのであり、むしろ、だからこそ、厄介で、容易には覆しようがないのである。
しかし、それは、単に、「捨てた」側の、「後ろめたさ」や「プライド」といった問題だけというのではない。実際に、かつての女(男)に、過去の「誤り」を詫びて、「よりを戻す」というだけの、「魅力」があったのかどうか、改めて考えても、大いに怪しいからでもある。
日本では、確かに、縄文時代から、江戸時代まで、基本的に、「霊的なもの」が重視されて来た文化といえる。しかし、それが本当に、とれだけ人々を幸福にし、益をもたらしたかと言えば、かなり怪しい。どの時代にも、争いもあれば、悲惨な殺し合いもあった。何かと、多くの物事を、「恐れ」て生きなければならなかった。決して、「精神的」には、今と比べて、人々が、「豊か」であったなどと言えるものではない。
実際、我々が、これを「捨てた」理由は、そのように「判断」したからである。「物質的な繁栄」を「約束」する、新たな女(男)の方が、よく見えたことは、疑いないのである。
それどころか、我々は、過去の女(男)に、「騙さ」れ、酷い目に会って来たのだとすら、考えた。むしろ、それは、「蹴り捨てる」ことこそ、ふさわしいものだった。そもそも、過去の女(男)が、「売り」にする「霊的なもの」などは、実在しない「幻」だったとすら、みなされた。人々は、何千年もの間、その「幻」に惑わされ、翻弄され続けたというわけだ。
過去の女(男)を、一言で言うならば、「魔女」である。実際、西洋においては、それは、大々的に「狩られる」ことによって、近代への移行がなされた。「霊的なもの」に対する否定的イメージが、すべて「魔女」に仮託されて、葬り去られたのだと言える。
日本においても、民衆が、「被差別民」を徹底的に虐殺するという形で、似たことが起こっている。その執拗さは、そのようなものの「遺伝子」を、わずかたりとも、後の「世」に残してなるものかといった、強烈な意志すら感じさせる。
我々は、それまでは、一応、敬い、畏怖して来た「霊的なもの」を、徹底的に「蔑み」、「恐れ」、「なきもの」として、葬り去って来たのである。そのようにして、現代に通じる、新たな「生き方」ないし「システム」を、スタートさせて来たのである。
こうみてくれば、我々が、容易に、そういったものを「覆す」ことなど、できるはずがないことが分かるであろう。
確かに、我々にとって、「霊的なもの」の意味合いは、もはや、当時のものとは違うという見方もできる。当時は、「霊的なもの」とは、ただ、それしかないように、当たり前の、空気のようなものとして、接せられたのだが、我々は、新たに、「物質的なもの」を経験したうえで、その価値を見直したうえ、「霊的なもの」と接することができる。
しかし、このような見方も、かなり、怪しいものだ。そんな見方は、やはり、現在の女(男)の「よくない」ところが見えて来たので、過去の女(男)が、未練がましく、よくみえてきたというだけの話に過ぎないだろう。そもそも、そんなに、容易に「よさ」の認められるものだったら、あんなにも、極端な「切り捨て」方はしなかっただろう。
そのような、強烈な「切り捨て」方をしたことまでを覆して、本当に、「物質的なもの」より、「霊的なものの方がいい」などと、心底言えるのか、大いに疑問である。
いや、時代は、もはや、どちらを選ぶかということではなくて、両者を、いかに「調和」させ「統合」させるかの問題である、と言うかもしれない。
一応、もっともらしいが、しかし、それも、結局は、過去の女(男)もダメ、新しい女(男)もダメ。それなら、両方を足して2で割って、「いいところ」だけ「頂いて」しまえばいいといった、「ご都合主義」以外の何ものでもないだろう。
私は、この点については、しばらく前までは、割と楽天的で、一旦その方向がつけられれば、意外と早く、「霊的なもの」が認められることになると思っていた。そして、そうなれば、少なくとも、今のあり方よりは、よっぽど「まし」な「社会」が、実現されるだろうと思っていた。むしろ、なぜ、割合、ちょっとしたことで踏み出せるはずのそういう方向に、ほとんど誰も踏み出そうとしないのか、不思議で仕方がなかった。
しかし、今は、前述のように、それが、そう容易くいくものでないことがよく分かるし、たとえ、一旦、そういう方向にいったとしても、どこまで、それが貫徹されるか、怪しいものと思っている。さらに言えば、たとえ、そういう方向にいけたとしても、それが、本当に「いい」ものになるとも、思えなくなっている。
かつて、我々は、それを、本当に躍起になって、「切り捨て」た訳だが、これまで私が述べて来たことからも分かるように、「霊的なもの」には、そのように、我々の「手に負え」ず、「おどろおどろし」く、「恐ろしい」面があるのは、事実である。つまり、人の「コントロール」が効かず、人を容易く、「狂気」や「無秩序」に追い込む面がある、ということである。
近代において、「霊的なもの」の「価値」を再認しようとする「スピリチュアリズム」では、あえて、そのような面には触れずに、聞こえのいい、「いい面」ばかりを強調しようとする。しかし、それは、むしろ、「霊的なもの」につきまとう、そのような「否定的イメージ」を意識するからこそでもあろう。そのような、「価値」で塗り込めない限り、「受け入れ」難いものであることを、十分意識しているということである。
ところが、「霊的なもの」を、一般的に、「認め」、「受け入れる」という場合、そういう面を抜きには、考えられないのであり、「いいところ」だけを切り離して、「受け入れる」などということはできない。そして、「霊的なもの」の、そういった面との「確執」は、現在も、ただ「封印」されて、いわば「休戦」されているだけであって、実際のところ、まだ本格的に、なされたものとすらいえない。だから、今後も、一般的に、「霊的なもの」との、感情的な「格闘」または「葛藤」は、まだまだ続いていくのであり、むしろ、「霊的なもの」が意識化されるのに伴って、より本格化していくとも考えられる。
そう簡単に、「解決」や「受容」などということは、望めないのである。シュタイナーが、そういった本格的な「闘い」が、西暦7000年代(!)に起こると言っているのも、あながち、否定できない。
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