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2011年1月31日 (月)

「唯物論的発想」を「身につける」こと

前回みたことは、「霊的なもの」を「認めない」ということの、意識的な理由というよりも、「深層」の理由であり、「個人的」なものというよりも、一種「集合的」なものでもある。だから、個々人が、必ずしも、そのように意識しているということなのではない。しかし、深層において、我々を強く規定しているが故に、厄介で、覆すことが難しいのである。

もう少し、表面的または実際的なレベルにおいて、我々が、「霊的なものを認めない」という「発想」、つまり、「唯物論的発想」を、どのように「身につけ」ていくのかということなら、もう少し簡単である。

それは、現代の日本または類似の文明社会に生まれた者は、多くの者が、少なくとも一旦は、このような「発想」を、自然と「身につける」ものだからである。


「身につける」というのは、主体的に、考えられた先に、そのような「見方」をするようになったというのではない。この「社会」は、そのような「発想」を、基本的な前提としてできているのだから、この社会に生まれる限り、いずれは、多くの者が、ごく自然と、そのような「発想」を「身につける」のである。ただし、それは、通常、特定の誰かに、直接教えられるというものでもない。そのような「発想」は、この社会に生まれて、この社会を規定している、一定の「知識」を身につけた段階で、おのずと、「身につけ」られるものなのである。

それは、ほとんど、この社会に生まれる限り、半ば強制された「コース」なのだが、しかし、それは、「身につけられ」た時点では、まるで、自ら、主体的に「身につけた」かのように、錯覚されてしまう。その見方自体は、確かに、「直接」、強制されたものではなく、いわば、自ら「発見」したかのように、出会われるからである。

そのようにして、「身につけ」られた、「発想」とは、「世界」そのものについての、「ものの見方」として、初めて、「手に入れら」れたものである。それは、それまでは、一個の「未知」であり、「謎」であった「世界」というものを、初めて「分かった」という「気にさせる」、強力な体験である。

「世界」とは、「宇宙」や「人間」のことであり、また、我々の「社会」のことでもある。それは、我々を取り巻く、我々にとって、大いに利害と関心のあるものである。それらについて、「分かった」と「思わせてくれる」「見方」を「手に入れる」ことは、非常に「現実的」な観点から言って、「必要」なことである。

そのような「発想」を、「自ら」、「身につけた」と感じられる分、それは、貴重なものとして、以後も、大事に保持される。それは、もはや、容易には、覆されることのないものとなるのである。

多くの者が、このような「見方」を「身につける」のは、「世界」つまり、「宇宙」や「人間」、「社会」について、ごく大まかでも、その全体像をつかむに足る、「知識」を得る頃である。(大体、小学高学年から中学頃であろう)

「宇宙」については、その、巨大で謎めいた代物も、要するに、物質的なエネルギーの塊が爆発してできた、一個の「物質的なものの総体」に過ぎないということが、大枠として見え始める。「人間」については、その大まかな身体的構造が知られ、人間特有の、謎めいた、思考や意識などの活動も、要するに、「脳」の活動に基づくということが、知られてくる。要するに、「宇宙」や「人間」というものが、「物質」という「概念」の大枠を知ることによって、一気に、「知られる」ものとなってくるのである。

さらに、「社会」、つまり「大人たち」の「発想」の基本にあるものも、実は、こういった「発想」またはその延長上にあるものであることが、見えて来る。「大人」または「世間」という、「子供」にとっては、やはり、一個の「謎めいた」ものが、一応とも「知られる」というのも、実質的には、大きな意味をもつ。

実際には、それら、「宇宙」や「人間」についての「知識」は、それ自体から、当然に「世界」が「物質的なもの」<だけ>でできている、などいう結論が導かれるものではない。また、多くの場合、そのようなことを、直接教えられるのでもない。しかし、このように、「世界」が「見えて来た」時点で、そのような議論は、ほとんど無意味になる。それまでは、一個の「謎」であった「世界」が、「分かる」こと自体が、重要なのであって、それに、十分の「見方」を「手に入れた」以上、もはや、「不足」はないのである。

もし、この「世界」にあるのが、「物質的なもの」だけでないとしたら、いくら「物質的なもの」について、知れたとしても、「世界」が「分かった」ことにはならない。「世界」というものが、「物質的なもの」として、すべて把握できる、または、その延長上に、捉えることができる、ということで、初めて、「世界」が「分かった」という「思い」がもたらされる。言い換えれば、そのためには、「霊的なもの」などは、「あってはならない」し、「ある必要もない」のである。

<して、そのような「見方」は、陰に陽に、「社会」全体の「支持」を受けているのであって、その「社会」にいる限り、つねに「リアリティ」が付与され、補強される。また、そのような「見方」をして、「益」があることはあれ、何ら不利益というものはないのである。特に、そのような「見方」を修正する必要に迫られでもしない限り、そのような「見方」を変える必要など、普通はないことになる。

そこで、特に、子供の頃から霊能があったとか、近くにそういう者がいたとか、親などから、特に霊的な事柄や伝統を教えられたなどという者でない限り、この社会では、このような発想を「身につける」のが、自然の成り行きである。

私が子供の頃にも、中には、「霊的なものはある」ということを、さかんに訴えかける人が結構いたが、その人も、本当に、心からそのように信じていたか、疑問である。これは、その者も、既に、先のような「発想」が「身につい」てしまい、この「社会」というものが、そのような発想を前提に成り立っていること、つまり、多くの者が、そのような発想になっていることを前提としての、一種の「子供らしい」「反抗」のようなものといえる。しかし、実際には、その者も、本当に、そのような発想が覆せると思っているかどうかは、疑問なのである。

何しろ、要点は、「事実」として、どうこうというよりも、「世界」について、「分かる」と「思える」ことが重要なのである。人は、まず、そのように、「世界」を「分からせ」てくれる、「ものの見方」を、ほとんど本能的に、求めている。この社会においては、それを初めに与えてくれるが、ほぼ必然的に、そのような「唯物論的発想」になるということである。

「世界」についての「見方」を「身につけ」て、一旦は、紛いなりにも、「世界」というものが、「分かった」ということになったら、「世界」が「分からない」とは、どういうことかを、もはや想像することも難しいかもしれない。しかし、「世界」が「分からない」ものになったとき、どのようなことになるかということを、如実に知らしめてくれるのが、「分裂病」である。

「分裂病的状況」では、一旦「身につい」た、「世界」について「分かった」はずの「見方」が、根本的に覆る状況にある。「世界」というものが、全くの「未知」であった、元々の状態へと、戻されるのである。「分裂病」に対する恐怖というのは、様々な面から言い得るが、多くの者は、その振る舞いに、「世界」というものが「分からなく」なったとき、人がどうなるかを、如実にみるという面が、必ずあるはずなのである。

そこで、「世界」について「分かる」ということが、いかに「重要」なことで、「手放し」てはいけないものであるか。それなしでは、まさに、この「世界」においては、ほとんど、「まとも」には生きていけないものであるか、ということを、再確認できるのである。


このような「見方」は、既にみたとおり、「直接的」に伝達されるのではなく、各人が、自ら「身につける」ことによって、伝えられるというのが、一つの巧妙な「仕掛け」である。もし、このような「発想」が、正面から、直接教えられのであれば、多くの人は、むしろ、それに反発し、また、そのような「発想」の「ボロ」も見えやすく、割合早く、覆っていたかもしれない。

それは、正面から、表に掲げられて伝えられるのではないが、この社会の「システム」の「暗黙の前提」として機能している、言わば、秘密の「暗号」のようなものである。それは、この「社会」で生きていく限り、誰もが、事実上、自ら「見い出さ」なけれならないものとして、置かれている。いわば、「宝探しゲーム」のようなものとして、「仕込まれ」ているのである。それは、そのように、半ば、秘密めかされたものであるが故に、表立って、問題とされることは少ない。しかし、同時に、そうであるが故に、自ら「発見」されることとなる、「貴重」なものとして、保持されるのでもある。

私自身は、小学6年の頃には、このような「唯物論的発想」を「身につける」ことになった。それも、ほとんど確信に近いもので、「霊的なもの」などは、「絶対」と言っていいほど、「あり得ない」ものと思っていた。そのような「見方」は、ほぼ10代の間中、続いた。今考えても、なぜ、うかつにも、これほどの強い「確信」を持ってしまったのか、信じ難いものがある。が、やはり、私にとっても、「世界」について「分かる」と「思える」ことが、いかに重要なことだったかということである。その「分かる」ことを失ってしまうことが、いかに壮絶なことかを知る、「分裂病的状態」を経験するに及んでは、なおさら、それが身に染みて分かる。

私は、「世界」についての、「真実」を知りたいという思いが、人一倍強いつもりでいた。が、実際には、「真実」そのものよりも、「分かった」と「思える」こと、そのものの方が、重要であったことを、認めざるを得ない。

「分裂病的体験」で「分かった」ことは、いかに、「世界」というものは「分からない」ものか、ということである。実際には、「分からない」からこそ、「分かった」と「思える」ことが重要なのであり、また、容易には、それを「手放せない」のである。

「社会」そのものが、やはり、それを、どこかで「分かって」いるところがある。だからこそ、それは、正面から大手を振ってではなく、どこか、「隠微」に「秘密めかされた」仕方で、伝えられるのである。また、そうであってこそ、人々の「必要性」に訴える形で、「確実」に伝わるのでもある。

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