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2011年1月

2011年1月31日 (月)

「唯物論的発想」を「身につける」こと

前回みたことは、「霊的なもの」を「認めない」ということの、意識的な理由というよりも、「深層」の理由であり、「個人的」なものというよりも、一種「集合的」なものでもある。だから、個々人が、必ずしも、そのように意識しているということなのではない。しかし、深層において、我々を強く規定しているが故に、厄介で、覆すことが難しいのである。

もう少し、表面的または実際的なレベルにおいて、我々が、「霊的なものを認めない」という「発想」、つまり、「唯物論的発想」を、どのように「身につけ」ていくのかということなら、もう少し簡単である。

それは、現代の日本または類似の文明社会に生まれた者は、多くの者が、少なくとも一旦は、このような「発想」を、自然と「身につける」ものだからである。


「身につける」というのは、主体的に、考えられた先に、そのような「見方」をするようになったというのではない。この「社会」は、そのような「発想」を、基本的な前提としてできているのだから、この社会に生まれる限り、いずれは、多くの者が、ごく自然と、そのような「発想」を「身につける」のである。ただし、それは、通常、特定の誰かに、直接教えられるというものでもない。そのような「発想」は、この社会に生まれて、この社会を規定している、一定の「知識」を身につけた段階で、おのずと、「身につけ」られるものなのである。

それは、ほとんど、この社会に生まれる限り、半ば強制された「コース」なのだが、しかし、それは、「身につけられ」た時点では、まるで、自ら、主体的に「身につけた」かのように、錯覚されてしまう。その見方自体は、確かに、「直接」、強制されたものではなく、いわば、自ら「発見」したかのように、出会われるからである。

そのようにして、「身につけ」られた、「発想」とは、「世界」そのものについての、「ものの見方」として、初めて、「手に入れら」れたものである。それは、それまでは、一個の「未知」であり、「謎」であった「世界」というものを、初めて「分かった」という「気にさせる」、強力な体験である。

「世界」とは、「宇宙」や「人間」のことであり、また、我々の「社会」のことでもある。それは、我々を取り巻く、我々にとって、大いに利害と関心のあるものである。それらについて、「分かった」と「思わせてくれる」「見方」を「手に入れる」ことは、非常に「現実的」な観点から言って、「必要」なことである。

そのような「発想」を、「自ら」、「身につけた」と感じられる分、それは、貴重なものとして、以後も、大事に保持される。それは、もはや、容易には、覆されることのないものとなるのである。

多くの者が、このような「見方」を「身につける」のは、「世界」つまり、「宇宙」や「人間」、「社会」について、ごく大まかでも、その全体像をつかむに足る、「知識」を得る頃である。(大体、小学高学年から中学頃であろう)

「宇宙」については、その、巨大で謎めいた代物も、要するに、物質的なエネルギーの塊が爆発してできた、一個の「物質的なものの総体」に過ぎないということが、大枠として見え始める。「人間」については、その大まかな身体的構造が知られ、人間特有の、謎めいた、思考や意識などの活動も、要するに、「脳」の活動に基づくということが、知られてくる。要するに、「宇宙」や「人間」というものが、「物質」という「概念」の大枠を知ることによって、一気に、「知られる」ものとなってくるのである。

さらに、「社会」、つまり「大人たち」の「発想」の基本にあるものも、実は、こういった「発想」またはその延長上にあるものであることが、見えて来る。「大人」または「世間」という、「子供」にとっては、やはり、一個の「謎めいた」ものが、一応とも「知られる」というのも、実質的には、大きな意味をもつ。

実際には、それら、「宇宙」や「人間」についての「知識」は、それ自体から、当然に「世界」が「物質的なもの」<だけ>でできている、などいう結論が導かれるものではない。また、多くの場合、そのようなことを、直接教えられるのでもない。しかし、このように、「世界」が「見えて来た」時点で、そのような議論は、ほとんど無意味になる。それまでは、一個の「謎」であった「世界」が、「分かる」こと自体が、重要なのであって、それに、十分の「見方」を「手に入れた」以上、もはや、「不足」はないのである。

もし、この「世界」にあるのが、「物質的なもの」だけでないとしたら、いくら「物質的なもの」について、知れたとしても、「世界」が「分かった」ことにはならない。「世界」というものが、「物質的なもの」として、すべて把握できる、または、その延長上に、捉えることができる、ということで、初めて、「世界」が「分かった」という「思い」がもたらされる。言い換えれば、そのためには、「霊的なもの」などは、「あってはならない」し、「ある必要もない」のである。

<して、そのような「見方」は、陰に陽に、「社会」全体の「支持」を受けているのであって、その「社会」にいる限り、つねに「リアリティ」が付与され、補強される。また、そのような「見方」をして、「益」があることはあれ、何ら不利益というものはないのである。特に、そのような「見方」を修正する必要に迫られでもしない限り、そのような「見方」を変える必要など、普通はないことになる。

そこで、特に、子供の頃から霊能があったとか、近くにそういう者がいたとか、親などから、特に霊的な事柄や伝統を教えられたなどという者でない限り、この社会では、このような発想を「身につける」のが、自然の成り行きである。

私が子供の頃にも、中には、「霊的なものはある」ということを、さかんに訴えかける人が結構いたが、その人も、本当に、心からそのように信じていたか、疑問である。これは、その者も、既に、先のような「発想」が「身につい」てしまい、この「社会」というものが、そのような発想を前提に成り立っていること、つまり、多くの者が、そのような発想になっていることを前提としての、一種の「子供らしい」「反抗」のようなものといえる。しかし、実際には、その者も、本当に、そのような発想が覆せると思っているかどうかは、疑問なのである。

何しろ、要点は、「事実」として、どうこうというよりも、「世界」について、「分かる」と「思える」ことが重要なのである。人は、まず、そのように、「世界」を「分からせ」てくれる、「ものの見方」を、ほとんど本能的に、求めている。この社会においては、それを初めに与えてくれるが、ほぼ必然的に、そのような「唯物論的発想」になるということである。

「世界」についての「見方」を「身につけ」て、一旦は、紛いなりにも、「世界」というものが、「分かった」ということになったら、「世界」が「分からない」とは、どういうことかを、もはや想像することも難しいかもしれない。しかし、「世界」が「分からない」ものになったとき、どのようなことになるかということを、如実に知らしめてくれるのが、「分裂病」である。

「分裂病的状況」では、一旦「身につい」た、「世界」について「分かった」はずの「見方」が、根本的に覆る状況にある。「世界」というものが、全くの「未知」であった、元々の状態へと、戻されるのである。「分裂病」に対する恐怖というのは、様々な面から言い得るが、多くの者は、その振る舞いに、「世界」というものが「分からなく」なったとき、人がどうなるかを、如実にみるという面が、必ずあるはずなのである。

そこで、「世界」について「分かる」ということが、いかに「重要」なことで、「手放し」てはいけないものであるか。それなしでは、まさに、この「世界」においては、ほとんど、「まとも」には生きていけないものであるか、ということを、再確認できるのである。


このような「見方」は、既にみたとおり、「直接的」に伝達されるのではなく、各人が、自ら「身につける」ことによって、伝えられるというのが、一つの巧妙な「仕掛け」である。もし、このような「発想」が、正面から、直接教えられのであれば、多くの人は、むしろ、それに反発し、また、そのような「発想」の「ボロ」も見えやすく、割合早く、覆っていたかもしれない。

それは、正面から、表に掲げられて伝えられるのではないが、この社会の「システム」の「暗黙の前提」として機能している、言わば、秘密の「暗号」のようなものである。それは、この「社会」で生きていく限り、誰もが、事実上、自ら「見い出さ」なけれならないものとして、置かれている。いわば、「宝探しゲーム」のようなものとして、「仕込まれ」ているのである。それは、そのように、半ば、秘密めかされたものであるが故に、表立って、問題とされることは少ない。しかし、同時に、そうであるが故に、自ら「発見」されることとなる、「貴重」なものとして、保持されるのでもある。

私自身は、小学6年の頃には、このような「唯物論的発想」を「身につける」ことになった。それも、ほとんど確信に近いもので、「霊的なもの」などは、「絶対」と言っていいほど、「あり得ない」ものと思っていた。そのような「見方」は、ほぼ10代の間中、続いた。今考えても、なぜ、うかつにも、これほどの強い「確信」を持ってしまったのか、信じ難いものがある。が、やはり、私にとっても、「世界」について「分かる」と「思える」ことが、いかに重要なことだったかということである。その「分かる」ことを失ってしまうことが、いかに壮絶なことかを知る、「分裂病的状態」を経験するに及んでは、なおさら、それが身に染みて分かる。

私は、「世界」についての、「真実」を知りたいという思いが、人一倍強いつもりでいた。が、実際には、「真実」そのものよりも、「分かった」と「思える」こと、そのものの方が、重要であったことを、認めざるを得ない。

「分裂病的体験」で「分かった」ことは、いかに、「世界」というものは「分からない」ものか、ということである。実際には、「分からない」からこそ、「分かった」と「思える」ことが重要なのであり、また、容易には、それを「手放せない」のである。

「社会」そのものが、やはり、それを、どこかで「分かって」いるところがある。だからこそ、それは、正面から大手を振ってではなく、どこか、「隠微」に「秘密めかされた」仕方で、伝えられるのである。また、そうであってこそ、人々の「必要性」に訴える形で、「確実」に伝わるのでもある。

2011年1月20日 (木)

日本人が「霊的なもの」を認めない理由

「目に見えない」(物質的には確認できない)、「霊的なもの」が、一般に認められるのにつれて、「分裂病」も「了解」され得るものとなる、ということを述べた。逆に言えば、「霊的なもの」が認められない限り、「分裂病」が、本当に「了解」され得ることはないのは、自明のことと思われる。

今後、全体として、徐々にでも、そのような方向に行くことは、間違いないだろうが、特に、日本では、それは、まだまだ容易なことではない。

日本人が、「霊的なもの」を認めない理由を、一言で言うなら、「捨てた女(男)と、いまさら、よりを戻す気にはなれない」からである。

もちろん、日本に限らず、近代社会とは、何ほどか、それまでの「霊的なもの」を「切り捨て」て、「物質的繁栄」という方向を「選ん」だことにより、スタートしたのである。

しかし、そのあり方が、極端にはっきりしているのは、やはり日本である。それまで「つき合っ」ていた女(男)を、まるで、すべて、その女(男)の「せい」であったかのように、いきなり「切り捨て」て、手のひらを返すように、新たな女(男)に乗り変えた。そうやってこそ、世界の中で、一角の「成功」を収めて来たのである。

「捨てた」女(男)のことは、悪く言い、まるで、汚点であったかのように、忘れようとした。新しい女(男)のことは、幸福をもたらす「女神」であるかのように、称賛した。しかし、最近になって、その新しい女(男)も、決して幸福を約束してくれるものではないことが、分かって来た。だからと言って、いまさら、蹴るように「捨てた」女(男)と、そう容易く、「よりを戻す」ことなど、できるはずがないではないか。

もちろん、表面的な理由をあげれば、他にもいろいろあげられるが、結局のところ、突き詰めれば、そういうことである。

要は、「理性的」なものではなく、「感情的」なものなのであり、むしろ、だからこそ、厄介で、容易には覆しようがないのである。

しかし、それは、単に、「捨てた」側の、「後ろめたさ」や「プライド」といった問題だけというのではない。実際に、かつての女(男)に、過去の「誤り」を詫びて、「よりを戻す」というだけの、「魅力」があったのかどうか、改めて考えても、大いに怪しいからでもある。

日本では、確かに、縄文時代から、江戸時代まで、基本的に、「霊的なもの」が重視されて来た文化といえる。しかし、それが本当に、とれだけ人々を幸福にし、益をもたらしたかと言えば、かなり怪しい。どの時代にも、争いもあれば、悲惨な殺し合いもあった。何かと、多くの物事を、「恐れ」て生きなければならなかった。決して、「精神的」には、今と比べて、人々が、「豊か」であったなどと言えるものではない。

実際、我々が、これを「捨てた」理由は、そのように「判断」したからである。「物質的な繁栄」を「約束」する、新たな女(男)の方が、よく見えたことは、疑いないのである。

それどころか、我々は、過去の女(男)に、「騙さ」れ、酷い目に会って来たのだとすら、考えた。むしろ、それは、「蹴り捨てる」ことこそ、ふさわしいものだった。そもそも、過去の女(男)が、「売り」にする「霊的なもの」などは、実在しない「幻」だったとすら、みなされた。人々は、何千年もの間、その「幻」に惑わされ、翻弄され続けたというわけだ。

過去の女(男)を、一言で言うならば、「魔女」である。実際、西洋においては、それは、大々的に「狩られる」ことによって、近代への移行がなされた。「霊的なもの」に対する否定的イメージが、すべて「魔女」に仮託されて、葬り去られたのだと言える。

日本においても、民衆が、「被差別民」を徹底的に虐殺するという形で、似たことが起こっている。その執拗さは、そのようなものの「遺伝子」を、わずかたりとも、後の「世」に残してなるものかといった、強烈な意志すら感じさせる。

我々は、それまでは、一応、敬い、畏怖して来た「霊的なもの」を、徹底的に「蔑み」、「恐れ」、「なきもの」として、葬り去って来たのである。そのようにして、現代に通じる、新たな「生き方」ないし「システム」を、スタートさせて来たのである。

こうみてくれば、我々が、容易に、そういったものを「覆す」ことなど、できるはずがないことが分かるであろう。

確かに、我々にとって、「霊的なもの」の意味合いは、もはや、当時のものとは違うという見方もできる。当時は、「霊的なもの」とは、ただ、それしかないように、当たり前の、空気のようなものとして、接せられたのだが、我々は、新たに、「物質的なもの」を経験したうえで、その価値を見直したうえ、「霊的なもの」と接することができる。

しかし、このような見方も、かなり、怪しいものだ。そんな見方は、やはり、現在の女(男)の「よくない」ところが見えて来たので、過去の女(男)が、未練がましく、よくみえてきたというだけの話に過ぎないだろう。そもそも、そんなに、容易に「よさ」の認められるものだったら、あんなにも、極端な「切り捨て」方はしなかっただろう。

そのような、強烈な「切り捨て」方をしたことまでを覆して、本当に、「物質的なもの」より、「霊的なものの方がいい」などと、心底言えるのか、大いに疑問である。

いや、時代は、もはや、どちらを選ぶかということではなくて、両者を、いかに「調和」させ「統合」させるかの問題である、と言うかもしれない。

一応、もっともらしいが、しかし、それも、結局は、過去の女(男)もダメ、新しい女(男)もダメ。それなら、両方を足して2で割って、「いいところ」だけ「頂いて」しまえばいいといった、「ご都合主義」以外の何ものでもないだろう。 

私は、この点については、しばらく前までは、割と楽天的で、一旦その方向がつけられれば、意外と早く、「霊的なもの」が認められることになると思っていた。そして、そうなれば、少なくとも、今のあり方よりは、よっぽど「まし」な「社会」が、実現されるだろうと思っていた。むしろ、なぜ、割合、ちょっとしたことで踏み出せるはずのそういう方向に、ほとんど誰も踏み出そうとしないのか、不思議で仕方がなかった。

しかし、今は、前述のように、それが、そう容易くいくものでないことがよく分かるし、たとえ、一旦、そういう方向にいったとしても、どこまで、それが貫徹されるか、怪しいものと思っている。さらに言えば、たとえ、そういう方向にいけたとしても、それが、本当に「いい」ものになるとも、思えなくなっている。

かつて、我々は、それを、本当に躍起になって、「切り捨て」た訳だが、これまで私が述べて来たことからも分かるように、「霊的なもの」には、そのように、我々の「手に負え」ず、「おどろおどろし」く、「恐ろしい」面があるのは、事実である。つまり、人の「コントロール」が効かず、人を容易く、「狂気」や「無秩序」に追い込む面がある、ということである。

近代において、「霊的なもの」の「価値」を再認しようとする「スピリチュアリズム」では、あえて、そのような面には触れずに、聞こえのいい、「いい面」ばかりを強調しようとする。しかし、それは、むしろ、「霊的なもの」につきまとう、そのような「否定的イメージ」を意識するからこそでもあろう。そのような、「価値」で塗り込めない限り、「受け入れ」難いものであることを、十分意識しているということである。

ところが、「霊的なもの」を、一般的に、「認め」、「受け入れる」という場合、そういう面を抜きには、考えられないのであり、「いいところ」だけを切り離して、「受け入れる」などということはできない。そして、「霊的なもの」の、そういった面との「確執」は、現在も、ただ「封印」されて、いわば「休戦」されているだけであって、実際のところ、まだ本格的に、なされたものとすらいえない。だから、今後も、一般的に、「霊的なもの」との、感情的な「格闘」または「葛藤」は、まだまだ続いていくのであり、むしろ、「霊的なもの」が意識化されるのに伴って、より本格化していくとも考えられる。

そう簡単に、「解決」や「受容」などということは、望めないのである。シュタイナーが、そういった本格的な「闘い」が、西暦7000年代(!)に起こると言っているのも、あながち、否定できない。

2011年1月 8日 (土)

「怒り狂っている人」のたとえ

前に触れたとおり、「分裂病」にも、「物質的な基盤」ないし「側面」があることは確かである。それについては、最近の解説書には、かなり詳しく載っているから、それを参照にしてもらえばよい。(例えば、岡田尊司著『統合失調症』PHP新書。最新の知見が、よくまとめられて、分かりやすく述べられている。)

ここでは、これまで述べて来たことと、このような「物質的な基盤」ないし「側面」とが、どういう関係にあるかということを述べておきたい。

それには、次のような「たとえ」で理解するのが、分かりやすいと思う。

何か、非常に、「怒り狂っている人」がいるとする。血相も形相も変わり、爆発せんばかりに興奮しているのが分かる。言葉も、「しどろもどろ」で、何を言っているかよく分からない。一体、この人が「怒り狂っている」「原因」は何だろうか。

普通は、その人に、何かが起こったのだと考える。外部的なある出来事があって、それが、その人を「怒り狂わせている」と考えるのである。その人は、奥さんに浮気をされ、しかも別れ話までつきつけられたのかもしれない。あるいは、大事にしていた盆栽を、知らない間に、誰かに壊されたのかもしれない。

そのような「外部的な出来事」と、「怒り狂う」ということの結果が、一般に「了解」できることなら、それらの外部的な出来事を、「怒り狂う」ことの「原因」と言っていいはずである。少なくとも、「常識的な判断」ではそうである。別に人は、そこに、それ以上の「原因」など求めもしない。その「原因」が「分かって」しまえば、もはや、「怒り狂っている」ことがそれほど気にならなくなるし、なだめたり、慰めるなど、何らかの対処も可能である。

しかし、その人を、「怒り狂わせる」ような、外部的な出来事が、はっきりとは「見えない」とする。そうすると、その人が、なぜ「怒り狂っている」のかが、問題となってくる。最近は、理由もなく、「怒り狂う」という人もいるようだが、周りは、やはりその「原因」は何なのか、気になるところである。

「怒り狂う」ということには、身体的なレベル、特に脳の神経レベルで、「物質的なプロセス」が伴っている。ノルアドレナリンなどの神経伝達物質が、異常に分泌され、ひどい状態であれば、神経繊維にも、異常がみられるかもしれない。この人が、特に「理由」も見当たらないのに、「怒り狂っている」のは、これらの、脳の「異常な反応」が「原因」とみることができるかもしれない。神経伝達物質の分泌や神経繊維に異常があるので、特に「理由」がなくとも、「怒り狂う」という反応をしてしまうのである。

実際、そのような「脳の反応」を抑える薬(精神安定剤など)を与えれば、とりあえず、その人の興奮状態は、治まることだろう。そうすれば、やはり、それは、「脳の反応」が「原因」であったということで、少なくとも、周りは、円く収まるはずである。あえて、他に「原因」を模索するなどということは、なされる必要がなくなる。

あるいは、その人は、もともと「切れやすい」性格なのであり、神経的にも、そのような特殊の傾向を持っているのかもしれない。だから、特にはっきりとした「外部的原因」はなく、普通は何でもない些細なことでも、「怒り狂って」しまうのである。何らかの「外部的原因」はあったかもしれないが、それは一般に、「怒り狂う」ことの「原因」として、「了解可能」なものではない。だから、その場合の「原因」は、その者自身の、元々の「傾向」の方なのであり、いわば、「神経の過敏さ」や「脆弱性」が「原因」なのである。

このようにして、「外部的な原因」が「見当たらない」場合には、「原因」を「内部的」なものに求めるしかなく、しかも、「物質的なプロセス」という「目に見える」ものに求めることが行われる。それで、「原因」としては、「分かった」ことにされるのである。

このたとえで、「怒り狂っている人」を、「<CIAにつけ狙われている>と言って、警察に駆け込んで来た人」に置き変えてみれば、ほぼ、そのまま「分裂病」の場合にも、あてはまるはずである。

そこに、はっきりとした、「外部的原因」が見当たるなら、やはり、特に他に「原因」などは、問題とならないはずである。「怒り狂う」ことの、「外部的な原因」が、はっきりみえる場合と同じである。たとえば、普通はあり得ないとしても、実際に、まかり間違って、CIAにつけ狙われていたとか、CIAではなくとも、何らかの「組織」に、間違って狙われるということが起こってしまった場合などである。その場合は、その奇妙な行動にも、とりあえず、本人の言っているとおり、またはそれに類する「原因」があるので、周りも一応、「了解」がつく。だから、特に「原因」も求められないし、それに、「分裂病」などと「病名」をつける必要もない。

逆に言えば、「分裂病」の場合、「怒り狂う」以上の常軌を逸した行動をし、周りを困惑させるにも拘らず、そこに、「外部的な原因」が「見当たらない」ことが問題なのである。本人は、あくまで、その「外部的な原因」を主張するが、それが、少なくとも、周りには、とても「了解」できる代物ではない。だからこそ、それは、「病気」とみなされるのである。

後は、明確な理由が見当たらないのに、「怒り狂っている人」の場合と同じである。そうだとすれば、もはや、「内部」に目をつけるしかない。そこで、そこに起こっている、身体的または神経的な「プロセス」が注目される。そこには、「怒り狂っている人」の場合と同様、あるいはそれ以上の、「神経伝達物質の分泌の異常」または「神経繊維の異常」がみつかるかもしれない。そうすると、それ自体が、そういった反応を引き起こしている「原因」という風にみなされる。

あるいは、その者は、「切れやすい」人と同様、元々、神経的に「過敏」または「脆弱」な傾向をもっていて、些細なストレスによって、「発狂」しやすいのかもしれない。それで、そのような反応が引き起こされるものとみなされる。

しかし、そのような「物質的プロセス」とは、本来、たとえ、「外部的な原因」があろうがなかろうが、そこに、明らかに、「異常」な「興奮」状態が生じている以上、それに伴って、生じていること自体は、変わらないものであるはずである。つまり、「怒り狂っている」人は、たとえ、「奥さんに浮気され」て怒っているのであろうが、「原因」も見当たらずに、怒っているのであろうが、そこに、ある「異常」な「物質的なプロセス」を伴っていること自体は、変わらないはずである。

しかし、「外部的な原因」がある場合には、その「プロセス」は、特に問題ともされない。それどころか、むしろ、そのような「物質的なプロセス」は、「外部的な原因」のために生じた、「怒り」という「結果」の一側面とみなされるのが普通である。

ところが、ただ、そのような「外部的な原因」がみつからないときは、「物質的なプロセス」が、あえて、「原因」の位置に、持ち上げられているのである。本来は、「結果」であるはずのものが、「原因」にすり替えられている、と言ってもいい。


あるいは、「切れやすい」人の場合のように、もともと神経に「過敏性」「脆弱性」がある場合には、確かに、一定の「物質的基盤」があるということは言える。しかし、それでも、「怒り狂う」ことに、一般に「了解」されるような「外部的原因」が、はっきりとあるのであれば、あえて、そのような「基盤」が問題となることも、多くはないであろう。それは、分裂病の場合に、「親和性」がある人(「分裂気質」の人)の場合にも、同じことがいえるはずである。

さらに、「分裂病」の場合には、このような「内部的」な「物質的プロセス」を「原因」とすることは、「怒り狂っている人」の場合以上に、一般にも、納得し難い面を残すはずである。「怒り狂う」ということが、ある「物質的なプロセス」の「反映」ということなら、まだ理解しやすい。しかし、CIAにつけ狙われる>とか、<神や宇宙人に監視される>、<思考を盗まれる>などという、突飛で、奇妙なことがらを確信することが、単に、ある「物質的なプロセス」の「反映」ということで、本当に納得できるかどうかは、疑わしいからである。

私がこれまで述べて来たことは、「分裂病」の場合にも、「怒り狂っている」人の例と同じような、「外部的な原因」に相当するものはある
、とうことである。ただ、残念ながら、それは、一般に、「目に見える」レベルのものなのではない。もちろん、それは、分裂病者が、「文字通り」に主張するとおりのものというのではない。分裂病者本人も、その「見えない」ものに対しては、十分に把握しかねており、また強い「恐れ」を抱いていて、正面から認めること自体困難なのである。だから、とても、一般に「分かる」ようなし方で、それが表現されることはない。

そのように、それは、「見えない」レベルのことなので、「怒り狂っている人」の場合のように、誰にも、明確なものとして把握できるものでないのは確かである。しかし、それは、その者に、「外部的」に、働きかけるものであることに違いなく、また、そのような働きかけが、先にみたような、分裂病的な反応の「原因」として、大きく影響していることが(そのようなものが認められる限り)、一般に「了解」され得るだけのものである。

だから、それが、一般に「了解」される限り、他に「原因」を求める必要がないか、少なくとも、それらは、さほど重要なものではなくなるばすのものである。


そもそも、「外部的な原因」が「見当たらない」からこそ、そこに「原因」を求めるしかなかったものなのだから、それは当然である。

そのような、「見えない」「外部的原因」とは、これまで述べて来たとおり、「霊的なもの」であり、「外部」から、「意図」的な「働きかけ」をする、「非人間的」な「霊的存在」である。そのような「外部的」働きかけに対する、「反応」として、「混乱」や「妄想」などの、「分裂病的反応」が生じている、ということである。実際には、そこには、その者自身の、様々な「心理的要因」も絡んでいる。が、やはり、そこで大きく主導権を握るものは、そのような「霊的存在」の「働きかけ」というべきなのである。

このような、「霊的存在」の外部的な働きかけを抜きにしては、分裂病にみられる、尋常でない、「恐怖」や「混乱」。また、その状況に対する、ぎりぎりの「解釈」として生ずる、<CIAにつけ狙われる>とか、<神や宇宙人に監視される>などの、「突飛」な「妄想」を、本当の意味で「了解」することは、不可能というべきである。

そのような、「妄想」は、いわば、はた目にも際立つ、まさに、最も「分裂病らしい」反応である。そのようなものこそを、「了解」させ得るものでなければ、「分裂病」の「原因」と呼ぶには、ふさわしくないはずである。

そのようなものに目を向けず、「内部」的な 「プロセス」をいくら「解明」しようとしても、それは、「怒り狂っている」人を、一般的な意味で、「了解」させるようには、人を「了解」させることなど、とてもできないのである。

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