他人を「巻き込む」こと
「分裂病」というのは、他人を「巻き込む」ような、何らかの「騒ぎ」を起こしたため、病院に連れて行かれて、そこで、医師に「分裂病」と診断されるというのが、典型的なケースである。(「自他に危害を及ぼす危険」があると判断されれば、本人の同意なく、入院させることも可能。)
他人を「巻き込む」ような、何らかの「騒ぎ」を起こさなければ、「分裂病」ということが、「表面化」したかどうか分からないし、その者の人生も、その後、どうなっていたか分からない。また、この他人を「巻き込む」ということのために、周りの者は、「分裂病」によくないイメージをもつ、という面も大きい。
「分裂病」的な反応が、「混乱」、「錯乱」をもたらし、他人を「巻き込む」ことになる可能性が、かなり高いのは事実である。しかし、それは、できる限り「抑えられる」べきであるし、本来、「抑えられる」はずのものであるということが、これまで述べて来たことの、要点の一つである。それは、決して、普通考えられるようには難しいことではなく、前にみたように、予め、「幻聴」の性質について知るなどの、そう難しくないことで、かなうはずのことなのである。
他人を「巻き込む」ような行動に出てしまうのは、一言で、「精神錯乱」のためといわれる。が、それには、そうなってしまいやすいだけの、いくつかの具体的な要素がある。
一つは、「幻聴の声」を文字通り、現実の誰かの「声」と思っている場合で、そうすれば、その者の(攻撃的な)「声」に反応して、反撃を加えるなどの、具体的な行動に出てしまう可能性が、高まる。
あるいは、特定の誰かではなくとも、「CIA」その他の現実の「組織」を「妄想」の対象としている場合で、自分への「迫害」が、物理的なレベルでの「現実」のものと思っている限り、「警察に駆け込む」その他の、周りを「巻き込む」行動に出てしまう可能性が、高まる。
要するに、「幻聴の声」を、「現実」の他者や組織の者の声などと「混同」している限り、何らかの形で、人を「巻き込む」ような行動に出てしまうことは、目に見えているのである。この点で、予め、「幻聴」の性質を知っていて、「幻聴」であることを推察または自覚できることが、それを抑えることに大きく役立つのである。
しかし、そうは言っても、分裂病的な状況は、何かと、「混乱」をもよおす事態に満ちているのは確かである。そして、結局、そのような「混乱」は、「幻聴の声」や、起こっている状況というものが、それまでの自分の経験に照らして、「おかしい」もの、「未知」のものであり、どうしても、自分では「対処し得ない」、「手に負えない」ものと感じられることによって、起こっている。人を「巻き込む」ような行動に出るというのは、一種の「SOS」であり、助けが必要なことの、サインともいえる。
確かに、近代以前や、今でも未開の民族は、そういった事柄には、「個人」の負担をできる限り除いて、「集団」で対処しようとして来た。それが、「個人的」に対処することの、難しい事柄であるのは、目に見えていたからである。今でも、基本的に、それは変わりなく、「集団」を頼りたい気になることは、もっともなことである。
しかし、現実には、近代以降は、そのような「目に見えない」領域のものは、「切り捨て」てしまったが故に、逆に、「集団」としては、そういったものに対して、「無力」になってしまった。それでも、現代も「集団」で「対処」すること自体は捨てていないが、それは、とりあえず、「物理的な力」で、強引に「ねじふせ」ようというものであり、要するに、医師または病院の力を借りた、「治療」という名目での、物理的な「押え付け」であり、「隔離」にすぎないものになっている。(最近は、いくらか変わって来たと言っても、その基本的な方向自体が変わった訳ではない。)
残念ながら、現代では、「分裂病」的な事態について、「集団」を頼ることなど、できる状況ではないのである。そもそも、「自分」が対処し得ないのなら、「他人」も対処し得るはずがない。この点は、やはり、予め、肝に銘じておかなければならない。
ただ、この点についても、結局は、自分が、「幻聴の声」を「幻聴」として、十分に自覚できないことが、影響している点は大きいはずである。それが、「幻聴」として、とりあえず、他の者と「共有」はできないものであること、自分自身が「引き受ける」しかないものであることが、十分認識されているかどうか、ということである。それが、十分認識できれば、「他者を頼る」という方向にいく可能性も、かなり抑えられるはずなのである。
ただし、それは、必ずしも、「自分だけ」で、すべてを解決しなければならないものである、ということなのではない。ただ闇雲に、他者を「巻き込む」のではなく、自分なりの「判断」に基づいて、医師その他の者の「助け」を借りることは、できるかもしれない。ただ、それは、いずれにしても、自分で「引き受ける」ということを抜きにしては成り立たないもので、結局、どうあれ、「孤独な戦い」になることは必至である。
この点では、かつての「UFO目撃者」や「宇宙人遭遇者」というのは、「異常な事態」を「引き受け」つつ、よく「孤独」に耐えて、強い忍耐力を発揮したと言わねばならない。こういった、「異常」で、「理解困難」な出来事を、誰にも言わず、自分一人で内心に抱えて、何とか、耐え通した者が多いのだから。
もっとも、「UFO」や「宇宙人」といった、それなりに「明確」な形で現れたものというのは、たとえ、「未知」の「恐ろしい」ものでも、分裂病的に、「曖昧」で「漠然」としたものより、「腹をくくり」やすいということが言える。それが、継続的なものではなく、一時的な体験だとすれば、なおさらである。
分裂病の「恐ろしさ」というのは、「明確な対象」に対してというよりも、「漠然」としていて、「明確に把握しかねる」もの(それゆえ、様々に「想像」を刺激するもの)に対してのものなのである。
ところが、かつての、「UFO目撃者」や「宇宙人遭遇者」も、「MIB(メン・イン・ブラック)」の訪問を受けてからは、俄然、「分裂病」と類似の、「曖昧」で、「訳の分からない」「恐怖」の世界へと、追い込まれたはずである。
それは、人間と解するにしても、人間とは解せないにしても、いずれにしても、何か、「訳の分からない」ものに「付けまとわ」れ、「監視」されている状況を示している。しかも、UFOや宇宙人の体験のことを、誰にも言っていないとしたら、それは、誰も知るはずのないことを、知っているのであり、「筒抜け」になっていることの、証しである。プライバシーなど、あったものではない。
こういったことが、ただでさえ、「孤独」に耐えなければならない状況にある、これらの者に与える効果というのは、大きかったと思われる。それは、もはや、単に、「UFO」や「宇宙人」に遭遇したという「事実」だけでは済まされない、違った意味の、「混乱」と「恐怖」をもたらしたはずである。
それで、結局、UFOや宇宙人の体験、さらにMIBの体験の、公表に踏み切ることにした者もいたようだ。(この場合は、分裂病者が、闇雲に、「他者を巻き込む」のとは、同一視できない。また、それは、まさに「分裂病」そのものとみなされるという、危険をかけてのものでもある。)しかし、それで、MIBからの報復を受けた者というのは、特にいないようだ。この点からも、要するに、MIBの「脅し」というのは、「現実的」なものではなく、「恐怖」をもたらすこと自体が、目的であるのが分かる。
このように、「分裂病者」も、「幻聴」という事態を迎えたときには、「UFO」や「宇宙人」といった、「未知」のものに遭遇して、それを「秘密」里に、一人で抱え込んで、取り組むのと同じぐらいの、「気概」が、要求される訳である。
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