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2010年12月

2010年12月26日 (日)

他人を「巻き込む」こと

「分裂病」というのは、他人を「巻き込む」ような、何らかの「騒ぎ」を起こしたため、病院に連れて行かれて、そこで、医師に「分裂病」と診断されるというのが、典型的なケースである。(「自他に危害を及ぼす危険」があると判断されれば、本人の同意なく、入院させることも可能。)

他人を「巻き込む」ような、何らかの「騒ぎ」を起こさなければ、「分裂病」ということが、「表面化」したかどうか分からないし、その者の人生も、その後、どうなっていたか分からない。また、この他人を「巻き込む」ということのために、周りの者は、「分裂病」によくないイメージをもつ、という面も大きい。

「分裂病」的な反応が、「混乱」、「錯乱」をもたらし、他人を「巻き込む」ことになる可能性が、かなり高いのは事実である。しかし、それは、できる限り「抑えられる」べきであるし、本来、「抑えられる」はずのものであるということが、これまで述べて来たことの、要点の一つである。それは、決して、普通考えられるようには難しいことではなく、前にみたように、予め、「幻聴」の性質について知るなどの、そう難しくないことで、かなうはずのことなのである。

他人を「巻き込む」ような行動に出てしまうのは、一言で、「精神錯乱」のためといわれる。が、それには、そうなってしまいやすいだけの、いくつかの具体的な要素がある。

一つは、「幻聴の声」を文字通り、現実の誰かの「声」と思っている場合で、そうすれば、その者の(攻撃的な)「声」に反応して、反撃を加えるなどの、具体的な行動に出てしまう可能性が、高まる。

あるいは、特定の誰かではなくとも、「CIA」その他の現実の「組織」を「妄想」の対象としている場合で、自分への「迫害」が、物理的なレベルでの「現実」のものと思っている限り、「警察に駆け込む」その他の、周りを「巻き込む」行動に出てしまう可能性が、高まる。

要するに、「幻聴の声」を、「現実」の他者や組織の者の声などと「混同」している限り、何らかの形で、人を「巻き込む」ような行動に出てしまうことは、目に見えているのである。この点で、予め、「幻聴」の性質を知っていて、「幻聴」であることを推察または自覚できることが、それを抑えることに大きく役立つのである。

しかし、そうは言っても、分裂病的な状況は、何かと、「混乱」をもよおす事態に満ちているのは確かである。そして、結局、そのような「混乱」は、「幻聴の声」や、起こっている状況というものが、それまでの自分の経験に照らして、「おかしい」もの、「未知」のものであり、どうしても、自分では「対処し得ない」、「手に負えない」ものと感じられることによって、起こっている。人を「巻き込む」ような行動に出るというのは、一種の「SOS」であり、助けが必要なことの、サインともいえる。

確かに、近代以前や、今でも未開の民族は、そういった事柄には、「個人」の負担をできる限り除いて、「集団」で対処しようとして来た。それが、「個人的」に対処することの、難しい事柄であるのは、目に見えていたからである。今でも、基本的に、それは変わりなく、「集団」を頼りたい気になることは、もっともなことである。

しかし、現実には、近代以降は、そのような「目に見えない」領域のものは、「切り捨て」てしまったが故に、逆に、「集団」としては、そういったものに対して、「無力」になってしまった。それでも、現代も「集団」で「対処」すること自体は捨てていないが、それは、とりあえず、「物理的な力」で、強引に「ねじふせ」ようというものであり、要するに、医師または病院の力を借りた、「治療」という名目での、物理的な「押え付け」であり、「隔離」にすぎないものになっている。(最近は、いくらか変わって来たと言っても、その基本的な方向自体が変わった訳ではない。)

残念ながら、現代では、「分裂病」的な事態について、「集団」を頼ることなど、できる状況ではないのである。そもそも、「自分」が対処し得ないのなら、「他人」も対処し得るはずがない。この点は、やはり、予め、肝に銘じておかなければならない。

ただ、この点についても、結局は、自分が、「幻聴の声」を「幻聴」として、十分に自覚できないことが、影響している点は大きいはずである。それが、「幻聴」として、とりあえず、他の者と「共有」はできないものであること、自分自身が「引き受ける」しかないものであることが、十分認識されているかどうか、ということである。それが、十分認識できれば、「他者を頼る」という方向にいく可能性も、かなり抑えられるはずなのである。

ただし、それは、必ずしも、「自分だけ」で、すべてを解決しなければならないものである、ということなのではない。ただ闇雲に、他者を「巻き込む」のではなく、自分なりの「判断」に基づいて、医師その他の者の「助け」を借りることは、できるかもしれない。ただ、それは、いずれにしても、自分で「引き受ける」ということを抜きにしては成り立たないもので、結局、どうあれ、「孤独な戦い」になることは必至である。

この点では、かつての「UFO目撃者」や「宇宙人遭遇者」というのは、「異常な事態」を「引き受け」つつ、よく「孤独」に耐えて、強い忍耐力を発揮したと言わねばならない。こういった、「異常」で、「理解困難」な出来事を、誰にも言わず、自分一人で内心に抱えて、何とか、耐え通した者が多いのだから。

もっとも、「UFO」や「宇宙人」といった、それなりに「明確」な形で現れたものというのは、たとえ、「未知」の「恐ろしい」ものでも、分裂病的に、「曖昧」で「漠然」としたものより、「腹をくくり」やすいということが言える。それが、継続的なものではなく、一時的な体験だとすれば、なおさらである。

分裂病の「恐ろしさ」というのは、「明確な対象」に対してというよりも、「漠然」としていて、「明確に把握しかねる」もの(それゆえ、様々に「想像」を刺激するもの)に対してのものなのである。

ところが、かつての、「UFO目撃者」や「宇宙人遭遇者」も、「MIB(メン・イン・ブラック)」の訪問を受けてからは、俄然、「分裂病」と類似の、「曖昧」で、「訳の分からない」「恐怖」の世界へと、追い込まれたはずである。

それは、人間と解するにしても、人間とは解せないにしても、いずれにしても、何か、「訳の分からない」ものに「付けまとわ」れ、「監視」されている状況を示している。しかも、UFOや宇宙人の体験のことを、誰にも言っていないとしたら、それは、誰も知るはずのないことを、知っているのであり、「筒抜け」になっていることの、証しである。プライバシーなど、あったものではない。

こういったことが、ただでさえ、「孤独」に耐えなければならない状況にある、これらの者に与える効果というのは、大きかったと思われる。それは、もはや、単に、「UFO」や「宇宙人」に遭遇したという「事実」だけでは済まされない、違った意味の、「混乱」と「恐怖」をもたらしたはずである。

それで、結局、UFOや宇宙人の体験、さらにMIBの体験の、公表に踏み切ることにした者もいたようだ。(この場合は、分裂病者が、闇雲に、「他者を巻き込む」のとは、同一視できない。また、それは、まさに「分裂病」そのものとみなされるという、危険をかけてのものでもある。)しかし、それで、MIBからの報復を受けた者というのは、特にいないようだ。この点からも、要するに、MIBの「脅し」というのは、「現実的」なものではなく、「恐怖」をもたらすこと自体が、目的であるのが分かる。

このように、「分裂病者」も、「幻聴」という事態を迎えたときには、「UFO」や「宇宙人」といった、「未知」のものに遭遇して、それを「秘密」里に、一人で抱え込んで、取り組むのと同じぐらいの、「気概」が、要求される訳である。

2010年12月 3日 (金)

要は「非-人間的なもの」/「MIB」

前回、「幻聴」の特徴として、抑えるべきポイントを3つあげた。

これは、端的に言うなら、(分裂病性の)「幻聴」は、要は「非-人間的なもの」であるということである。

特に、3の<「幻聴」の内容には、どこかしら、「不自然」で、「非現実的」、あるいは「非日常的」な要素が含まれる>というのは、そのような「非-人間的なもの」の「反映」そのものである。

しかし、我々は、―私もそうだったが―、そのような、尋常でない「声」に接したときには、まずは、それまでの経験の延長上に、「人間的なもの」に引き寄せて捉えようとする。実際、それしか手立てがないわけである。

そのような「声」は、「見かけ」上は、「人間の声」と同じであり、恐らく、そのように「装われる」のでもあろう。だから、「人間的なもの」に引き寄せることは、決して難しくはない。しかし、そうした場合、どうしても、そこには、まさに、「不自然」で、「非現実的」、あるいは「非日常的」な要素が顔を出すことになる。それが、どうしても、何か「おかしい」という、「違和感」を、感じ取らせてしまうのである。それは、たとえ、その者が、それを、現実の「人間の声」と「解釈」している場合でも、必ず、つきまとうはずのものである。

(その「おかしさ」こそが、「分裂病(的反応)」の「発端」であり、「大元」である。そして、それを、いかに「解釈」して、(自分なりに)「おかしくない」ものに帰させるかというのが、「妄想」という試みの「すべて」と言ってもよい。しかし、そのような「試み」によっても、結局は、その「おかしさ」は、「解消」されることがない。それは、要するに、「非-人間的なもの」だからであり、「人間的なもの」によっては、ごまかしようがないからである。)

具体的には、たとえば、前回みたように、そんなことを言うはずのない者が、執拗に「なじっ」て来たり、誰も知るはずのないことを、言って来たりするのもそうである。あるいは、通常は、考えもしないような、「突飛」なことを言ってくるのもそうである。

しかし、それは、内容に拘わらず、既に「声」そのものの「響き」からして、そうである。独特の「力」に満ちていて、逆らい難い、威圧的な「響き」がある。人を「なじる」ときでも、いわば、「非情」に徹し、「無慈悲」そのものである。人間が、人をなじったり、悪態をつくときというのは、何かしら、「感情的」なものが、感じられるものである。その「なじる」こと、「悪態」そのものは、許容できず、理解できないとしとても、そこに、何かしら、「感情的」なものが感じ取られることによって、その部分については、何らかの「理解」は及ぶものである。

しかし、この「声」には、そのような、「感情的な要素」が欠けている。ただ、「非情」「無慈悲」に、「なじる」ことに徹しているのである。

この「声」が、全体として、「曖昧」であり、「訳が分からない」ものとして感じられるのは、その「内容」による部分もある。が、むしろ、そのように、その「声」自体が醸し出す、そのような、「人間的なもの」から掛け離れた要素によるところも大きいのである。

それらが、全体として、「不自然さ」や、「訳の分からなさ」を醸し出し、何か「得体の知れない」「未知のもの」を「暗示」させるのである。


既にみたように、人間は、そういったものを、とりあえずは、「人間的なもの」を通してしか、把握することはできない。だから、そういったものを、一般的に表現しようとするなら、それは、「人間的なもの」では「ない」、つまり、「非-人間的なもの」として、表現するしかないのである。

前に、UFO関連の本を読んでいたら、「MIB」(メン・イン・ブラック)というのが出てきて、興味をひいた。全身「黒ずくめ」の男の意味で、UFOを目撃したり、宇宙人とコンタクトした人物のところに現れて、いろいろ調査して、帰って行く。その事件について、「他言したら、命はない」と脅すことも多い。CIA等の組織を名乗ることもあるが、後で問い合わせると、そんな人物はいないことが分かる。

その男は、歩き方が機械的で異様であり、言動も不自然で、奇妙である。飲み物を差し出すと、飲み方が分からなかったり、ストローやスプーンというものを知らなくて、使い方を質問して来たりする。まさに、「人間(的なもの)」としては、「不自然」で、「非現実」なのである。

それで、この「MIB」の正体については、オリオン系のネガティブな「宇宙人」であるともいわれる。

しかし、私は、やっていることは、「精霊」と全く同じであると、思わず笑ってしまった。
恐らく、「彼ら」は、それなりに「人間らしく」振る舞っているのだろうが、どうしても、その「奇妙」な、「非-人間的なもの」が、どこかしら、現れ出てしまう。それで、「人間」としては、「不自然」で、「非現実」な面が、隠せないのである。

「彼ら」も、決して、「人間」についてよく知っている訳ではなく、本当には、人間のことが、よく分かっていないのである。あるいは、そもそも、人間について、さほど深い興味がある訳でもなく、その観察も、かなりいい加減なものである。

何しろ、本当に、「人間らしく」振る舞うことなど、どだい無理なのである。(狐や狸が「化け」ても、いずればれてしまうのと、ほとんど変わらない。)

しかし、一方で、「彼ら」も、そのことが、人間にもたらす効果については、十分認識している。「人間」のような「みかけ」を有しながら、その「不気味」で、「訳の分からない」ものがもたらす、「混乱」や、「得体の知れない」「恐怖」というものは、よく分かっているのである。そして、実際に、それこそが、ほぼ唯一ともいえる、「目的」なのである。

つまり、「彼ら」は、別に、人間が勘ぐるような、大層な「目的」のためではなく、ただ、人間に、「混乱」や「訳の分からない」「恐怖」をもたらすためにこそ、そんなことをやっているのである。全く、「暇人」もいいところである。(ただし、人を「苦悩」や「混乱」で「忙しく」させるために、「忙しく」しているとはいえる。もっとも、現在では、UFO現象などは、どこでも当たり前のように目撃されるので、もはや「彼ら」も、いちいち現れている場合ではないようだが。)

そして、「幻聴の声」の場合も、ほぼ、この「MIB」の場合と同じことがいえる。「人間的なもの」を装ってはいるが、どうしても、その「不自然」で「非現実的」な面は、表に現れ出てしまう。本来の、「非-人間的なもの」は、とても、隠せないのである。

しかし、それこそが、人間に「混乱」や「訳の分からない」「恐怖」をもたらすこと、そして、それがために、「狂っ」てくれることは、よく承知している。それで、それは、一つの「戦略」として、飽きもせずに、繰り返し、行われるのである。

近代以前には、人間の側にも、「彼ら」に対する一定の「知識」や「知恵」というものがあったから、それは、必ずしも、効果を発揮しなかっただろう。しかし、近代以降の人間は、「彼ら」の存在そのものを、「葬っ」てしまったから、逆に、その「ワンパターン」的な「戦略」がよく効くのである。

しかし、人間の側も、そろそろ、その「ワンパターン」的な「戦略」に引っ掛かることからは、卒業すべき時だろう。

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