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2010年11月22日 (月)

「幻聴」の特徴、性質が知れ渡ること

私も、これまで、「幻聴」の特徴、性質については、特に意識して、具体的かつ細かく述べて来た。実は、このような「幻聴」の性質が、広く知れ渡るようになるだけで、「分裂病」の反応が、かなりの程度、抑えられる可能性があるのである。特に、他人を困惑させる、激しい「錯乱」や、典型的な「妄想」は、大きく抑えられるはずである。

言い換えれば、激しい「分裂病的な反応」は、「幻聴」ということについて、ほとんど何も知らないことからくる部分が大ということである。何も知らない者が、いざ「幻聴」というものに触れたときに、激しく起こす、「混乱」や「拒否」、「抵抗」の反応が、その大部分だからである。

実際、最近、「分裂病の軽症化」ということが言われるが、それには、分裂病の「幻聴」のことが、以前に比べれば、知られるようになったことが、大きく影響していると思われる。

たとえば、最近は、「べてるの家」のような施設が、本やビデオを通して、「幻聴」のことをかなり詳しく紹介している。一般にも、「分裂病」が、かつてに比べれば「タブー視」されなくなったため、興味をもつ人は増え、「幻聴」のことが、いくらかでも、知られるようになって来ているのである。

また、このことは、現に「幻聴」を体験することになる本人に、直接影響するだけではない。周りの人一般が、「幻聴」について、いくらかでも知るということ自体が、分裂病者に対する態度を軟化させ、それが間接的に、分裂病者の反応にも影響するという面も大きいのである。

端的に言うと、「幻聴」というものは、これまで、あまりにも、「異常」なものであり、「認め難」く、「あってはならない」ものだった。医学的には、「病識がない」などと言うが、実際、「幻聴」に触れたときに、それをすぐさま、「幻聴」と認めるなどという基盤は、社会的に、現実として、存在しなかったのである

実際に、「現実の声」と同じように聞こえるが、とても尋常でない内容の「声」を、頻繁に聞くようになったと仮定してみよう。誰か、そんなはずのない人の、「なじる声」でもいいし、みんなが、「君は救世主だ」などと言ってくるという「声」でもいい。

「幻聴」とは、これらが、「現実の声」そのものとして聞こえるとしても、実際には、現実の「声」ではないということ。言い換えれば、自分には聞こえても、他の者には、聞こえていない「声」であるということである。

「声」の「尋常でない」性質や内容からすれば、それが、「本当の声」ではなく、「幻聴」である可能性は、少なくとも、何らかの形で、考慮されるといわねばならない。しかし、一般に、多くの「分裂病者」は、そこで、あえて、この「声」を「現実の声」と解してしまう。というよりも、他の可能性を「拒絶」して、それに「凝り固まる」ので、他の可能性は、もはや「みえなく」なるのである。

それは、結局、「幻聴」というものを、ほとんど何も知らないか、漠然と知っていても、強く「恐れ」ているため、それを「認める」ことを拒否した、ということである。

まず、多くの者は、「幻聴」というものが、「現実の声」そのもののように聞こえるものとは、思っていないのである。「幻聴」には、たとえば「空耳」と同じような、「はかなさ」というか、「虚ろさ」があって、実際には、「現実の声」と聞き分けられないはずがないと思っている。それで、それが、どう聞いても、「現実の声」そのものように聞こえると、「幻聴」であるはずがないとして、「みかけ」の方が重視されてしまうことになる。

また、多くの者は、「幻聴」というものは、あるとしても、非常に「まれ」で、「異常」な現象であって、それが「自分」に降りかかってくるなどということは、つゆとも、思っていないのである。だから、その可能性などは、ほとんど、初めから、まともには考慮されることがない。

この「まれ」で「異常」な現象ということだが、それは、もう少し突っ込んでみるなら、結局、次のいずれかになるはずである。

1つは、その「声」が、他人には聞こえないということは、「物理的な声」ではないということである。しかし、はっきりと、それそのものとして聞こえるということは、「現実」に、存しているはずのものである。だから、それは、「テレパシー」という超常的な現象か、「霊」の「声」なのである。

もう1つは、他人には聞こえない声が聞こえるということは、現実には、存していない声か聞こえるということである。それは、要するに、自分は「病気」ということ。「精神病」であり、「分裂病」ということである。

そして、(最近では、いくらか変わって来たとてしも)、しばらく前までは、このどちらの可能性もが、とても、「受け入れる」ことのできるものではなかったのである。

「超常的なもの」、「霊的なもの」などは、多くの者が認めるものでも、まともに取り上げられるものでもなかった。「霊の声を聞いた」などと言えば、それこそ、「頭がおかしい」と思われるのが落ちだった。これでは、「霊的なもの」と解すにしろ、「分裂病」と解すにしろ、どっちに転んでも、結局は、「頭がおかしい」ことになるではないか。

そうでなくとも、「霊的なもの」とは、ひどく、「おどろおどろし」く、「恐ろしい」ものだった。それは、「祟っ」たり、「取り憑く」もので、人を、「狂わせる」ものだ。誰もが、そのようなものに、好んで触れたいとは思わない。

しかし、一方の「分裂病」のイメージも、「霊的なもの」に負けず劣らず、「おどろおどろしい」ものだったといえる。一旦、そう診断されたら、もはや、治る見込はない。一生、精神病院で、社会から隔離され、いたぶられ、人間以下のものとして扱われる。むしろ、「現実的」な意味では、こちらの方が、より強い「恐れ」をもたらすとすらいえる。

だから、どちらの可能性も、まともに「認める」ことなど、できるわけはないのである。

普通は、これらの可能性を、そこまで踏み込んで、意識的に考慮するということは、少ないであろう。「幻聴」という事態は、予期も準備もないままに、急に起こるので、とても、冷静に、考慮できる状況ではないこともある。

しかし、たとえ、潜在的にではあっても、それらを、「幻聴」とみた場合の、そのような「結果」というのは、必ず、どこかで、十分「くみ取られ」ていると言うべきなのである。だからこそ、それを、「幻聴」と「認める」ことは、頑なに拒まれるのである。「不自然」で、「あり難い」ことだとしても、「現実の声」そのものとして認めて、それを、何らかの「妄想」的解釈で「納得」することの方が、「まだしも」なのである。

そのようなことは、医学的には、「病識がない」などと言われるが、そもそも、社会の状況そのものが、そういったものを認める基盤を、欠いていたのである。ある意味で言うと、そんな可能性を、容易には「認めない」方が、よほど「まとも」ともいえる状況だったわけである。

ところが、現在では、「霊的なもの」のイメージも、「分裂病」のイメージも、大分変わって来た。物事には、「目に見える」「物質的なもの」ばかりではなく、「目に見えない」「霊的なもの」も「あり得る」ことが、いくらか認められて来た。また、それは、必ずしも、「おどろおどろしい」ばかりではなく、人に、「益」や「糧」をもたらすものであることが、認識されて来た。

さらに、「分裂病」に対する「治療」の実態も、社会の捉え方も、かつてほど酷いものではなくなってきた。「精神的な疾患」というものが、他にも、様々あることが知られて来て、現代では、誰もが、何らかの「精神疾患」にかかる可能性は、十分予期されるようになって来た。それで、「分裂病」も、必ずしも、特殊な「病気」とはみなされなくってきたといえる。さらに、「幻聴」そのものが、必ずしも、「分裂病」に特有のものではなく、他の病気にも、多くみられる、決して「まれ」ではないものであることが分かって来た。

現在では、「分裂病」も、必ずしも、一方的に、「マイナス」のイメージばかりではなく、ある種の「プラス」のイメージで、みられる場合もある。「霊的なもの」や「霊能者」については、むしろ、「プラス」のイメージでみられることの方が多いはずである。

そういう訳で、現在では、先のような「幻聴」を体験したとして、それを「幻聴」と認めることは、かつてほど難しい状況ではなくなっているといえる。

実際、自ら、「幻聴」を認めて、外来などで、治療を受けに行く人も多いと聞く。あるいは、それを、「霊的なもの」と解釈したうえで、何とか、「折り合い」をつけながら、暮らしている人も、結構いるのではないかと思う。「霊的なもの」として認めるとしても、「分裂病」などの「病気」として認めるとしても、それは、かつてほど、困難ではなくなっているということである。

私自身の見方は、これまでみてきたとおり、「分裂病」は、「霊的なもの」であると同時に、「病気」でもあるというものである。しかし、とりあえず、この両者の見方が分断する可能性があるとしても、それらを、本人自身が認める可能性が増えて来たことは、望ましいことというべきである。

そういったことは、今後、「幻聴」の性質というものが、もっとよく知られるようになれば、ますます進んで行くだろう。

そこで、その場合に、「幻聴」の性質として、抑えておくべきポイントを、確認しておきたい。

1 「幻聴」は、「現実の声」と同じように聞こえるものである。

これこそが、「幻聴」と「現実の声」を混同する、最も大きな要因なので、まず確認されるべきことである。既にみたように、「幻聴」にも様々あって、中には、頭の内部ですることの、はっきり分かるものもあるようである。しかし、「分裂病性の幻聴」は、「外部」から伝わってくる感覚があり、ほぼ「現実の声」と同じようなものである。厳密には、区別はでき、慣れれば、その区別も、さほど難しいものではないが、初めて接する場合に、「現実の声」と区別することは、容易ではないはずである。

「幻聴」なるものは、「現実の声」と区別できるはずだという思い込みは、廃さなければならないのである。

2 「幻聴」には、独特の「力」があり、圧倒的で、威圧される要素がある。

これも、「分裂病性の幻聴」の特徴かもしれないが、「幻聴」は、それ自体に、強力な「力」がある。そのため、その「リアリティ」も、むしろ「現実の声」以上のものと感じられる。「現実の声」以上に、深く印象に刻まれ、心に残り、無視することが、難しいのである。むしろ、その点こそを、「現実の声」との、区別の基準としてもよいくらいである。

私は、「現実の声」では、どうがんばっても、人に「分裂病」を起こすことはできないと思う。それだけ、「幻聴の声」は、「独特」のもので、「力」があり、「囚われ」を生みやすいのである。

3 「幻聴」の内容には、どこかしら、「不自然」で、「非現実的」、あるいは「非日常的」な要素が含まれる。

「幻聴」は、 それが、本当に「現実の声」だとすれば、「しっくり」いかないような、
「不自然」で、「非現実的」、あるいは「非日常的」な要素が必ず含まれる。先の例でみたように、本来は、そんなことを言うはずのない者が、ことさら「なじる」ことを言ったり、「救世主」など、突飛な言葉が出てくる。あるいは、自分しか知らないはずのことを、言ってくるのもそうである。

このように、その「不自然」で「非現実」な感じは、必ず、本人にも意識されるはずである。だから、本来は、その内容からして、「現実の声」ではないことが、疑われて然るべきなのである。ところが、既にみたように、かつては、それを「幻聴」として、認識する方向自体が、ほとんど閉ざされていたのである。

しかし、この「不自然」で、「非現実的」、あるいは「非日常的」な要素は、「おかしい」という「違和感」とともに、一方で、人に、「未知」のものを暗示させることでもある。ある点から言うと、その「不自然」で「非現実的」な要素こそが、最も大きな「恐怖」を醸し出すのである。「不気味さ」、あるいは、何か「得たいの知れない」ものを、予感させるということである。まさに、「ホラー映画」の「導入部分」のようなものである。

「妄想」では、それを、ことさら、「CIA」その他の「現実」にある「組織」のものとして、「解釈」しようとするのも、ぎりぎり、その「未知」の要素を、解消しようとしてのことといえる。

「幻聴」の性質がある程度知れたとしても、この「未知」の要素に対する「恐怖」というのは、そう簡単に、和らぐものではないはずである。しかし、それも、「霊的なもの」が、ある程度知られるようになってくるのと平行して、徐々に、薄らいではくるはずである。

いずれにしても、まずは、このような「幻聴」の特徴、性質というものが、一般に広く知られることが、重要である。それは、ここにみたように、割と「単純」な要素に絞られるのであり、「バリエーション」としても、そう多いわけではない。

要は、「現実の声」と同じようであるが、何か、とても、「不自然」で、「尋常」でないことを言ってくる。この「声」には「力」があって、普通だったら気にならないばすなのに、どういうわけか、とても気になって、囚われてしまう。そして、それが、どういうことなのか、全体として、意味が「曖昧」であるために、つい、自ら、「こうでもない」、「ああでもない」と、思考を連ねてしまう。

このような場合には、それは、もはや、「(分裂病性の)幻聴」であることが、十分疑われる。

できれば、「現実の声」かどうか、確かめることができれば一番いいのだが、残念ながら、現在は、そう気軽に、「ねえ、今の声聞こえた?それとも、僕の幻聴かな?」と、確かめ合えるような、社会ではない。しかし、何らかの、確かめようはあるもので、自ら、まともに、「幻聴」を疑うことさえできれば、その手立ても、意外とみつかるものである。

そうすれば、ますます「幻聴」ということが、はっきりしてくるはずである。

そして、それが「幻聴」と判断された場合に、それをどのように「把握」し、また、どのように「対処」するかは、もはや、その者自身の問題と言わねばならない。既にみたように、「幻聴」は、「霊的なもの」と解する余地もあるし、医学でいう「分裂病」(またはその他の病気)と解する余地もある。しかし、現在のところは、両者とも、厳密に説き明かされているわけではないから、最終的には、その者自身の「判断」に任せるしかない。

いずれにしても、これまでのように、周りによって、ほとんど「強制的」に押し付ける形ではなく、自ら、「判断」がつけられるようになることが、重要なのである。「幻聴」について、広く知れ渡たり、かつてほどの、激しい「混乱」が抑えられるようになれば、そういう方向に行けるはずである。

(現在では、「分裂病」の「恐ろしい」イメージよりも、現に「幻聴」につきまとう、「未知」の要素の、「恐ろしい」面の方が勝る状況なのかもしれない。それで、最近は、自ら、「幻聴」を認めて、それを抑えてもらおうと、病院に治療に行く人も増えているのだろう。それは、それで、一つの選択なので、結構なことである。)

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