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2010年10月16日 (土)

公案の2「死」とは何か

既にみたように、クリシュナムルティの、「肉体の死というものはある。が、<死>とはそれをはるかに越えたものだ」という言葉に接するまでは、「死」とは何かを、分かったような気になっていた。

結局、我々は、「死とは何か」という問いを、この「私」が、「死んだらどうなるのか」という、個人的な関心で、すり替えてしまっているところがある。そうすると、唯物論的な発想では、「死んだら無になる」だけ。死後も魂が残るという発想になると、「死なるものはない」ということで、死を分かったような気になるのである。

だから、クリシュナムルティの「死」についての公案は、改めて「死そのもの」とは何かを、問い直すものとなった。それまでは、「死」について問うたときも、実際には、本当に「直視」すべきものを、素通りしていたわけで、それが、「死そのもの」であったことに、気づかされたのだ。

しかし、「観ること」と同じように、「死そのもの」とは何かも、結局は、自ら「体験」することでしか分からないものである。また、それは、「肉体の死」とは異なり、必ずしも、「肉体の死」を待たずに、体験し得るものでもある。

そして、「分裂病的状況」とは、まさに、そのような「死」の深みへと入って行く過程にほかならない。それも、単に、一気に通り過ぎていくのではなく、徐々に、一枚一枚ベールを剥ぎ取るように、その「死」が「深み」を露わにして行くのである。非常に、じわじわと、思う存分、「死」と「親しく」できる過程である。もちろん、そのどこまでの「深み」に至れるかは、それに対する「抵抗」や「あがき」との兼ね合いによる。しかし、可能性として、これ以上に、「死の全貌」を身を持って体験できる場合など、ほかには考えられないのである。

それまでの、「死なるものはない」かの発想は、要するに、「死の恐怖」を克服できたかのような、発想でもある。死んでも魂が存続するなら、別に死そのものは、怖いものではない、という発想である。しかし、「分裂病的状況」を通して、「死」が、じわじわと身に迫る過程を通して、自分が、死を克服したかのように思っていたことが、いかに「幻想」であったかを思い知らされた。それは、「恐怖」以外のなにものでもないからだ。

実際に、その過程で、「死」ということは、何度も意識させられる。「自殺」を真剣に考えたこともある。しかし、それが、本当に身に迫ると、もはや、(自殺するまでもなく)「本当に死ぬのだ」という、疑いようのない、直截な感覚となる。その頃からは、まさに「死そのもの」との、本格的な「遭遇」である。

それは、また、「宇宙の死」という形で、意識されるようにもなる。「外部世界の全体」である「宇宙」そのものが、完全に消滅するという意識が、強く襲うのである。それは、「分裂病的過程」を通して、「宇宙」が、「混沌」とした「意味」のないものに化したことの影響も大きいだろう。しかし、単に、「変容」したというのではなくて、確かに、「終わる」という意識が伴うのである。ただ、それには、「私」の「死」ということが、真に差し迫っていることの、外部的な反映という面は確かにあろう。

いずれにしても、「宇宙の死」ということは、当然「私」も「死ぬ」のだが、それは、もはや、「私」が生まれ変わるということのあり得ない「死」である。私は、当時、(理解の仕方はいろいろあるが)基本的に、「生まれ変わり」ということを受け入れていたが、この「宇宙の死」は、そのようなことも「無意味」に化すのである。もちろん、「物質的な宇宙」が死んだとしても、それで、魂としての死後の存続までが、当然になくなるわけではないだろう。しかし、「宇宙の死」ということは、たとえ何らかの魂の存続があるとしても、それを全く「無意味」ならしめるもので、事実上ないのと同じことである。

つまり、そこで、私は、何らの「留保」もない形での、「死」を迫られたということである。いったん、「死後生」などを受け入れると、そんな機会は、めったにないものとなるが、それが、実際に起こったということである。

そこで、もはや私は、抵抗の力もなくなっていたことにもよるが、これを「受け入れ」ざるを得なかった。つまり、「宇宙」とともに「自分」が完全に消滅することを、「受け入れる」しかなかったのである。

その後、前回みたように、「虚無」の実体的な面というべき「闇」が、突然、自分に差し迫り、「包み込む」ことになって、「観る」ということが起こった。それは、「死そのもの」との本格的な遭遇の過程の、いわば「クライマックス」として、起こったのである。

その差し迫った、「虚無」の実体的な面というべき「闇」は、まさに「死そのもの」の、最も「深み」で露わになった姿と思われるのである。それ自体は、視覚的に言えば、単にエネルギーに満ちた「暗黒の塊」のようなものだが、しかし、圧倒的な「意志」をもち、それまでの過程で出会ったどのようなものをも凌駕する、途方もないものと感じられた。

そして、それこそが、あらゆる「死」の背後にある、破壊的な「力」または「実体」であり、要するに「死そのもの」と思われるのである。クリシュナムルティのいう「肉体の死というものはあるが、死とはそれをはるかに越えたものだ」というときの、「死」である。我々のよく知る、「肉体の死」というのは、それが働く一場合に過ぎず、それも、比較的「浅い」死に過ぎない。クリシュナムルティは、より「深い」死として、「自我の死」や「時間の死」をあげている。そのような「死」をもたらすのは、もはや、その「深み」のレベルの「死そのもの」においてこそ、可能と思われるのである。

そして、それは実際に、私の場合にも、「一瞬」ではあったが、「見るもの」としての「私」つまり、「自我」を死に至らしめたし、さらに、「肉体」というか、一つの「個体的な枠組」をも、死に至らしめたと思われるのである。

そういうわけで、ここでも、公案として作用していた、クリシュナムルティのいう「死とは何か」ということが、一応とも「解けた」のである。

さらに、この「死」は、前回みた、「止観」の「止」に関わるものでもある。この「死」により、それまでの「世界」あるいは「自我」が「止められる」からこそ、「観ること」
が可能になるのである。

しかし、そこで、結果として起こる「観ること」は、多く、一つの「価値」として、持ち上げられるが、「止」に関わる「死」そのものが、持ち上げられ、あるいは、取り沙汰されることはほとんどない。実際、「観ること」は、「悟り」または「叡知」として、人間にとって、「役に立つ」、プラスの価値のようにみなされやすい。が、「死」そのものは、何らかの価値として、受け入れられる要素は、見いだしにくい。

しかし、クリシュナムルティが、あえて、「肉体の死というものはあるが、死とはそれをはるかに越えたものだ」と言うのは、そのような「死」の「超絶性」に、改めて、注目させるものと言える。それは、確かに、結果としての「観ること」のように、何か人間が、「取り入る」ことのできるような代物ではない。しかし、クリシュナムルティは、むしろ、そのように「人間」が、「取り入る」ことのできない、真に「超絶」したものをこそ、指し示すことを重視していたと思われるのである。

だから、クリシュナムルティは、「観ること」に至る方法を説くこともなければ、それを言葉で説明することもない。それらの「超絶性」を、人間的なものに「貶める」ことは、したくなかったと思われるのだ。それは、ある種「不親切」な態度であるのは確かで、それが、結果として、多くの者に、「取っ掛かり」を与えることかできなかった理由でもあるだろう。

ただ、私について言えば、それが「公案」として作用することによって、むしろ、大きな意義をもたらしてくれたのである。

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