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2010年10月 9日 (土)

公案の1「観ること」とは何か

「観ること」というのは、一般の「見ること」しか知らなければ、非常に目新しいことに写る。しかし、たとえば、仏教などを勉強すると、「観ること」というのは、その根本をなすものであるのが分かる。仏教でも、「真理」は、「観る」ものとされているのである。

例えば、般若心経では、「観」自在菩薩は、五蘊は、「空」であると「照見」して、一切の苦を脱することができた、という宣言から始まる。以下は、その具体的な説明である。天台では、「止観」ということが、根本の教えとなる。これは要するに、それまでの「見ること」(精神活動)を「止め」たうえで、新たに、物事を「観ること」である。既にみたように、カスタネダのドンファンも、「世界を止め」て、「見ること」を教えたのだが、これは、まさに、「止観」そのものである。禅でも、「見性」といい、「本性」を「見ること」が「悟り」とされる。「座禅」は、そのための、「止」に関わるものといえる。

このように、仏教に限らず、真理というものは、つきつめれば、「止観」ということで尽きてしまうともいえる。次回にみる、公案の2の「死」というのも、この「止める」ことの根底に関わるものである。だから、この公案の1,2を合わせれば、結局は、「止観」とは何かということと、ほとんど同じである

そのように、「知的」なレベルでは、クリシュナムルティのいう「観ること」というのも、そう特別なものではないことが分かり、一応、方向性としては、「推察」のつくものとなる。しかし、その具体的な「観ること」そのものは、実際に「観ること」を通してしか、明らかにならないものである。

そして、それは結局、我々は通常、普通にいう「見ること」(「見るもの」と「見られるもの」が別個であるような「見ること」)によって、「世界」というものを築き、そのそれなりに安定した「世界」に「安住」しているのである以上、それが何らの形で、「壊れる」(「止まる」)ことでしか、開けてくる余地がないものである。

「分裂病的状況」というのも、まさに、そのような「見ること」によって築かれた「世界」が、大きく「揺ら」ぎ、「崩壊」する体験にほかならない。

「分裂病的状況」では、実際に、「見るもの」としての「私」と、「見られるもの」としての「外界」という区別が、「曖昧」になり、あるいはほとんど「無意味」になる。「私」と「外界」の境界は、希薄化し、外界と内界は、ある種融合する。外部にあるはずのものが、内部に侵入し、内部にあるはずのものが、外部に拡張する。従って、そこでは、それまでに築かれて来た、「私」と、私とは別のものとしてある「世界」という「対置」が、「揺ら」ぎ、「崩壊」しようとしている。

かつては、「見ること」というのが、「自明」のものであり、その「結果」としての「世界」というのも、「自明」のものだった。しかし、今や、それらは、何ら「自明」のものではなくなっている。もはや、「見ること」が何なのか、「世界」がどういうものなのか、「分からなく」なっているのである。

しかし、「分裂病的状況」にある者は、そのような「状況」に無抵抗に流されているわけではない。崩壊しかかった「私」は、さまざまに「あが」き、抵抗しようとする。「妄想」というのも、その抵抗の一つである。それは、まさに、安定性を失って、「分からなく」なった「見ること」と「世界」を、「解釈」によって、固定的、安定的なものに戻そうとする試みともいえる。また、そこには、「崩壊」の危機にある「私」の危機感を強く反映しつつも、必ず、その「私」を強化するような、内容が付け加えられる。崩れかかった「私」の「補償」である。

従って、このような状況での「見ること」の中には、さまざまな、「私」の「混乱」や「解釈」が入り込むことになる。

「分裂病的状況」では、もはや通常の「見ること」は「止ま」り、「見るもの」と「見られるもの」が、別個のものとはいえないような、あるいは、あるレベルにおいて、「見るもの」と「見られるもの」が「同一」であるような、新たな「見ること」が起こっている。つまり、クリシュナムルティのいう「観ること」の、少なくとも、ある側面を反映するものにはなっている。しかし、それは「純粋」な「観ること」そのものからは、大きく掛け離れているのである。

言わば、通常の「見ること」では、文化的、集合的、あるいは個人的に、「固定」し、「安定」した「私」の「イメージ」や「解釈」が入り込んでいる。「見ること」そのものが、安定した「知覚」として存在すること自体、その「反映」である。それに対して、「分裂病的状況」では、そのような「見ること」は、もはや「止まる」が、そこで、壊れかかった「私」の、危機感や混乱を反映する、別の「解釈」が、依然として入り込むのである。

私も、「分裂病的状況」にあるときは、もちろん、そうであった。結局、「分裂病的状況」における「混乱」や「苦悩」というものは、その状況に対する「あがき」から生まれるもの以外の何物でもない。言い換えれば、それだけ、我々は、「見ること」と、それによって生み出される、安定した「世界」に固執しているのである。普段は、外的「世界」に不適応感を示す、分裂気質の者も、その点では全く変わりはない。

しかし、そのような事態を「受け入れ」て、「あがき」さえ、取り払うことができれば、そこには、全く別のものが、開けてくる可能性がある。私は、「宇宙の死」という言い方で表したが、そのような「世界」の「崩壊」を「受け入れる」ということが起こってからは、事態がまた一変したのである。「宇宙」あるいは「世界」は「崩壊」して、それは、もはや、(まとまった)「意味」や「形」を喪失したのも同然となった。それは、ほとんど、「無」あるいは「虚無」そのもののとなったのである。私は、もはや、その状況をどうすることもできなかったし、そうする余地などなかった。

そして、その後、その「虚無」の実体的な面というべき「闇」(=暗黒のエネルギーの塊)が、急激に私に迫り、私を一瞬包み込んだのである。それが、迫る瞬間には、それまでに起こったどのようなことよりも、強い恐怖を感じたが、実際に、それが包み込んだ瞬間には、もはや、恐怖というものはなかった。それは、時間にすると、ほんの瞬間の出来事で、その一瞬後には、また、スッーと去って行くことになった。

しかし、その「闇」が包み込んだ瞬間には、まさに、クリシュナムルティのいう「観ること」が起こっていた、といえるのである。つまり、「観るもの」としての「私」はなく、「観るものと観られるもの」が「同一」であるような、純粋な「観ること」である。

具体的には、自分を包み込んだ「闇」そのものの「中」から、自分の身体を含む全体の状況を見渡していた、という感じである。それは、まさに「点」そのもののような、ある「視点」のようなものは想定でき、あえて空間的にいえば、頭部の数十センチ上方から、自分の身体と、周りの部屋を同時に観ているのである。

視覚的にいえば、それは、自分の身体も部屋も含めて、全体が、全くの「暗黒」と「白い光」に、完全にコントラストを形成して、2分された状態である。あるいは、「暗黒」というのは、実際には、「消失」とも感じられ、実際に、身体は、上半分が「消失」したと感じられた。だから、「世界」は、いわば、「存在」(=白い光の部分)と「無」(=暗黒の部分)に2分されたともいえる。

私は、これを、「太極図」に酷似することから、「タオ」(道)が顕現した状態などとも述べたが、それは、「後付け」でなされた「意味付け」の面が大きい。実際には、その瞬間には、そのような「解釈」や「判断」は一切何もなされていない。また、そこには、「感情」らしきものも、一切なかった。

何しろ、その一瞬の後には、また、「心の動き」が生じてしまったためであろうが、それは、過ぎ去ってしまった。だから、その状態は、「かいま見られた」だけであり、「一瞥」に過ぎない。

しかし、それは、「見るもの」と「見られるもの」が別ものであるような、「対象」としての「宇宙」が「崩壊」した後の、「世界」または「実在」そのものの消息が、本質的なレベルで、「観られた」ものであるのは間違いない。つまり、それまで「公案」として自分に作用していた、クリシュナムルティのいう「観ること」が、そこに実現していたわけである。

ちなみに、バーナデッド・ロバーツは、「虚無の中に溶解する」という「自己喪失」の体験が起こってからは、「観るもの」と「観られるもの」が同一となるという「知覚」の状態が、「恒常化」したという。それが本当だとすれば、「驚くべき」ことだが、恐らく、クリシュナムルティも、そのような「状態」にあったと思われる。

そういうわけで、それは、「一瞥」に過ぎなかったとしても、それまでの一連の「流れ」のすべてに、終止符を打つには、十分であった。それまでの、「見ること」に基づいていた、「私」や「世界」が「崩壊」したことも、もはや「問題」ではなくなった。すべては「終わり」、全く新しく「更新」されたからである。実際の感覚に即して言うと、それまでのすべての起こったことは、全くの「幻想」であった、という感覚である。もちろん、それは、その一瞬に顕現した、「観ること」の強烈さに比すればのことである。それらは、文字通り「夢」、「幻」のごときものと感じられたのである。だから、それに「囚われる」ということもなくなったのである。

それで、それは、一種の「治癒」的な作用を及ぼしたわけだが、しかし、「一瞥」である分、やはり、ある種の「中止半端」な「感覚」も免れなかった。それまでの「見ること」に基づく「世界」は、「崩壊」してしまったわけだが、同時に、そのとき、一瞬「顕現」した「観ること」の強烈な状態は、その後、全く同じレベルにおいては、一度も呼び起こせてはいない。瞑想などによって、それに「近い」状態が起こることはあるが、同じものではない。

だから、その後は、どちらにも、本当には「根付く」ことが難しく、「世界」との「折り合い」にはかなり苦労した。

しかし、今は、自分なりに、その両者の中間地点とも言うべき、それなりに「安定した」状態で、「折り合い」がついていると感じている。しばらくは、そのような、状態が続くこととなるだろう。

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