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2010年10月 2日 (土)

「公案」としてのクリシュナムルティ

よく、本自体が自分を「呼んで」いたということが言われる。もちろん、単なる「比喩」なのではない。私にも、何度かそのような体験があって、よく分かる。しかし、その中でも、クリシュナムルティの生の全体性(平河出版社)という本との出会いには、かなり特別なものがあった。

もう27年ほど前になるが、今でも、この本を手に取るときの状況は、鮮明に思い出せる。本自体が、まさに全体として「光って」いたし、他の本を「地」とすれば、この本だけが、「図」のようにして、前面に押し出るように、現れ出ていた。だから、この本を手に取るのは、ほとんど「必然」だった。

私は、当時、本を読むということが、ほとんどなかったし、「精神世界」については、スピリチュアル系のものを一部受け入れてはいたが、全体としてほとんど知らなかった。クリシュナムルティなるインド出身の「覚者」も知らなかった。また、哲学書などの「堅い」本は、一冊も読んだことがなかった。ただ、この本の対談者であるデビッド・ボームについては、著名な物理学者で、ニューサイエンス系の新たな理論が注目されている人物であるということは知っていた。

この本を手に取ったときの、少なくとも表面的な意識では、著名な物理学者とインドの「哲人」との対談というのが、面白そうだというぐらいの印象だった。で、普通は、そんな理由で本を買って読むことなどなかったのに、そのときは、ほとんど躊躇なく、買って読むことになった。

そして、実際に読んでみると、ボームなどより、クリシュナムルティの、単刀直入で、分かりやすい表現ながら、これまでの常識を根底から問いただす、力強く、明晰な語りに、強く引き込まれた。それに比べれば、晦渋で、知識人ぶってはいるが、表面をこね回しているに過ぎないような、対談相手の科学者など目ではなかった。そこには、これまでに、私が触れたことも、予感したこともない、全く新たな「世界」が、開けていることを感じた。

それ以前には、「唯物論者」だった私にとって、スピリチュアリズム的な世界を知ったときも、十分衝撃的で、新たな「世界」をもたらす感覚はあった。しかし、クリシュナムルティが、今、新たに問いただし、「示唆」する「世界」というのは、そういったレベルをはるかに越える、もっと「根源的」なものであることを、強く感じた。

クリシュナムルティは、明晰な語りで、徹底的に、「思考」または「自我」こそが、「世界」のすべての「否定」的な面の原因であることを暴き出していた。そして、それを「越える」ことでしか、何らの「可能性」も開けることがないことを、解き示していた。しかし、その「思考」または「自我」を越えた「世界」とはどのようなものなのか。また、それに至る方法については、ほとんど何も語るということをしない。

それは、現実に、「思考」が終焉することでしか、開示されない「世界」であり、ただ、現に「観ること」でしか、明らかにされないものである。だから、その「世界」や「いかにして」について、「言葉=思考」で語ることは、矛盾以外の何ものでもなく、「有害」でしかないという立場を、崩そうとしない。

だから、私にとっては、この本におけるクリシュナムルティの言葉は、禅の「公案」そのもののような作用をもたらした。これまでの、常識や見方を根底から問い直すには「十分」でありながら、その先の「正解」が「見えない」、「解けない問題」をつきつけられたようなものとなったのだ。

特に、集約的に、そのような「公案」としての意味をもたらした言葉として、次の2つが挙げられる。


1 「観ること」とは何か
2 「死」とは何か



既にみたように、クリシュナムルティによれば、「思考」を越えた「世界」は、現に「観ること」でしか明らかにされない。ただ、その「観ること」のひとつの消息として、「観るもの」と「観られるもの」とが、同一であるということが挙げられる。

通常いう「見ること」というのは、「観るもの」と「観られるもの」が、主観と客体に分離していることを前提として、その主観が客体を「観察すること」(知覚すること)である。この意味での「見ること」なら、誰でもが知っている。

しかし、クリシュナムルィは、それとは全く異なる、「観ること」を、つまり、「観るもの」と「観られるもの」とが同一であるような、「観ること」というのを提示するのである。

私は、それまで、そのような、ものの「観方」なるものは、それこそ、「観たこと」も「聞いたこと」もなかった。クリシュナムルティは、通常にいう「見ること」というのが、イメージや過去、あるいは「私」に「囚われた」見方であって、大きく「限界」づけられた、「偽り」のものであることを、徹底して明らかにする。私も、クリシュナムルティの明晰な語りや、自然に自信にあふれたその態度から、それを越えた「見方」があること自体は、そのとき、既に確かなものとして「受け入れ」ざるを得なかった。しかし、それでは、その「観るもの」と「観られるもの」が「同一」であるような「観方」とは、実際にどのようなものであるのか、全く「見え」てこないのである。

だから、この「観ること」とは何か。というのは、「解けない」「公案」のごとくして、私に作用したのである。

もうひとつの、「死とは何か」というのも、クリシュナムルティの問いかけにより、改めて、根源的な「公案」として作用した。「死」というのは、常に、我々の強い関心の的なだけに、「公案」としての意義は、むしろ、こちらの方が大きいかもしれない。

「死とは何か」という問題は、別にクリシュナムルティに問われるまでもなく、人間にとって大きな問題だ、と思われるかもしれない。しかし、一方では、「死とは何か」など、改めて問うまでもなく、「分かり切った」ことだという見方もあるのである。

たとえば、「唯物論」的な見方によれば、「死」などは、要するに、「脳」の機能が停止することであり、それ以外の何ものでもない。「死ね」ば、その者の「意識」なり「私」という意識が消滅して、「無」になるだけである。別に、そこに、「問題」などあろうはずがない。

私も、唯物論者だった頃には、そう考えていた。実は、唯物論というのは、「死」に限らず、要するに、すべては「分かり切ったこと」と考えることに帰着するのである。私が、唯物論的な発想を自覚的に持ったのは、小6の頃だったと思う。その頃は、また、「宇宙」や「世界」に対する興味が、目覚める頃でもある。だから、「宇宙」や「世界」といったことに、一方では、壮大な「ロマン」や「興味」を抱くのだが、他方では、すべては「分かり切ったこと」という意識も、既に生じてしまう。

「宇宙」といっても、それは、要するに「物質の相互作用」に過ぎないのであり、物理的な法則に則って生まれた、「偶然」の産物に過ぎない。まだまだ「分からないことがある」などと言っても、それは、そのような「枠組み」の中での、具体的な要素についてであって、全体として、「宇宙」とは「何か」という問いは、唯物論的発想からすれば、要するに、「分かり切ったこと」になってしまうのである。

私は、かつて本を読まなかったと言ったが、それは、まさに、そのような唯物論的な発想によっているところが大きい。興味そのものがないない訳ではないが、一方で、その興味は大きく削がれてしまっているのである。すべては、「分かり切った」ことなので、別に、本から「学べる」ことなど、ないに等しいと思ってしまうのである。

しかし、そのような「唯物論的な発想」は、いくらかの紆余曲折を経て、19,20才の頃には覆った。「宇宙」あるいは「人間」には、「魂」という物質を越えたものがあり、その「魂」は、死んでも残ることが、ほぼ間違いないものとして受け入れられたのである。唯物論的発想の盲点は、まさに「分かり切ったこと」と思ってしまうことで、一旦、「分かり切って」しまうと、もはや、他の可能性や見方を考慮することを、止めてしまう。可能性そのものを、認めなくなるので、もはや、その可能性について、本気で、調べようとしなくなるのである。

人間の死後生存の問題なども、(当時もそうだったが、現在ではもちろん)もはや、それを、その気になって本気で調べれば、十分「肯定される」か、あるいは少なくとも、「否定できない」だけの情報は出尽くしていると言える。もはや、「まとも」に考えれば、「ない」などとは言えない状況なのである。

私は、「唯物論的発想」はもっていたが、それに凝り固まっていた訳ではなく、「真実」がもし違うところにあるなら、それを何としても知りたいという思いは、強く持っていた。それで、あるきっかけで、「唯物論的発想」が、間違っている可能性に気づくと、一応とも、本気で、十分に納得が行くまで、その可能性について調べてみた。それで、「唯物論的発想」は、覆がえることができたのである。「唯物論」には、もともと、本当に、「根拠」らしきものがある訳ではないので、その気になれば、覆るのは必然といえる。あえて言えば、いい年齢をして、いまだに「唯物論者」であるというのは、単に「怠惰」か「保身」のみで生きているということを示しているに過ぎない。

しかし、唯物論的発想が覆ったからと言って、「死」のことが、本当に分かるという訳ではない。ところが、「魂」があって、それが死後も存続するという発想になると、別の意味で、「死」のことを「分かった」ような気になるのである。それは、今度は、「死などというものはない」、という発想をもたらすのである。「死んで」も、「魂」は存続して、「生き」続けるのだから、「死」などは、単に、「肉体」という「みかけ」のことに過ぎない。だから、実際には存在しない、という発想になっても不思議はないだろう。

私も、クリシュナムルティのこの本に接するまでは、大体このような考えでいた。ところが、クリシュナムルティは、「死とは何か」と問われて、「確かに、肉体の死というものはある。しかし、死とは、そのようなものをはるかに越えたものである。」と言うのである。

「死」というものは、ないかのような発想になっていた私は、この言葉に、強く捉えられた。何か、「肉体の死」のほかに、「死」というものがあるかのようなことを言っているが、それは何なのか。そんな発想は、これまで、私は持ったことがなかった。クリシュナムルティは、「自我の死」とか「時間の死」という言い方で、そのような、「死」を暗示することを言ってはいる。それは確かに、何か「深く」、大きく物事を変えてしまうような、根源的な「出来事」であるのが、分かる。しかし、クリシュナムルティは、その、いわば「死そのもの」を、明らかに示すようなことは、何もしないのである。前に述べた、「観ること」を「言葉」で示すことはしないというのと、同じことである。

それで、私にとっても、この「死とは何か」という問いが、改めて、ひとつの「公案」のようになった。

「公案」とは、一見何でもないような、分かっている気になっていることを、根底から覆えして、新たに、真剣に問われる「問題」として身に作用してこそ、意味あるものである。その意味で、この2者は、全く「公案」と呼ぶにふさわしい作用を、私にもたらしたのである。

その後、私は、禅や、他の覚者の書物などにも興味を持ち、いろいろと勉強することになった。それで、「知的」な意味では、ある程度、これらの「公案」の回答の方向性のようなものはつけられはした。が、本当の意味では、自ら「体験」しなれけば(まさに「観ること」がなければ)、何らその「答え」にはならないことは、十分「承知」していた。それで、瞑想や座禅のようなことも始めたのだが、必ずしも、その「公案」の「答え」には届くことがなかった。

結局、この「公案」に対して、「体験的」な意味で、一応とも回答のようなものがつかめたのは、ここで述べた、一連の「分裂病的体験」を通してということになるのである。次回は、それについて述べよう。

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