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2010年9月25日 (土)

「地獄」「監獄」としての「幼稚園」

一連の体験を通して、それまでは、「無意識」のレベルで起こっていたことの、多くのことが、「意識」レベルで「思い出せる」ようになったことは述べた。それとともに、普通いう意味で(普通に「意識レベル」で起こっこと)の「記憶力」も、伸びたようである。「記憶力」というより、それを「思い出す」ときの、「再現力」といった方がいいかもしれない。単に、漠然と「思い出す」のではなくて、そのときの心理状態から、まわりの状況も含めて、現に体験しているかのように、「思い出す」のである。

もっとも、何でも、いちいち「思い出す」のではなくて、やはり、自分にとって、重要と思われることに限るようである。それも、遠い過去のことが多い。

私にとっては、幼稚園に入園するとき、その「幼稚園」を前にしたときの「映像」ないし「状況」というのが、ものすごく鮮明に残っている。その幼稚園には、門があって、その門の前で、私は、中に入りたくなくて、本気でごねていた。その幼稚園の門は、まさに、文字通り「地獄の門」に思えて、その「門」の向こうには、「地獄」が待っていることが、ありありと感じられたのである。

親の仕事の都合で、皆とは、ちょっと遅れて入園したことも影響したかもしれない。しかし、母親に連れられて門の前にいた、私のごね方は、異常なもので、本気で、「地獄」に入ることは、御免こうむりたかったのである。結局、親では手に負えず、幼稚園の先生たち総出で、なんとかなだめられて、ほとんど無理やり、中に入れられたようである。とうとう「地獄の門」は開き、私の「地獄」への第一歩が始まったのだった。

実際、「幼稚園」は、「地獄」であった。あるいは、「監獄」といった方が適当かもしれない。まさに、「監獄」そのもののような、現代の「社会」または「世間」の「縮図」のようなものであり、その第一の「登竜門」である。

直接には、(すでにその年代から十分にある)何ともややこしく、奇怪な「集団性」や、先生の言うことを機械的にやる「機械性」、あるいは多少おおげさだが、押しつけ的な「権力性」などが、「地獄」の内容ということになろう。他の多くの人にとっては、当たり前で、何でもないことかもしれないが、私にとっては、とても耐え難いものに思えた。(しかし、今思っても、現に中に入る前から、それを「予感」していたのは、ある意味すごい。)

そして、実際、このときの「幼稚園」を前にしたときの私の「反応」は、後の、私の「集団性」との「相性の悪さ」を示す、「象徴」のようなものともなった。

私は、その後、幼稚園に行くには行ったが、はっきり言って、そこには「いなかっ」た。「魂」が、ほぼ完全に「抜け出て」いたと思う。だから、その他のことでは、幼稚園での記憶というものが、ほとんどない。先生の言うことも、ほとんど聞かなかったようである。みんなで、何かをするときも、全く一人でじっとしているか、ただ他の人の後ろについて、じっとしているかである。外面的には、「自閉症」のようなもので、話しかけても、ほとんど反応がないのである。

担任の先生も手を焼いたようだが、それでも、何とか過ごせたのは、時代のためか、幸運もあっただろうか。

ただ、他に、2つばかりのことが、記憶として、はっきりとある。担任の先生も、手に負えないので、園長先生に相談したようである。園長先生は、かなり年配の女性だったが、実はその園長先生は、私に、興味をもっていたようで、私もときおりそれを感じていた。そこで、その園長先生は、私に、画用紙を一枚渡して、「何でもいいから好きなものを書いてごらん」と言った。私は、何を書いたかは覚えていないが、素直に何かを書いた。園長先生は、「うまいじゃない。できるじゃない!」と喜んでいた。

担任の先生は、びっくりしていた。何せ、それまでは、一切、言うことを聞かなかったからだ。というより、私は、何もできない、愚鈍な、厄介者と思われていたのだ。そこで、園長先生は、担任の先生に、「(こういう風にすれば)ちゃんと、言うことを聞くじゃない」と言った。担任の先生の、そのときの、何とも言えない、バツの悪そうな、屈辱的な「表情」は、今でもよく覚えている。

その後、私が、どうなったか(少しは言うことを聞くようになったか、結局は全然変わらなかったか)は覚えていない。が、後に、こんなことがあったのは覚えている。

組で、「すもう大会」みたいなことをやったのである。すると、私は、以外にも強く、決勝までいったのである。何せ、ふだんは、何もできない「バカ」同然のような子である。組のみんなもそう思っているので、それは、ちょっとした「衝撃」を巻き起こした。そして、決勝の相手は、その「空気」を感じ取り、「こいつに負けてはならぬ」みたいな、変な使命感じみたものをもってしまっていた。

そこで、私も、さすがにその「空気」には勝てなかった。決して「わざと」ではないが、わりと簡単に負けてしまった。ただ、そのとき、担任の先生が、「あーっ(残念!)」と、私に応援してくれたかのような反応をみせてくれたことは、嬉しかった。これまでは、一切何も「通じ得なかった」のが、何かしら、「通じ合えた」と思えた瞬間だった。

それにしても、この「すもう大会」も、私の、後の「人生」を象徴しているところがある。何事も、「2番」にはなれても、「1番」にはなれないという、変な「習性」が、身についてしまったようなのである。

ともあれ、「集団」にあるときに、このように、ほとんど「自閉症」的、というより「肉体から抜け出る」的な反応をしていたのは、小学3年の頃まで続いたと思う。だから、それまでは、ほとんど記憶というものがなく、残っているのは、ほんの一部しかない。

しかし、私にすれば、今でも、この年齢の時期に、そのような「集団」への「適応」を身につけるなどということは、全く信じ難く、あり得ないことに、思われる。確かに、もし、そこで、「普通」に身につけていたなら、後に「苦労」することも少なかっただろう。しかし、そうなっていたら、「分裂病的体験」を含めて、後の様々な体験は起こっておらず、ただ「それだけ」(単に、「適応する」ということ)の人生で終わっていたような気がする。

さすがに、私も、小学4年の頃からは、少しずつ、それなりに周りへの「適応」を身につけていったようである。「自我」が芽生え出したのである。小学6年の頃には、もう大分、他の生徒と変わらない、活発ではあるが、「俗っぽい」生徒になっていた。「唯物論的発想」を、自然と身につけたのもこの頃だった。「みかけ」上は、かつての「自閉症的」な面は失われたかのようにみえた。

しかし、そのように、「適応」のために身につけたものは、所詮、R.D.レインのいう「にせ自己体系」に過ぎなかった。それなりに、よく機能した時期もあったが、いずれ「崩壊」することは、目に見えていたように思う。それは、所詮、「適応」のために、ある時期から、とってつけたように「身につけた」もので、本当に、自分にフィットしていたわけでもなかった。その「違和感」のようなものは、常に感じ続けていた。

なにせ、普通は、「幼稚園」の頃には、もはや、そのような「適応」の基本を身につけているのである。私の「適応」とは、全く、年季が違い過ぎる。そのような周りの人達は、私には、別次元の人間のように思えていた。いくら自分が、それを身につけたつもりでも、それは本当には、「身体化」されるはずがなかった。

そういうわけで、私については、10才以下の頃には、全く周りの「集団性」に対する「適応」ということの基礎すらなかったのである。しかし、それ以降、急速に、「適応」のために「にせ自己」体系を築き上げていった。そして、その「無理」が、ある時期から、はっきりとたたり始めたのである。(ただし、その「適応」は、それなりには機能して、よく「ごまかし」が効いたので、普通よりは遅い時期まで、もってしまった。)

こういったことが、「分裂病的状況」へ入る「きっかけ」としての、「不適応」状態を、準備していったと思う。

しかし、「分裂病的状況」に入ることになりやすい、「分裂気質」の人というのは、多かれ少なかれ、これと似たような経過をたどるのではないかと思う。

やはり、幼い頃から、本質的ともいえる、「不適応感」を抱えていることが基本である。後に、それを「糊塗」すべく、「にせの自己」を築き上げても、それは結局、「ごまかし」に過ぎないので、いずれは、その本質的な「不適応感」が、顔を出すのである。

あるいは、むしろ、その「不適応感」に「居直る」ことができていれば、「分裂病的状況」に入ることはなかったのかもしれない。むしろ、それを、「糊塗」し、「ごまかそう」とすることが、後に「崩壊」を招くことの、大きな理由ともいえるだろう。

いずれにしても、一旦「にせ自己体系」が「崩壊」すれば、その本来の「不適応感」が、全くごまかしようのない、剥き出しの状態で、現れる。そして、いやでも、それと向き合わざるを得なくなる。それは、まさに「自明性の喪失」で、「何もかもが分からなくなる」状態に等しい。いわば、「リセット」され、全くの初めから、「適応」をやり直さなければならなくなる。それも、単に「人」との関係というのではなく、「身体」とか「外界」または「現実」という、まさに生まれたての赤ん坊のレベルからである。

そして、そうなれば、もはや「ごまかし」は通用せず、真の「折り合い」でしか解決されることがない。そのためには、もはや「にせの自己」を「築く」のではなく、多かれ少なかれ、それ以前の「真の自己」というものが、「見い出され」ていなければならない。そして、それを基礎に据えていくしかない。それは、実際に、「にせの自己」の「崩壊」の過程で、その狭間に、「見い出され」得るものである。

前回見た、いくつかの「再生」のあり方は、そのような「折り合い」、または、「折り合いに向けて」のパターンとしてみることもできる。

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