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2010年9月12日 (日)

「成人儀礼」としての分裂病

分裂病が「くぐり抜け」られることによって、結果として、「自我」の「成長」や「超越」が起こることがある。それは、つまり、「分裂病的状況」が、一つの「試練」ないし「イニシエーション」として、「超えられ」たということである。

前に「深浅さまざまなレベルにおける死と再生」ということを述べた。(記事 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-e8a1.html なお、冒頭の図を再び掲げる)

深浅 さまざまなレベルにおける「死と再生」

     ↓
      →→ 「成人儀礼」       /   →水平的方向 「再生」
     ↓
      →→「シャーマンのイニシエーション」
     ↓    
      →→「自我の超越」
     ↓
      →→「自己喪失」

    (虚無)

     ↓

垂直的方向 「死」または「喪失」

これらは、分裂病に限らず、あらゆる霊的、宗教的体験を想定したものである。しかし、「分裂病的状況」そのものは、そこで示した、あらゆる「深浅のレベル」を含み得るものなので、それを「試練」ないし「イニシエーション」として、「超えら」れた結果の、「成長」とか「超越」というのは、理論的には、そこに述べたあらゆる場合を含むといえる。

それは結局、「分裂病的状況」に入り込んだ、垂直的な方向の「深み」に関わるもので、そこで、いかなるレベルで「死」が起こったかということに、起因するものである。


ただし、「分裂病的状況」は、通常、準備もなく入り込むもので、一気に垂直的な「深み」に達するというのではなく、その状況に対する、防衛や抵抗という反応を繰り返しながら、「宙づり」状態におかれるものである。だから、事実上は、その最深部に至っての、「究極の死」ともいえる「自己喪失」などは、まず起こり得るものではなく、その前段階の「自我の超越」なども、めったに起こらないものであることは明らかである。

そこで、分裂病の「イニシエーション」的な結果としては、多くの場合、図の前2者、つまり、「成人儀礼」か「シャーマンのイニシエーション」の場合と同様または類似の結果というのが、考えられることになる。

シャーマンの「イニシエーション」(巫病)というのは、身近なところでは、沖縄のユタの「カミダーリ」が典型的である。

それは、全く分裂病に酷似するもので、実際、予期も準備もなく、「分裂病的状況」に入り込み、「幻覚」や「妄想」状態を体験し、分裂病同様の「狂気」まがいの状態に陥るのである。その意味では、分裂病の場合とほとんど変わりはない。ただ、多くは、その途上で、何らかの「導きの霊」などによって、自分自身が、シャーマンになることでしか、この状態を抜け出る道がないことを悟る。そして、先輩のシャーマンの助けを借りるなどして、その状態を「くぐり抜け」、回復して行く。そのように、その「病気」を克服する経験を通して、自らが、病気治療その他の導きをする、シャーマンになっていくのである。

そして、その体験の過程を通して、それまでの、平凡な人間としての「自我」は「死」ぬのも同然で、新たに、「精霊」とつながった、人を治療したり、導く「シャーマン」としての「自我」として、「再生」するわけである。

このように、シャーマンのイニシーションの場合は、そのイニシエーションを導く「霊的存在」が、大きく関与していると思われる。また、沖縄のように、文化的伝統として、その影響力が現に集団の中に「生き」ていることが大きいのである。

そのような「導きの存在」は、「捕食者」や「境域の守護霊」という、「分裂病的状況」に特有の強烈な「存在」が闊歩する領域にあって、自らの望む方向に導くという「荒業」をなす以上、その存在自体が、それらに劣らず「強烈」な「存在」と言うべきである。「出口なお」など、宗教の教祖の場合にも、これに近いことが起こるが、彼女にかかった「艮の金神」という神も、そういった、「強烈」な「存在」だった。

つまり、シャーマンの「イニシエーション」(巫病)の場合も、いわば、「入り口」においては、分裂病一般の場合と何ら変わりがないのである。ただ、それらは、「導きの霊」の「導き」によって、その「抜け道」が大きく変わって来る。また、そのような「道」が、文化的伝統として、保持されていることが大きく影響する。それは、あくまでも、「シャーマン」としての「イニシエーション」であり、やはり、一種「特殊」な「使命」だったり、「縁」だったりする。だから、分裂病一般の場合に、同じような道筋を行くということは、あまり考えられないのである。

ただ、そのように、「シャーマン」そのものになるというのではなくとも、事実上、そのような「霊的体験」を通して、「シャーマン」と類似の「力」を身につけたり、「シャーマン」と類似の「洞察」を得たりすることによって、「分裂病的状況」を乗り越えるということは、ままあると思われる。だから、結果として、シャーマンのイニシエーションと類似の状態が生じるということは、多くはないにしても、ままあると思われるのである。

しかし、分裂病的状況が「くぐり抜け」られて、何らかの「成長」がもたらされるという場合、最も多いのは、「成人儀礼」のようなイニシエーションと同様の結果なのだといえる。まさに、「子供」のような「未成熟」な「自我」から、「大人」の「自我」への「成長」ということである。

実際、未開社会などでは、「成人儀礼」は、14,5才の頃に行われるのだが、文明社会で、「分裂病」にかかる時期として、最も多いのも、その「思春期」の頃である。文明社会では、「成人儀礼」ということは、もはや失われているが、まさに、ある意味、「分裂病」というのは、その「失われた成人儀礼」の代替物のようなものともいえる。

本来の「成人儀礼」というのは、実際、「霊界の境域」(分裂病的状況)に一時的に入り込ませるのであり、そこで、「死」をかいま見させるのである。「儀礼」には、「死」を意識させるような「仕掛け」が必ず施されており、それには、「精霊」が関わっている場合も多い。だから、当然、それは、「精霊」との関わりというものを、意識させる体験ともなる。これは、言い換えれば、「シャーマン」という特殊な使命をもった者に対する「イニシェーション」の、簡易な、一般向き、「体験版」のようなものである。

「大人」になるとは、「人間」になるということであり、また「共同体の一員」として迎えられるということである。「人間になる」とは、「精霊」との対比で言えることであり、「肉体」という限界を背負った、「死」を知る者、「死すべき者」として生きるということである。そのような「人間」としての「痛み」や「責任」を引き受ける者が、互いに尊重し、共感し合える、「共同体の一員」として迎えられるのである。

言い換えれば、「大人」以前には、まだ「人間」は、そのような意味での「人間」にはなっておらず、いわば「精霊と人間の合いの子」のようなものである。「死」をそれとして知ることもなく、「精霊」のような、一種の「万能感」を持っていて、周りからは、ある種の「特別扱い」をもって接せられるが、「人間」としては、認められておらず、「共同体」の一員として迎えられることもない。

それが、「成人儀礼」の「イニシエーション」での、「死」や「精霊」との関わりを通して、それまでの未熟な「自我」に死んで、「大人」=「人間」の「自我」として、「生まれ変わる」訳である。

このような過程は、実際、現代の「分裂病的状況」でも、十分起こり得る。特に、「分裂気質」というのは、まさに、ここで述べた、未開社会で、「人間」となる以前の、「精霊と人間との合いの子」のような存在そのものともいえる。「アーリマン」的、「ルシファー的」の対比で言えば、「ルシファー的」傾向が強く、ユング派では「永遠の少年」などともいわれる。まさに、「子供」らしい「純粋さ」と「万能感」を持ち合わせているが、実質的には、「現実社会」の中で認めらることがなく、ほとんど何もなし遂げられない。要するに、社会の中で、「大人」としては、迎えられていないのである。

「現代社会」は、成人儀礼を失い、未開社会とは別の「複雑怪奇」な社会で、「大人」の意味は、もはや、未開社会とは大きく異っている。そこでは、多くの者が、本来の意味では、「大人」ではないといえる。(つまり、本当には「死」を「知って」も、「受け入れ」てもいない。)ただし、多くの者は、その社会に「適応」している限りで、その社会における「大人」として一応認められるのに対して、分裂気質の者は、本来的に、上にみた「大人でない」要素が際立っているため、よりそれが難しいのである。

そのような者が、「分裂病的状況」に入ることによって、「死」の恐怖や、「未知」なる存在と接し、悲痛な「葛藤」を味わう。そこでは、「死」を間近に意識し、「自己」の限界を大きく味わうことになる。それまで持っていた、子供じみた「万能感」とともに、「現実認識」が大きく壊れる。それは、単に「崩壊」をもたらす可能性もあるが、最終的には、そのような過程を通して、「人間」として、地に足のついた、新たな「自我」を組み直すことができれば、それは、確かに、「成人儀礼」の「イニシェーション」と類似の結果をもたらしたということがいえるのである。

それは、言い換えれば、それまでの、「ルシファー的」な傾向に対して、「アーリマン的」な「力」が作用して、あるレベルにおける「均衡」がもたらされたということである。

そして、それは、現代医学でいう「治療」ということとは、重なるものではないことに注意すべきである。現代医学の「治療」という概念自体が、現代に特殊の「見方」に基づいたものだし、分裂病の社会復帰というのは、社会の分裂病に対する見方に大きく依存する問題である。だから、医学的には、「治療した」と認められない者でも、「分裂病的状況」を通って長い年月の経つ者というのは、何かしら、このような意味での「成長」を遂げている面は、必ずあるというべきなのである。分裂病者の手記などを読んでも、そういったものは、感じるし、「べてるの家」のような施設が出している、分裂病者のビデオを見ても、それは感じられる。

そういう訳で、「分裂病的状況」を何らかの意味で「くぐり抜け」た場合、少なくとも、「成人儀礼」の「イニシエーション」的な結果をもたらす、ということがいえるのである。

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コメント

ティエムさんこんばんは

私もシャーマンの能力に目覚めたいですw
個人個人で違う導きの霊というのは、もしかしたらシュタイナーの体系では
「天使」かもしれませんね。 時代霊の下に民族霊、民族霊の下に個人を守る守護天使が
つくそうなので。

話は飛びますが、「統合失調症統合の軌跡」という本を読みました。
この方は統合失調症の陽性は自分の哲学が完成することで陰性はそののちの状態であると
言っている人です。 統合失調症の統合は絶対的な力をもつ神から愛されることだとも言っています。
この人はマンダラを見た人でもあるようです。「統合失調症の状態としては仏教芸術のマンダラの
中心におかれることでありマンダラの全部に自分の声が届いている状態になります」と言っています
マンダラに見るようにいろいろな魂が自分を取り巻いているのだと。そしてこの人は神や仏と会話ができるようになったようです

のめーるさん、ありがとうございます。

その人の言う、「統合」の状態というのは、私の記事の図でいうと、「自我の超越」の状態を表している可能性はありますね。

ただ、読んでみないと分からないし、「陽性状態」=「哲学の完成」というのも微妙で、容易に「妄想の完成」に滑り込んでしまう可能性あるのが、統合失調の難しいところです。一方的な「蔑み」には抗したいですが、安易な「美化」にも注意したいです。

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