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2010年8月 5日 (木)

「夢見」の中の「無意識」

前回、「無意識」なるものは、「意識」のように「壊れ」易いものではないが、いかにもいい加減で、頼りないものである、と述べた。このことは、「夢見」の中で、自分がどのような反応をしているかを「思い起こし」てみると、よく分かるはずである。

「夢」というのは、「明晰夢」(夢と自覚して見る夢)というものもあるが、普通は、「無意識」の状態で見ており、目が覚めて、初めて「思い出せる」ものである。そのときに、内容だけではなく、それに対する自分の反応に、「注目」してみるのである。「夢」を見ているときにも、無意識は、覚醒時ほど活発ではない(受動的)が、それなりに印象を持ったり、思考したり、感情を持ったりの「反応」をしている。それらを顧みてみると、いかに「無意識」というのが、「壊れない」反面、「あり得ない」ほど、いい加減で、頼りないものであるかが分かるはずである。

まず、「夢」というのは、場面が次々に、脈略もなく展開し、「現実」には「あり得ない」展開をする。ところが、それを見ている「無意識」は、その場その場で、それなりに「不思議」がったり、「訝った」りはするが、別に大きく混乱するでもなく、それを「現実」そのものとして、自然に受け止めているようである。文字通りの「現実」に、そんなことが起こったら、「死んでまうやろ」とか、「殺してまうやろ」といった事態もよく起こる。しかし、「無意識」は、そんなことも、さほど「気にせず」に、その場限りの、一貫性のない、「いい加減」な反応を繰り返すのみである。

もし、このような「夢」の展開が、覚醒時の「意識」(自我)そのものに起こったとしたら、どうだろうか。意識は、そんなことは、「あり得ない」と、大きく「混乱」し、「パニック」に陥ることだろう。あるいは、それまで身につけてきた、すべての「現実」感覚が崩れて、もはや「何が何だか分からない」状態、まさに、「分裂病」そのものの状態に陥っておかしくない。しかし、「無意識」は、決して、そういうことにはならない。

つまり、「無意識」というのは、(恐らくどんなことにも)枠づけられた「意識」(自我)のようには、「壊れ」てしまうということがない。それ自体が、ある意味の「防御」というか、「耐性」のようなものでもあるのだが、要するに、それは、「いい加減」で、主体性、内容らしきものが「何もない」ことの「裏返し」なのである。

もっと、「分裂病」と似た状況として、「夢」の中で、何者か、あるいは何らかの存在が、様々な「攻撃」的な「声」を仕掛けてくる、というような場面を想定してみよう。実際、それに近いことは、「悪夢」として、いくらでも起こり得る。そこでも、「無意識」は、やはり、その場その場で、一応「訝っ」たり、「恐がっ」たりはするだろう。しかし、それ以上に、そのことに「囚われ」て、それについて、何かと、思考の連鎖を施したりはしない。

あるいは、「無意識」も、そういった事態に耐え切れなくなって、「目を覚ます」ということも起こり得る。目が覚めて、ああ「助かった」などと思うこともあるが、その「耐え切れない」状態というのも、ただ単純に、その状態に対して「拒否」的な、「受け入れ」られない反応をしたということで、別に、分裂病的な「恐怖」と「混乱」で、「壊れ」かかっている訳ではない。

つまり、「無意識」というのは、決して、「分裂病的」な「反応」を起こすことはない。「分裂病的」な「反応」というのは、あくまで、それが、枠付けられた(壊れやすい)「意識」を捉えるが故の、「反応」であるということである。

ただ、そのように、「恐怖」のために、「目が覚める」というのは、「無意識」から「意識」への移行が起こったということである。「恐怖」という感情は、「無意識」に対して、「意識」との連絡をつけやすい効果を及ぼすということがいえる。まさに、「捕食者」的存在も、(初めは「無意識」を相手にせざるを得ないが)、強度の「恐怖」によって、このような、「無意識」から「意識」への移行を、強引に起こそうとするのである。壊れやすい「意識」そのものを、自らの領域へと、引きずり込もうとするためである。

実際に、「分裂病」的な状況に入るというのは、このように、「無意識」から「意識」への移行が起こる「過程」にあるということである。

そこでは、「捕食者」的な存在による、執拗で強烈な「攻撃」が起こっている。しかし、初めは、それらも、「無意識」の領域で「受け止め」られるに過ぎない。それは、「夢見」の中の「無意識」と同じで、そのような「攻撃」に対しては、その毎に、「訝っ」り、「恐れた」りの、一時的な「反応」はあるし、何らかの「影響」を受けはする。が、特にそれに「囚われる」ということはなく、全体としては、何事もなかったかのように、「受けれ流される」だけである。つまり、それらが、「無意識」で「受け止め」られている限り、「分裂病」的な反応は生じない。

しかし、それが、執拗に継続され、強度を増すと、ある時点から、何らかの形で、「意識」を捉えるようになる。それは、何よりも、「捕食者」的存在の、執拗さと強烈さが、功を奏したのである。が、その者自身も、もともと、気質的、体質的に、無意識または霊的領域のことに、比較的敏感である(または「意識」と「無意識」の溝が比較的浅い)ことにもよっている。

それは、初めは、漠然としており、何か、「尋常でない」ことが起こったという「確信」が沸き起こる、という程度のことかもしれない。しかし、それは、それまで「無意識」の領域で起こっていたに過ぎないことが、確実に、「意識」を捉えた証拠である。そして、その段階で、そのことに対する「囚われ」や、単に、一時的な反応では済まない、真の「恐怖」というのが始まる。一体何が起こったのか、それについての、「思考」の連鎖ということも起こる。その、得たいの知れない「恐怖」の感情は、ますます「意識」または「感覚」を高めさせ、過敏にし、起こったことを、より具体的に「知覚」(幻覚)させるようにもなる。

そこまで来れば、「無意識」から「意識」への「移行」が、後戻りできないものとなる。「夢見」の「無意識」も、それが「現実」に起こったら、「耐えられなく」なるだろうように、「意識」も、「無意識」では受け流せていた、これらのことを、いずれ、耐え切れなくなる。枠づけられ、条件づけられた「意識」(「自我」)というものは、「無意識」と異なり、「脆く」も、「壊れ」易いものである。実際、それは、いずれ、何らかの形で、「壊れる」ことになる。それが、はた目にも、「狂気」そのものの様相として、目に映ることとなる。

そのようにして、本格的に、「分裂病」的状況に入って行くのである。

つまり、「分裂病」的状況というのは、それ自体は、誰でも、「無意識」の領域では、起こっていることである。その意味では、何ら特殊のものではない。ただ、それが、「無意識」に止まるがゆえに、特に反応として、表に現れ出て来ないだけである。逆に言うと、「分裂病的反応」というのは、それが「意識」を捉えることによって、初めて、表に現れるものである。まさに、それこそが、「分裂病」という反応にとって、「決定的」ともいえる「相違」を引き起こすのである。

「意識」(自我)というのは、「無意識」のような、いきあたりばったりの「いい加減」さがない反面、視野狭窄で、融通が利かず、いかにも「脆い」。「自己」の根底を脅かされる事態が続けば、たやすく、「混乱」し、「狂っ」てしまう。それは、分裂病的状況に陥る者の「自我」が、特に「弱い」ということではなく、誰についても、言えることである。ただ、普通は、それらが「意識」を捉えることがないために、それが「表面化」することはないというだけである。

ここでは、「無意識」の「いい加減さ」ということを、多少「皮肉」交じりに取り上げたのだが、ただ、「意識」は、ある意味、それを「学ば」なければならないという面もあるのである。「無意識」の「囚われ」のなさというのは、ある意味、「意識」が目指す方向として、「モデル」にもなり得るということである。

つまり、「意識」は、「捕食者」的な存在の「攻撃」をも、「無意識」がするのと同じように、「受け流し」、「気にしない」でいることができる。ただし、もちろん、「意識」である以上は、「無意識」とは異なり、あくまで、それを「自覚」したうえでの話である。そのうえで、「無意識」と同じように、「囚われない」あり方も可能ということである。

そして、それは結局、その、脆くも壊れやすい、「枠付けられた」「意識」としてのあり方を、超えて行くということになる。「意識」の内容をなす、さまざまな「制限」や「条件」を超えて行くということである。つまりは、より「限定」のない「意識」となっていくということである。

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