「ルシファー的」な「中国」
これは、実際に中国(北京)に行ってみて、「分かった」のだが、私の「魂のルーツ」の一つは、中国にあるようだ。実際に行ってみるまでは、そんなことを意識したこともなかったが、今や、非常に強い実感として、意識される。
子供の頃、ラジオなどを聞いて中国語に興味を持ったり、その後、老荘や禅などの思想面で興味を持ったことはあったが、現代中国のイメージが悪過ぎて、それ以上に中国に興味をもつことはなかった。しかし、5年ほど前、ひょんなことから、実際に中国に旅行することになったのだが、飛行機に乗って北京空港に降り立った瞬間、いきなり、ちょっと傲慢に言えば、「ここは自分の庭だ」ぐらいの「確信」めいた感覚が、襲って来たのである。
その後も、初めての海外旅行ということでテンションが上がっていたこともあるが、いろいろと思いがけずも、楽しいことが多く、予想に反して、見ること聞くことが、何かと自分との「親しさ」を感じることの連続となった。ツアーという限られた行動範囲だったが、「縁」があることが、はっきりするような出会いもいくらかあった。「霊的」なレベルの感覚も、しばらくぶりに活性化していたようで、通常はなかなか知れないことも、そのレベルで、いろいろと、「知る」こともできた。(「リアルタイム」で分かるというよりも、後で「思い出し」て分かることが多かったが)それで、ほんの一回の、ただの観光旅行に過ぎないながらも、私的には、中国や中国人について、かなり「突っ込んだ」理解を得ることができたという思いがある。
ともあれ、初めに感じたのは、同じ東アジアの隣国でありながら、こんなにも日本人と違うのかという、純粋な驚きだった。実際、面白いほど、「日本人」とは、「対照的」なところが多いのである。中国人は、一人一人が、個性的で、個人主義的である。魅力のある人が多いし、また、自己表現、アピール力にも優れている。特に、女性は、どこに行っても、一人は、はっと目を見張るような人に出会う。(容姿自体が、個性的というのもある)
また、人々が、せかせかせず、「自然」で、「落ち着いた」態度をしている。店の店員などもそうで、日本のように、ていねいでもなく、客に媚びてもいないが、このような自然で落着いた態度は、むしろ、こちらも、落ち着いていられるので、私などは、有り難い。(逆に、困惑する人も多いようだが)
私は、改めて、「タオ」(道)の感覚が自然と身についているのだな、などと思った。もちろん、現代においては、そのようなものが、意識して伝わっている訳ではないにしても、なんとなく、伝統的、文化的に、身についてしまう部分があると思われるのだ。あるいは、それは、長い歴史の中で、何度も王朝の転覆を経験してきた国の、「国破れて 山河あり」といった、悠然たる感覚なのでもあろう。まあ、これは、あくまで、日本との比較のうえで感じたことである。逆に、日本という、狭いところに、多くの人がひしめき合っていて、異常に発達した文明が行き渡っている、今のような状況の中には、あるはずもないものだ。(もっとも、中国も、徐々に、そのような方向に変わって来ているのは疑いないが)
しかし、このように個人主義的な分、互いの「自己主張」は激しい。道などで、自転車や車が鉢合わせても、日本なら、さっと引き下がったり、譲り合ったりするところを、必ず、「言い合い」がある。バスが、狭い路地を通り抜ける寸前に車に鉢合わせて、当然、車が「あっ、いけね」と下がるのかと思ったら、何か言ってきて、バスの運転手もそれを予期していたようで、言い返して、やっとその車が引き下がるということもあった。これには、さすがに驚いたが、まあ、一応、結果として、「道理」からして引き下がる方が引き下がるということに落ち着くのではあろう。それにしても、「自己主張」しない限り、どんな「道理」も通りそうにないというのは、いかにも、面倒なことだ。(私は、北京に住めたらいいなあ、などとも思ったのだが、「おとなしい」私には、こればかりは、ちょっときつそうだ)
社会主義体制というのは、全体主義的、集団主義的なイメージが強いので、私は、まさにそのようなイメージを持っていたのだが、この、はっきりとした、個人主義的なあり様には、本当に驚かされた。むしろ、個々人があまりに個人主義的なので、このような強力な「抑制」原理でもないと、とても国全体としてまとまることはできないのではないか、と思わせたほどだ。かつては、強力な王朝の権力が、そのような役目を果たしたのだろうが、それに変わるものとして、「社会主義」は機能しているようなのだ。と言っても、今は、それも思いきり緩んでいるので、そのような、抑制の利かない、個人主義的な欲望や主張が、歯止めもなく現れてくることの方が、危惧される状況とも言える。
何しろ、中国人の、こういった面は、私にも、「引く」ところも多かったが、基本的に、好ましく、自分にも「近しい」と思われた。行く前の「イメージ」が悪かった分、それが覆って、余計、その思いが強くなったのもある。しかし、そのような「親近感」は、本当に「魂のレベル」からの感覚であるのが、自分でも分かる。向こうでは、しばらくぶりに、「故郷」に帰ってきたという、「郷愁」のような感覚も、感じていた。
まあ、個人的な感情はおくとして、中国のこのような特徴を、私風に一言で言えば、「ルシファー」的なのだといえる。それに対して、前に、「日本は現代でも有数の<捕食者>的な社会を築き上げた」と言ったが、日本は、「アーリマン」的なのだといえる。(「ルシファー」的と「アーリマン」的の対比は、前に主題として取り上げたことがあるので、参照して下さい。http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=503535&log=200611)このように、隣国でありながら、全く「真逆」であるのは、 驚くと同時に、面白いことでもある。特に、上にみたように、「個人主義的」と「集団主義的」の違いは、本当に、際立っている。
近くにありながら、この「違い」が、お互いに、「誤解」したり、「嫌悪」感を持ったりすることの、大きな原因であることは、明らかと思う。日本人は、中国人を、信用できなく思い、マナーや礼儀を知らないかのように思ったりするが、中国人は、むしろ、個々の日本人をよく分からず、信用できないと思う。そして、集団になったら、何をしでかすか分からない、恐ろしい人達という潜在的恐怖を抱いている。
互いの違いを、「悪く」みれば、そのとおりで、それはこの先も、そう簡単には、解消されることはないだろう。しかし、シュタイナーも、「ルシファー」的なものと「アーリマン」的なものの「均衡」こそが、とりあえず「自己」の「進化」、「成長」であるとみているが、日本と中国で、こんなに近くに、互いの逆の面を、補い合える関係があるというのは、むしろ、望ましいことだ。互いに、逆の面を、「いい面」として、捉えることができて、学ぶこと、成長につなげることができれば、日本と中国は、世界でも、「最強」、「最善」の隣国同士となることができると思うのだが、どうだろうか。
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