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2010年7月14日 (水)

「魔女狩り」と「捕食者」

前回、「時代の変わり目」には、「捕食者」が「暗躍」し、「奇怪」な「中間的現象」を生じさせ、社会に「恐怖」と「混乱」をもたらす、ということを述べた。江戸の末期にみられた、大勢の「妖怪や魑魅魍魎」による町の「闊歩」は、その一例である。

しかし、西洋には、このようなものの、もっと典型的で、壮絶な例がある。それは「魔女狩り」である。

「魔女狩り」は、西洋中世の宗教的権威に則った社会が「崩壊」し、近代社会を迎えようという、まさに大きな「時代の変わり目」に起こっている。それが起こることで、「近代社会」への移行を可能にしたという意味で、「魔女狩り」は、「近代社会」がどのような「社会」かを、裏から照らすものでもある。

「魔女狩り」では、初め、当時信じられた「悪魔」と通じている(契約している)「魔女」そのものが、告発され、火あぶりにされた。それは、当時「魔女」がすると信じられた、「奇怪」な行為を人々に「目撃」されることから、始まっているのである。「奇怪」な「行為」とは、「杖」に乗って空を飛ぶとか、夜「悪魔」の元に集まって、夜宴(サバト)を催していたとか、「悪魔崇拝」の儀式に参加して、生け贄を捧げていたなどである。これらが、「目撃」されることによって、「魔女」としての嫌疑を掛けられ、告発される訳だが、一旦告発されると、教会や異端審問所で拷問を受けるので、結局は自白を迫られる。それで、「魔女」として「一丁上がり」になる訳である。

これらの「嫌疑」を掛けられる者というのは、やはり、多くの人から、「悪魔」とつながるような何らかの「イメージ」を持たれた者ということができる。つまり、何らかの不思議な「力」を持つとみなされた者や、何か得体の知れない「信仰」や「異文化」を持っているとみなされた者などである。しかし、それにしても、「魔女」としての「奇怪」な「行為」が、「目撃」されているということが、大きなポイントである。

前回、「レプティリアン」情報には、政府要人が、「レプティリアン」に変身するところを見たとか、悪魔崇拝の儀式に参加して、生け贄を捧げているところを見たなどの、「目撃」情報があることを述べた。これなどは、「魔女狩り」の時代になされたなら、まさしく、それらの人を「魔女」として「告発」し、火あぶりにするに十分の代物である。その意味で、「レプティリアン」情報というのは、「魔女狩り」の「復活」そのもののようなところがある。

これらの「目撃談」は、社会不安による、一種の「集団ヒステリー」によって生じた「集団的幻覚」に過ぎないとみるのが普通なのであろう。しかし、その内容の具体性、共通性、規模の大きさ、確信度などから言っても、そのような取ってつけたような説明で、とても片付くものではない。そこには、前回みたとおり、「人と人の間」で「暗躍」する「捕食者」の、「おどろおどろしい」性質が存分に滲み出ている。やはり、「捕食者」の「創出」ないし「演出」した「中間的現象」が、介在したに違いないのである。

それは、時代の変わり目にあって、人々の「現実」(つまり「安定した知覚のシステム」)が大きく揺らぐという間隙に入り込み、その「不安」に乗っかってこそ、容易に可能になったことではある。その意味では、「集団ヒステリー」的なものが作用していることは確かである。しかし、「捕食者」もまた、それを「幻覚」創出の「材料」として、「利用」しているのである。

何しろ、当時、「魔女」に対する「恐れ」は、非常に「現実的」なレベルで、人々の心に、存在していたということがいえる。そして、その「魔女」の「イメージ」は、後に、止めなく拡大し、ほぼ「誰も」が、「魔女」として告発される可能性があるまでに、発展した。隣の「誰々」さんは、「魔女」で、彼女が「呪った」からこそ、自分の子供が病気になった、というようなことが、日常的に疑われるようなったのである。それは、それまでの親密な「共同体」が崩壊し、人と人の関係が、疑いに満ちた、危ういものとなったことも反映している。そこに至ると、事実上、誰もが、「魔女」として告発され、火あぶりにされない限り、事態は終息しようがないことになる。

実際、私は、これこそが、「魔女狩り」という現象の本質を、よく表していると思う。始めは、それが、特定の「誰か」に投影されていた訳だが、いずれは、「誰も」が「魔女」であり得るということにならざるを得ない。事実上、「誰」もが、内に「魔女」を抱えているということであり、それを「狩り」尽くそうとすれば、あらゆる「人間」を「狩ら」ねばならないということである。実際に、そうであるからこそ、「捕食者」もまた、その、誰にとっても「身近」で「現実的」な「恐怖」を、「利用」できるのである。

つまり、人は、そのとき、潜在的にであれ、誰もが、多かれ少なかれ、「魔女」としての「本性」(「悪魔」とのつながりであり、それはとりもなおさず、「捕食者」とのつながりということである)をもつことに、気づいたのである。

だから、「魔女狩り」を全うしようとするなら、全ての人を「魔女」として、あぶり尽くさなくてはならない。それは、結局、自分も「魔女」として狩られるということ、全員が、「共倒れ」になることを意味する。「魔女狩り」は、あるときから急速に終息に向かったのだが、それに気づいたことが、人々の「魔女狩り」への「熱狂」を冷めさせ、事態を、一気に終息させたと言うしかないのである。

以後、人々は、「魔女」というものを、「封印」することにした。それは、「ない」ことにされ、あるいは、少なくとも、それを言挙げすることは、「タブー」化した。誰も、他人を「魔女」として、告発することはしないという、いわば、暗黙の「掟」ができたのである。人々は、「理性」を信奉し、お互いを「個人」として尊重することにした。「啓蒙」的な「近代社会」の誕生である。そこでは、「魔女狩り」などは、過去の「遺物」となるはずであった。

しかし、実際には、「魔女」は、単に表面上「封印」されだけであり、「理性」や「個人」という言葉で糊塗されても、いつ、また、再浮上するか、分からない状態のまま、潜在していたことは疑いない。新たな社会が綻びをみせれば、人々は、いつまた、それを互いに「投影」し合い、「敵対」し合うか分からない。そして、「現代」こそ、まさにそういう時代である。そこには、「魔女」としての「恐怖」のほかに、もっと原始的な、生物としての人類に共通な、一種の本能的「恐怖」も、重なっている。「爬虫類人(レプティリアン)」情報というのも、そのようにして、世に出回ったのである。

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