「守護天使」から「境域の守護霊」へ
「守護天使」←←「霊界の境域」に立つ→→「境域の守護霊」
(守護) (監視)
これまでのところで、「捕食者」については、十分、「まとめあげる」ことができたと思う。
ところが、「霊界の境域」で出会われる可能性のある、もう一方の「境域の守護霊」は、本来は、「自己」そのもののような「存在」であるにも拘わらず、「捕食者」紛いの、恐ろしい面があったり、その割に「守護霊」と呼ばれたりと、なかなか「分かりづらい」ものが多いだろう。
私も、出会った当初は、「捕食者」の方へと「意識」の大半を向けざるを得なかったが、ある程度「捕食者」について、掴めて来て、少しは対処の仕方も見えてくると、本当に、「分からない」のは、この「境域の守護霊」の方であることに、気づかされた。「捕食者」的な、いかにも「あからさま」な「攻撃性」のようなものはないが、「分からない」分、どこか底知れない「恐ろしさ」を感じさせたし、実際、ある意味「捕食者」などを大きく越えた、「力」をもつことを予感させた。ただ、それでも、どこかで、常に、自分に「親しい」部分を感じ続けていたのも事実である。
この「存在」については、「境域の守護霊」という単独のあり方で理解しようとしても、なかなか全体像はつかめない。それは、確かに、抽象的には、「全体としての自己」そのものなのであろうが、自分の「変容」過程に応じて、その都度それに応じた現れ方をするという風に、現実の「自己」の移り変わりとの関係で、捉えて行くしかないと思われる。
そうすると、それはまず、大枠として、「<守護天使>から<境域の守護霊>への推移」という観点で、捉えることができるのである。
「守護天使」も「境域の守護霊」も、いずれも、「自己」の背後に感じられることの多い、どこか自分に「親しい」「存在」である。どちらも、ある「守護」的と言い得るような、働きをするのも一緒である。しかし、両者は、やはり「異質」の存在である。「霊界の境域」における、「番犬」または「門番」として、ある種「捕食者」紛いの「恐ろしさ」を醸し出し、「意識」をいわば、「けしかけ」る働きをする「境域の守護霊」と、むしろ、その者を、暖かく「包み込む」ことによって、「意識」を「鎮める」(癒す)働きをする「守護天使」とは、「みかけ」も「役割」も、大きく異なっている。
「守護」ということについても、実際に、「守護天使」は、その者自身を、「霊的」な影響力から「守護」する働きがあるといえるが、「境域の守護霊」は、その者自身を「守護」するのではなく、「境域」を「守護」しているのである。もはや、「自己」の「守護」といった「個人的」な関与を越えた、「客観的」なあり方をしているとも言える。
「守護天使」から「境域の守護霊」へという推移は、人が「霊界の境域」において、「まとも」に、「霊的な領域」へと足を踏み入れる「瀬戸際」に立つという状況を、「境」として生じることと言える。つまり「無意識」や、「偶然」の出来事としではなく、「意識」レベルにおいて、はっきりと、「霊界の境域」へ立つという状況である。
逆に言えば、「霊界の境域」に立つという状況以前には、霊的な領域の影響は、「無意識」レベルで生じるに過ぎず、「意識」そのものを捉えることは、普通はない。「意識」と「無意識」の間には、深い「溝」があるので、その「溝」を越えることは容易ではないからである。ただし、「無意識レベル」の影響といっても、それが非常に強烈で、有害なものであれば、「意識」に対して、何らかの痕跡を残すことはあり得る。「守護天使」というのは、基本的には、そのような「霊的」な影響力から「意識」を「守護」する働きをしているといえる。「意識」を「鎮める」(癒す)というのは、そういうことである。
人間は、肉体という「枠組」をもって、「この世」に生きていくのである以上、基本的に、「意識」のレベルは、「この世」的なものに、焦点を合わせていかざるを得ない。それは、「意識」を「狭める」ということでもあり、霊的な領域などは、「意識」の領域からは、締め出すということでもある。従って、普通、そのようなものは、「意識」による「制御」を受けず、「無意識」のレベルで扱われることになる。「無意識」なるものは、(枠づけられた)「意識」のように、「壊れ」易いものではないが、いかにもいい加減で、頼りないものである。それは、「夢」の中での自分の「振る舞い」をみれば、よく分かるはずである。そこでは、霊的な影響は、全くの「野放し」状態ともなってしまう。
「守護天使」は、そのように、その者の「意識」の「制御」が届かない、霊的な領域の影響力から、「意識」を「守護」しているのだといえる。それは、「意識」が、とりあえず、「この世」的な領域へと専念するためには、必要なことである。また、その段階では、「意識」は、とても霊的な領域に対処し得る程、「成長」していないので、そのような「保護」も、必要となるのである。
ところが、人が、「意識」レベルにおいて、「霊界の境域」へ立つという状況に至ると、事情が違ってくる。その者は、もはや、「意識」そのものにおいて、「霊的」な領域の境界に立っているのだから、その先に進むためには、もはや、自らの「意識」において、対処しなければならなくなる。「意識」は、もはや、「守護」される(それはある意味、「眠った」まま「隔離」されていることである)のではなく、はっきりと「目覚め」て、自ら判断して、先に進まなければならない。
シュタイナーは、人が「霊界の境域」を越えようとするとき、「思考」「感情」「意志」の自然な「統合」が解けて、それぞれが独立すると言う。これは、まさに、「分裂病」にいう「分裂」そのものである。実際、それらがバランス良く発達していないと、「病的」な言動が現れるという。しかし、それらが、「独立」するのは、より高いレベルで、それぞれが機能できる(使える)ようになるためである。それらは、かつての自然な「統合」に代わって、その者自身により、「意識」的な「統合」が果たされなくてはならないのである。
シュタイナーは、その頃に、「境域の守護霊」と出会われる可能性も高まるという。つまり、「境域の守護霊」との「出会い」は、それまでの、自然な「保護」を脱して、自ら「自立」が必要となることの、「象徴」的な意味合いともなるのである。
実際、「境域の守護霊」は、それまでの「守護天使」に代わって、「霊界の境域」へと踏み出した者に、立ち現れるものといえる。言い換えれば、霊的な領域についての「守護」という点では、「守護天使」は、もはや、その者から身を引くのである。そのような領域についても、以後は、その者自身の「意識」に任せるためである。
だが、しかし、その者は、霊的な領域については、いかんせん、目覚め立ての「赤ちゃん」に等しく、何も知らない、新参者である。(私は、当時、「精霊」から、何度も「赤ちゃん」と言われたし、実際自分でも、そのような気がしていた。)
そこで、「守護天使」に代わって、もはや「守護」ではないが、新たな立場から、「監視役」となるのが、「境域の守護霊」なのだといえる。それは、もはや、守護天使のように、「他なる」存在ではなくて、本来は、「自己」そのものというべき「存在」である。そのことも、もはや、「他」なる存在からは、「自立」する状況にあることを示している。但し、それは、「自己」といっても、前世や、未だ現れ出ていない部分も含めた、いわば、「全体」としての「自己」である。だから、その段階での「意識」的な「自己」からすれば、「他者」そのもののような「存在」ともなる。
「意識」的な「自己」なるものは、その生での肉体と結びついて、育って来たもので、「霊界の境域」へと立った状況では、まだとても、頼りにならない、「無知」で「未熟」なものである。そこで、「境域の守護霊」は、「全体」としての「自己」から、恐らく、「霊的な領域」についてよく知っている(または、これから知ることになる)部分が切り離されて、「独立」したものと思われる。
「霊界の境域」において、先へと進めるか否かは、このような、「自己」でありながら、「他者」であるような存在によって、「監視」される。それに「ふさわしく」ない者は、そこで追い返される。しかし、「境域の守護霊」の役目は、あくまで「霊界の境域」の「監視」(それに付随する限りでの、その者の「監視」)なのであって、それ以上に、その者へ、強制的な力を行使するわけではない。それ自身は、特にその者に向けて、強い「積極的」な働きかけをする訳ではないという点が、「捕食者」とは大きく異なる点である。また、そのことは、結局、そのような存在がいるにしても、その者がどのような結果になるかは、もはや、その者次第であることを意味している。
« 「魔女狩り」と「捕食者」 | トップページ | 「夢見」の中の「無意識」 »
「精神世界」カテゴリの記事
- アフリカ ズールー族のシャーマンが語る、地球とレプティリアンの歴史(2024.06.16)
- 「死の体験」は、この世界の特権!?(2022.11.09)
- 「深淵に飛び込む」ことと「深淵としての霊界の境域」(2022.10.14)
- 「集合点の移動」と「波動領域を変える」(2022.09.28)
- 「集合点の移動」と「知覚世界」、「幻覚」(2022.09.12)
コメント