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2010年7月

2010年7月24日 (土)

「守護天使」から「境域の守護霊」へ

「守護天使」←←「霊界の境域」に立つ→→「境域の守護霊」
  (守護)                                              (監視)


これまでのところで、「捕食者」については、十分、「まとめあげる」ことができたと思う。

ところが、「霊界の境域」で出会われる可能性のある、もう一方の「境域の守護霊」は、本来は、「自己」そのもののような「存在」であるにも拘わらず、「捕食者」紛いの、恐ろしい面があったり、その割に「守護霊」と呼ばれたりと、なかなか「分かりづらい」ものが多いだろう。

私も、出会った当初は、「捕食者」の方へと「意識」の大半を向けざるを得なかったが、ある程度「捕食者」について、掴めて来て、少しは対処の仕方も見えてくると、本当に、「分からない」のは、この「境域の守護霊」の方であることに、気づかされた。「捕食者」的な、いかにも「あからさま」な「攻撃性」のようなものはないが、「分からない」分、どこか底知れない「恐ろしさ」を感じさせたし、実際、ある意味「捕食者」などを大きく越えた、「力」をもつことを予感させた。ただ、それでも、どこかで、常に、自分に「親しい」部分を感じ続けていたのも事実である。

この「存在」については、「境域の守護霊」という単独のあり方で理解しようとしても、なかなか全体像はつかめない。それは、確かに、抽象的には、「全体としての自己」そのものなのであろうが、自分の「変容」過程に応じて、その都度それに応じた現れ方をするという風に、現実の「自己」の移り変わりとの関係で、捉えて行くしかないと思われる。

そうすると、それはまず、大枠として、「<守護天使>から<境域の守護霊>への推移」という観点で、捉えることができるのである。


「守護天使」も「境域の守護霊」も、いずれも、「自己」の背後に感じられることの多い、どこか自分に「親しい」「存在」である。どちらも、ある「守護」的と言い得るような、働きをするのも一緒である。しかし、両者は、やはり「異質」の存在である。「霊界の境域」における、「番犬」または「門番」として、ある種「捕食者」紛いの「恐ろしさ」を醸し出し、「意識」をいわば、「けしかけ」る働きをする「境域の守護霊」と、むしろ、その者を、暖かく「包み込む」ことによって、「意識」を「鎮める」(癒す)働きをする「守護天使」とは、「みかけ」も「役割」も、大きく異なっている。

「守護」ということについても、実際に、「守護天使」は、その者自身を、「霊的」な影響力から「守護」する働きがあるといえるが、「境域の守護霊」は、その者自身を「守護」するのではなく、「境域」を「守護」しているのである。もはや、「自己」の「守護」といった「個人的」な関与を越えた、「客観的」なあり方をしているとも言える。

「守護天使」から「境域の守護霊」へという推移は、人が「霊界の境域」において、「まとも」に、「霊的な領域」へと足を踏み入れる「瀬戸際」に立つという状況を、「境」として生じることと言える。つまり「無意識」や、「偶然」の出来事としではなく、「意識」レベルにおいて、はっきりと、「霊界の境域」へ立つという状況である。

逆に言えば、「霊界の境域」に立つという状況以前には、霊的な領域の影響は、「無意識」レベルで生じるに過ぎず、「意識」そのものを捉えることは、普通はない。「意識」と「無意識」の間には、深い「溝」があるので、その「溝」を越えることは容易ではないからである。ただし、「無意識レベル」の影響といっても、それが非常に強烈で、有害なものであれば、「意識」に対して、何らかの痕跡を残すことはあり得る。「守護天使」というのは、基本的には、そのような「霊的」な影響力から「意識」を「守護」する働きをしているといえる。「意識」を「鎮める」(癒す)というのは、そういうことである。

人間は、肉体という「枠組」をもって、「この世」に生きていくのである以上、基本的に、「意識」のレベルは、「この世」的なものに、焦点を合わせていかざるを得ない。それは、「意識」を「狭める」ということでもあり、霊的な領域などは、「意識」の領域からは、締め出すということでもある。従って、普通、そのようなものは、「意識」による「制御」を受けず、「無意識」のレベルで扱われることになる。「無意識」なるものは、(枠づけられた)「意識」のように、「壊れ」易いものではないが、いかにもいい加減で、頼りないものである。それは、「夢」の中での自分の「振る舞い」をみれば、よく分かるはずである。そこでは、霊的な影響は、全くの「野放し」状態ともなってしまう。

「守護天使」は、そのように、その者の「意識」の「制御」が届かない、霊的な領域の影響力から、「意識」を「守護」しているのだといえる。それは、「意識」が、とりあえず、「この世」的な領域へと専念するためには、必要なことである。また、その段階では、「意識」は、とても霊的な領域に対処し得る程、「成長」していないので、そのような「保護」も、必要となるのである。

ところが、人が、「意識」レベルにおいて、「霊界の境域」へ立つという状況に至ると、事情が違ってくる。その者は、もはや、「意識」そのものにおいて、「霊的」な領域の境界に立っているのだから、その先に進むためには、もはや、自らの「意識」において、対処しなければならなくなる。「意識」は、もはや、「守護」される(それはある意味、「眠った」まま「隔離」されていることである)のではなく、はっきりと「目覚め」て、自ら判断して、先に進まなければならない。

シュタイナーは、人が「霊界の境域」を越えようとするとき、「思考」「感情」「意志」の自然な「統合」が解けて、それぞれが独立すると言う。これは、まさに、「分裂病」にいう「分裂」そのものである。実際、それらがバランス良く発達していないと、「病的」な言動が現れるという。しかし、それらが、「独立」するのは、より高いレベルで、それぞれが機能できる(使える)ようになるためである。それらは、かつての自然な「統合」に代わって、その者自身により、「意識」的な「統合」が果たされなくてはならないのである。

シュタイナーは、その頃に、「境域の守護霊」と出会われる可能性も高まるという。つまり、「境域の守護霊」との「出会い」は、それまでの、自然な「保護」を脱して、自ら「自立」が必要となることの、「象徴」的な意味合いともなるのである。

実際、「境域の守護霊」は、それまでの「守護天使」に代わって、「霊界の境域」へと踏み出した者に、立ち現れるものといえる。言い換えれば、霊的な領域についての「守護」という点では、「守護天使」は、もはや、その者から身を引くのである。そのような領域についても、以後は、その者自身の「意識」に任せるためである。

だが、しかし、その者は、霊的な領域については、いかんせん、目覚め立ての「赤ちゃん」に等しく、何も知らない、新参者である。(私は、当時、「精霊」から、何度も「赤ちゃん」と言われたし、実際自分でも、そのような気がしていた。)

そこで、「守護天使」に代わって、もはや「守護」ではないが、新たな立場から、「監視役」となるのが、「境域の守護霊」なのだといえる。それは、もはや、守護天使のように、「他なる」存在ではなくて、本来は、「自己」そのものというべき「存在」である。そのことも、もはや、「他」なる存在からは、「自立」する状況にあることを示している。但し、それは、「自己」といっても、前世や、未だ現れ出ていない部分も含めた、いわば、「全体」としての「自己」である。だから、その段階での「意識」的な「自己」からすれば、「他者」そのもののような「存在」ともなる。

「意識」的な「自己」なるものは、その生での肉体と結びついて、育って来たもので、「霊界の境域」へと立った状況では、まだとても、頼りにならない、「無知」で「未熟」なものである。そこで、「境域の守護霊」は、「全体」としての「自己」から、恐らく、「霊的な領域」についてよく知っている(または、これから知ることになる)部分が切り離されて、「独立」したものと思われる。

「霊界の境域」において、先へと進めるか否かは、このような、「自己」でありながら、「他者」であるような存在によって、「監視」される。それに「ふさわしく」ない者は、そこで追い返される。しかし、「境域の守護霊」の役目は、あくまで「霊界の境域」の「監視」(それに付随する限りでの、その者の「監視」)なのであって、それ以上に、その者へ、強制的な力を行使するわけではない。それ自身は、特にその者に向けて、強い「積極的」な働きかけをする訳ではないという点が、「捕食者」とは大きく異なる点である。また、そのことは、結局、そのような存在がいるにしても、その者がどのような結果になるかは、もはや、その者次第であることを意味している。

2010年7月14日 (水)

「魔女狩り」と「捕食者」

前回、「時代の変わり目」には、「捕食者」が「暗躍」し、「奇怪」な「中間的現象」を生じさせ、社会に「恐怖」と「混乱」をもたらす、ということを述べた。江戸の末期にみられた、大勢の「妖怪や魑魅魍魎」による町の「闊歩」は、その一例である。

しかし、西洋には、このようなものの、もっと典型的で、壮絶な例がある。それは「魔女狩り」である。

「魔女狩り」は、西洋中世の宗教的権威に則った社会が「崩壊」し、近代社会を迎えようという、まさに大きな「時代の変わり目」に起こっている。それが起こることで、「近代社会」への移行を可能にしたという意味で、「魔女狩り」は、「近代社会」がどのような「社会」かを、裏から照らすものでもある。

「魔女狩り」では、初め、当時信じられた「悪魔」と通じている(契約している)「魔女」そのものが、告発され、火あぶりにされた。それは、当時「魔女」がすると信じられた、「奇怪」な行為を人々に「目撃」されることから、始まっているのである。「奇怪」な「行為」とは、「杖」に乗って空を飛ぶとか、夜「悪魔」の元に集まって、夜宴(サバト)を催していたとか、「悪魔崇拝」の儀式に参加して、生け贄を捧げていたなどである。これらが、「目撃」されることによって、「魔女」としての嫌疑を掛けられ、告発される訳だが、一旦告発されると、教会や異端審問所で拷問を受けるので、結局は自白を迫られる。それで、「魔女」として「一丁上がり」になる訳である。

これらの「嫌疑」を掛けられる者というのは、やはり、多くの人から、「悪魔」とつながるような何らかの「イメージ」を持たれた者ということができる。つまり、何らかの不思議な「力」を持つとみなされた者や、何か得体の知れない「信仰」や「異文化」を持っているとみなされた者などである。しかし、それにしても、「魔女」としての「奇怪」な「行為」が、「目撃」されているということが、大きなポイントである。

前回、「レプティリアン」情報には、政府要人が、「レプティリアン」に変身するところを見たとか、悪魔崇拝の儀式に参加して、生け贄を捧げているところを見たなどの、「目撃」情報があることを述べた。これなどは、「魔女狩り」の時代になされたなら、まさしく、それらの人を「魔女」として「告発」し、火あぶりにするに十分の代物である。その意味で、「レプティリアン」情報というのは、「魔女狩り」の「復活」そのもののようなところがある。

これらの「目撃談」は、社会不安による、一種の「集団ヒステリー」によって生じた「集団的幻覚」に過ぎないとみるのが普通なのであろう。しかし、その内容の具体性、共通性、規模の大きさ、確信度などから言っても、そのような取ってつけたような説明で、とても片付くものではない。そこには、前回みたとおり、「人と人の間」で「暗躍」する「捕食者」の、「おどろおどろしい」性質が存分に滲み出ている。やはり、「捕食者」の「創出」ないし「演出」した「中間的現象」が、介在したに違いないのである。

それは、時代の変わり目にあって、人々の「現実」(つまり「安定した知覚のシステム」)が大きく揺らぐという間隙に入り込み、その「不安」に乗っかってこそ、容易に可能になったことではある。その意味では、「集団ヒステリー」的なものが作用していることは確かである。しかし、「捕食者」もまた、それを「幻覚」創出の「材料」として、「利用」しているのである。

何しろ、当時、「魔女」に対する「恐れ」は、非常に「現実的」なレベルで、人々の心に、存在していたということがいえる。そして、その「魔女」の「イメージ」は、後に、止めなく拡大し、ほぼ「誰も」が、「魔女」として告発される可能性があるまでに、発展した。隣の「誰々」さんは、「魔女」で、彼女が「呪った」からこそ、自分の子供が病気になった、というようなことが、日常的に疑われるようなったのである。それは、それまでの親密な「共同体」が崩壊し、人と人の関係が、疑いに満ちた、危ういものとなったことも反映している。そこに至ると、事実上、誰もが、「魔女」として告発され、火あぶりにされない限り、事態は終息しようがないことになる。

実際、私は、これこそが、「魔女狩り」という現象の本質を、よく表していると思う。始めは、それが、特定の「誰か」に投影されていた訳だが、いずれは、「誰も」が「魔女」であり得るということにならざるを得ない。事実上、「誰」もが、内に「魔女」を抱えているということであり、それを「狩り」尽くそうとすれば、あらゆる「人間」を「狩ら」ねばならないということである。実際に、そうであるからこそ、「捕食者」もまた、その、誰にとっても「身近」で「現実的」な「恐怖」を、「利用」できるのである。

つまり、人は、そのとき、潜在的にであれ、誰もが、多かれ少なかれ、「魔女」としての「本性」(「悪魔」とのつながりであり、それはとりもなおさず、「捕食者」とのつながりということである)をもつことに、気づいたのである。

だから、「魔女狩り」を全うしようとするなら、全ての人を「魔女」として、あぶり尽くさなくてはならない。それは、結局、自分も「魔女」として狩られるということ、全員が、「共倒れ」になることを意味する。「魔女狩り」は、あるときから急速に終息に向かったのだが、それに気づいたことが、人々の「魔女狩り」への「熱狂」を冷めさせ、事態を、一気に終息させたと言うしかないのである。

以後、人々は、「魔女」というものを、「封印」することにした。それは、「ない」ことにされ、あるいは、少なくとも、それを言挙げすることは、「タブー」化した。誰も、他人を「魔女」として、告発することはしないという、いわば、暗黙の「掟」ができたのである。人々は、「理性」を信奉し、お互いを「個人」として尊重することにした。「啓蒙」的な「近代社会」の誕生である。そこでは、「魔女狩り」などは、過去の「遺物」となるはずであった。

しかし、実際には、「魔女」は、単に表面上「封印」されだけであり、「理性」や「個人」という言葉で糊塗されても、いつ、また、再浮上するか、分からない状態のまま、潜在していたことは疑いない。新たな社会が綻びをみせれば、人々は、いつまた、それを互いに「投影」し合い、「敵対」し合うか分からない。そして、「現代」こそ、まさにそういう時代である。そこには、「魔女」としての「恐怖」のほかに、もっと原始的な、生物としての人類に共通な、一種の本能的「恐怖」も、重なっている。「爬虫類人(レプティリアン)」情報というのも、そのようにして、世に出回ったのである。

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