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2010年6月 2日 (水)

日本人は皆「捕食者」を知っている!?

「捕食者」などというと、多くの者にとっては、馴染みが薄く、自分とは関係のない、どこか遠くの話のように感じられるかもしれない。しかし、あえてセンセーショナルな言い方をすれば、実際に、「日本人は皆<捕食者>を知っている」とも言えるのである。

現在の日本人にとって、「世間」というものが、いわば唯一の「宗教的権威」のように機能していることは既に何度か述べた。日本人は、表向き「宗教的」「霊的」なものを否定するが、実質、この「世間」には、「宗教的」「霊的」なものが、少なくとも「投影」されている。そこには、明らかに、一種の「見えない」何ものかに対する、「畏怖」の感覚が働いている。

そして、現在において、実質、その「世間」の「権威」の背後に存しているのは、「捕食者」そのものである。もちろん、「世間」を構成する個々の人間が、それを意識している訳ではないが、無意識レベルにおいては、まさに、そのようなものとして、「受け入れ」ているからこそ、そうなるのである。

だから、正確に言えば、日本人は、「捕食者」として、それを知っているのではないにしても、「世間」の背後に存する、「みえない」「権威」のような「あるもの」を、敏感に感じ取って、「受け入れ」ているということである。実際には、「受け入れ」ているのみならず、進んで「従い」、それを「利用」しようとする者も多い。その「あるもの」という形で曖昧に受け入れているものこそ、実際には、「捕食者」そのものということである。

私にとっては、このこと、つまり、多くの者が、無意識レベルにおいて、「捕食者」をいかに「受け入れ」、また、それに「従って」いるかということは、一連の体験時にも、如実に「見た」ことなので、全く疑いはない。が、以下、もう少し掘り下げて、みてみることにしよう。

そもそも、日本人は、伝統的に言っても、「鬼」や「龍」、ときには「神」そのものとして、「捕食者」については、身近で重要な「存在」として感じ取り、よく「知っ」ていたのである。それは、もちろん「恐れ」られ、「悪魔」じみた「敵」のように扱われることもあったが、多くの場合、「八百万」といわれる「神々」の一つとして、ほとんど平等に「敬わ」れた。むしろ、進んで、その「御利益」に預かろうとされることも、多かったのである。

だいたい、前にみた「スネカ」や、「なまはげ」のように、「捕食者」の性質を見事に表現しつつ、それを取り入れている行事を持つ文化など、他に探すのは難しいだろう。それほど、よく「捕食者」の「性質」を「知り」つつ、それを多くの「神々」と同様に「敬まっ」たり、むしろ逆に、自分らの「利益」に「利用」すらしていたのである。

それは、(ダチョウ倶楽部の「とりあえず拝んでおけ!」ではないが)多分に「ご都合主義」的なところはありつつ、多くの神々との関係で、バランス感覚ある「配慮」をしていたということでもあり、何よりも、したたかな「生活の知恵」でもあっただろう。それだけ、「捕食者」が「身近」なところにあって、「生活」にも密着していたということである。

しかし、西洋文明を取り入れることに躍起になった明治の頃からは、それら多くの「神々」は、「迷信」として捨て去られる傾向にあり、「捕食者」といえども、(表面上)その運命を免れなかった。それまでの地域的な共同体も大きく崩れ、日本全体としての「世間」も、その頃にできあがる。だから、「世間」とは、表面上は、非常に「この世」的なものとなり、単なる「人の集まり」しか意味しなくなった。

しかし、実質的には、依然として、「世間」が一つの「みえない」「権威」として機能するのは、それら、表面上は捨てられた、「この世」にあらざるものが、「世間」という「この世」的なものの「間隙」から、なおも、我々を縛るからである。むしろ、表面上は「捨てた」ということが、(後ろ髪を引くような形で)無意識レベルにおいては、よりそれへの「囚われ」を強めてすらいる。

このことは、「世間」とは、本来、「世と世の間」なのだと考えれば分かりやすい。それは、「この世」と「あの世」(死者の世界)ないし「他界」(神々や精霊の世界)との「間」ということであり、かつては、「明白」に意識されたものである。そのような「間」は、今も完全に払拭されたのではなく、「この世」の「人と人の間」に、いわば刻印のようにして、刻みつけられている。それこそが、「世間」ということであり、表面上は捨てられたかに見える、「神々」ないし「捕食者」の「権威」が、その実質的な「元」となっているのである。

ただ、その中でも、ますます「捨て去」られる傾向のはっきりする「神々」に対して、伝統的に身近なところにあり、「抗い難」く、本質的に「恐れ」をもたらす「捕食者」は、表面上はともかく、実質的には、相変わらず「力」を発揮する関係であり続けたということができる。むしろ、「捕食者」の側からすれば、意識レベルでは顧みられなくなることによって、より潜在化された形で、実質的には、「影響力」を強めることに成功したのである。

さらにその傾向がはっきりするのは、戦後である。「物質文明」をさらに発展させ、アメリカをも超える「産業社会」を築き上げた訳だが、そこにおいて、もはや「世間」の「権威」は、ほぼ「捕食者」一本に絞られることとなる。

それは、その「物質主義」的なあり方が、「捕食者」の意向と合致したからだが、そもそも、「産業社会」とは、「捕食者」のあり方をモデルにしたかのような、「捕食者的文明」そのものである。(この点については、いずれまた述べたい。)それは、「世間」全体としての「意向」そのものが、もはや「捕食者」の「意図」や「戦略」と、ほとんどかぶさるような方向に進んできたということである。さらに、日本の「集団主義」的なあり方も、「捕食者」の意向と、よく合致するのである。

かつては、「捕食者」との関係は、様々な関係の中での「バランス」や「知恵」でもあり得た。ところが、「神々」との関係が切れた現代においては、もはやそれは、「バランス」や「知恵」などであるはずもない。それは、ほとんど、我々は、「捕食者」の「奴隷」と化したということを意味している。現在の日本は、世界でも有数の、「捕食者」的な「社会」を築き上げたのである。

したがって、このような状況において、日本人が、「捕食者」を「知らない」などということは、あるはずもないのである。

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