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2010年6月

2010年6月21日 (月)

結局は「おいしい」か「まずい」か

「捕食者」の「捕食」ということについて、いろいろ言ってきた。人間の感情的エネルギーが、彼らの「エネルギー源」だから、それを「食う」というのは、確かにそのとおりである。彼らも、「エネルギー」源(新陳代謝)なしでは、やっていけない。

しかし、結局、突き詰めれば、「おいしい」か「まずい」かということになる。要は、「おいしい」からそれを「食う」のであり、その他のことは、付随的なものである。彼らなりに、「グルメ」を極めていたら、人間の、それも「恐怖」や「苦悩」のエネルギーほど「おいしい」ものはないことに気づいたから、それを「食う」ための巧妙な「システム」を築き上げたということなのである。

我々だって、「食」には、完全に「嗜好」が付きまとっている。確かに、生きるために「食う」ということも、「一時的」な真実としてはあるだろう。しかし、本当のところは、逆に、「食う」ために「生きる」といった方が、よほど真実に近いはずだ。

どんな「食う」ことにも、このような「嗜好性」ないし「快楽」が、付きまとっている。「捕食者」のそれは、それを極めたものということができる。「食」に対して「選択」のきく、人間以上の存在にとって、「食」とは、そのようなものにならざるを得ないのである。

「人の不幸は蜜の味」と言われる。彼らにとって、それは、文字通りの意味で、「味」なのである。(人にとっても、それが「蜜の味」なのは、我々が、やはり「捕食者」と通じる「心」を持っているからである。)

「天国」と「地獄」を比べると、「天国」はどこの宗教でも似たような「平坦」な「内容」だが、「地獄」は、実に多様な、想像し得る限るの、「バリエーション」に富んでいることを述べた。「恐怖」こそが、このような、「想像力」の多様な展開をもたらすのである。それは、彼らにとっては、「恐怖」ほど、変化と多様性に富んだ、深みのある「味」を、もたらすものはないということである。
 
それは、「幸福」と「不幸」についても言い得ることだろう。たとえば、多くの人に、「私の幸福」と「私の不幸」という題で、作文を書かせたら、「私の幸福」は、決してそれほど内容に差がない、どれも似たようなものとなるだろう。が、「私の不幸」には、実に思いがけない、様々な「不幸」が、顔をのぞかすことだろう。「不幸」には、それだけ「多様」さと「深み」があるということであり、それは、彼らからすれば、「味」としても、飽きの来ない、重層的なものを生み出すということである。

彼らは、一般的に、人の「感情」エネルギーを「食し」もするのだろうが、このように、特に「恐怖」や「苦悩」を、「選択」的に「食」す方向へと、自らを「進化」させて来たといえる。そこで、当然、人に、そのような感情を、起こさせることには、長けているのである。

しかし、我々も、ブロイラー育ちの鳥よりも、歯ごたえのある、地鶏を好むように、彼らにも、その対象には、えり好みがある。「社会」や「集団」の中に埋没して、疲弊し、疲れ切っている者よりも、社会や集団からは、あぶれるが、生きのいい、エネルギーの余っている者の方が、「おいしい」に決まっている。ラカンは、「分裂気質」の者は、「社会」的に「虚勢」されていないと言うが、それは、彼らからすれば、まさに「食指」をそそるということである。また、シュタイナーは、「ルシファー」的な欲望や情熱があふれ出るところには、「アーリマン」存在がハエのように集ると言うが、それも、同じような状況を意味している。

但し、それは、必ずしも、見た目が「生き生き」していることではなくて、内的に、「エネルギー」が「貯蔵」されているということである。振幅の大きく、激しい、「恐怖」や「苦悩」が回収できることが重要なのである。「分裂気質」の者は、典型的に、そのような対象にあたるということができる。

ところが、このように、「嗜好」を極めた、彼らの「飽食」システムは、そういつまでも、うまく機能するはずはないのである。その「嗜好」は、もはや、他のものでは満足できないだけの渇望を、常にもたらしている。ところが、ますます疲弊する多くの人間から、今以上の「恐怖」や「苦悩」を安定的に回収することが、今後も可能とは思われない。分裂気質の者すら、もはや、かつてのような、大きな「恐怖」や「苦悩」をもたらす見込みは薄くなっている。(それは、分裂病の軽症化という形でも現れている。)

「産業社会」は、彼らなりに、このようなものを、「大量生産」し、安定的に供給できる、「優れた」システムだったのだろうが、もはや「頭打ち」によって、行き詰まっていることは明らかである。彼らとしても、「窮地」に立たされていると思われるのである。(このことは、実際、私自身、肌で感じ取ったことでもある。)

今後、人間の社会に、どのような展開が起こるかというのは、このような「捕食者」との絡みでも、注目されることである。

2010年6月 8日 (火)

「捕食者」という理由

注) 「捕食者」という馴染みのない言葉を使う理由を明らかにする重要な記事です。

前回も触れたが、「捕食者」なる言葉は、一般的ではないし、馴染みが薄い。が、それを使う意義が大きいから、あえてこの言葉を使っているのである。

この「捕食者」なる「存在」は、これまで、伝統的には、「悪魔」とか「魔」、あるいは「鬼」や「龍」などと呼ばれて来たものと、大体において重なるとみてよい。シュタイナーの「ルシファー存在」と「アーリマン存在」の二系統の「悪魔」論でいえば、「アーリマン存在」とも大きく重なる。あるいは、最近では、「レプティリアン」など「ネガティブ系宇宙人」と言われものとも、一部重なる。

だから、これは、決して、これまでに取り上げられなかった、特殊なものなのではない。

確かに、これを具体的にイメージしようとする場合には、これら、伝統的な捉え方や、最近の具体的な「事件」を踏まえた、馴染みのある呼び方には、一定の意味がある。しかし、これらの「呼び方」は、実質的には、何も明らかにするものではなく、むしろ、混乱させる要素の方が大きいと言うべきである。

モーパッサン風に言えば、かつて、そのような「呼ばれ」方をし、さまざまなイメージは残しているが、実質的には、その「実態を暴かれず」にきたものなのである。

そこで、既に何度か述べたことだが、以下、「捕食者」という理由を、簡単にまとめてみる。

1 「人間」から発散される「感情」的エネルギーを「捕食」するという、「本質的」なあり方を、明らかにする。


「悪魔」にしろ、「鬼」にしろ、「宇宙人」にしろ、「イメージ」は「豊富」だが、その「本質」、たとえば、それらが、実質的には、何を求めて人間に関わろうとするのか、一向にはっきりしない。むしろ、「イメージ」が豊富な分、それが一人歩きして、さまざまな「想像」のみを膨らませる。また、後に見るように、これを「悪」という抽象的な観念でみることも、ほとんど「人間」の側の「投影」でしかなく、実質的な意味は乏しい。

しかし、「捕食者」という言い方は、彼らが、人間を「捕食」するものであるという「本質」を、端的に明らかにする。それは、「物質」的なものでなく、「感情」的(エーテル的)エネルギーだが、「(捕)食」の対象であることに変わりなく、むしろより「根源的」な意味で、「捕食」(エネルギーの供給源)の関係にあるといえるものである。

「分裂病的状況」のような、具体的な関わりの場面でも、(特に「恐怖」という感情を)「捕食する」という彼らの「本質」を踏まえることこそが、その影響を脱するという視点からしても、大きな意味を有するのである。

2 「飼育者」、「管理者」という副次的あり方をも明らかにする。

「捕食者」は、人間という集団全体に対しては、「飼育者」、「管理者」の関係にも立つ。「捕食」という「目的」の下に、人間を集団的に、「飼育」し(方向づけを与え)、「管理」するということである。「捕食者」という言葉から、こういったことが当然に内包される訳ではないにしても、人間という集団全体に対して、「捕食者」の立場から戦略的に関わろうとする場合、このような関係に立つことは、当然予測されるはずである。

但し、その「目的」ないし「本質」は、あくまで「捕食」ということであり、「飼育」「管理」は、副次的なものである。人間の動物に対する関係に照らして言えば、ちょうど「牧畜」のような関係に当たる。

ただし、その集団的支配から「はみ出す」個々の人間に対しては、彼らは、まさに文字通り、「捕食者」と呼ぶのがふさわしい、攻撃的な「捕食」のあり方を示す。「分裂病者」に対するものも、その一つの例である。上の「牧畜」に対して言えば、「狩猟」のようなものである。

「捕食者」という呼び方は、元々は、このような、ある集団から「はみ出す」個々の人物(たとえば、トルテックのシャーマンなど)に対する、彼らの執拗で攻撃的な特性から、「実感」としてつけられたものと思われる。

3 「善悪」の「観念」から自由な見方で、捉えられる。

日本の「鬼」には、一応両義的な面があって、一概に「悪」の性質を帯びてはいない。しかし、一神教圏の「悪魔」や「魔」は、ほとんど人間の側の「都合」の反映である、「悪」という「観念」に染められている。そのような呼び方は、むしろ、「抽象」的な「観念」への「囚われ」を生むだけで、実質的には、何も明らかにせず、彼らの本質を見逃すことになる。「悪」という観念そのものが、「想像」と「思考」の連鎖を推し進め、無用な「恐怖」の拡大をもたらしている面は大きいのである。

後にみるように、そもそも「捕食」という行為そのものは、「善悪」の問題とはいえないはずである。我々もまた、他の動物等に対しては、「捕食者」の位置に立っているのである。

現代においては、彼らを差し示すには、できる限り「善悪」の観念から自由な言葉の方が相応しい。もちろん、その「本質」を端的に示す、「捕食者」という言葉は、十分それにかなっている。

4 「食物連鎖」についての、人間の「思い上がり」ないし「盲点」をつく、「インパクト」ある言葉である。

C.カスタネダもR.モンローも、「捕食者」ないし、人間の上に位置する捕食の「システム」について、初めて聞いたとき、強い衝撃を受け、拒絶の反応を示した。特に西洋においては、一切の「生命」について、我々人間こそが、「食物連鎖」ないし「管理」の頂点に立つという、根強い「思い込み」がある。彼らの反応も、このような「思い上がり」ないし「盲点」からする、反動という面が強い。

しかし、まともに考えれば、「ありとあらゆる」「生命」について、人間が、その「食物連鎖」の頂点に立つなどということの方が、あり得べきはずもないことである。むしろ、他の何らかの「生命」が、人間に対して、「捕食者」の位置に立つということは、本来、あって然るべきことである。ただ、人間以上の「捕食」の関係は、多少とも「巧妙」化され、はっきりとは「見えない」形でなされているから、容易に「目にはつかない」というに過ぎない。

「捕食者」という言葉は、そのような「人間」の「思い上がり」ないし「盲点」をつく、「インパクト」ある言葉として意味がある。また、人間に、そのような「捕食される」側としての意識が芽生えることは、人間の動物に対する関係も含めて、改めて、「食物連鎖」の全体を、顧みさせるという効果もあるはずである。

2010年6月 2日 (水)

日本人は皆「捕食者」を知っている!?

「捕食者」などというと、多くの者にとっては、馴染みが薄く、自分とは関係のない、どこか遠くの話のように感じられるかもしれない。しかし、あえてセンセーショナルな言い方をすれば、実際に、「日本人は皆<捕食者>を知っている」とも言えるのである。

現在の日本人にとって、「世間」というものが、いわば唯一の「宗教的権威」のように機能していることは既に何度か述べた。日本人は、表向き「宗教的」「霊的」なものを否定するが、実質、この「世間」には、「宗教的」「霊的」なものが、少なくとも「投影」されている。そこには、明らかに、一種の「見えない」何ものかに対する、「畏怖」の感覚が働いている。

そして、現在において、実質、その「世間」の「権威」の背後に存しているのは、「捕食者」そのものである。もちろん、「世間」を構成する個々の人間が、それを意識している訳ではないが、無意識レベルにおいては、まさに、そのようなものとして、「受け入れ」ているからこそ、そうなるのである。

だから、正確に言えば、日本人は、「捕食者」として、それを知っているのではないにしても、「世間」の背後に存する、「みえない」「権威」のような「あるもの」を、敏感に感じ取って、「受け入れ」ているということである。実際には、「受け入れ」ているのみならず、進んで「従い」、それを「利用」しようとする者も多い。その「あるもの」という形で曖昧に受け入れているものこそ、実際には、「捕食者」そのものということである。

私にとっては、このこと、つまり、多くの者が、無意識レベルにおいて、「捕食者」をいかに「受け入れ」、また、それに「従って」いるかということは、一連の体験時にも、如実に「見た」ことなので、全く疑いはない。が、以下、もう少し掘り下げて、みてみることにしよう。

そもそも、日本人は、伝統的に言っても、「鬼」や「龍」、ときには「神」そのものとして、「捕食者」については、身近で重要な「存在」として感じ取り、よく「知っ」ていたのである。それは、もちろん「恐れ」られ、「悪魔」じみた「敵」のように扱われることもあったが、多くの場合、「八百万」といわれる「神々」の一つとして、ほとんど平等に「敬わ」れた。むしろ、進んで、その「御利益」に預かろうとされることも、多かったのである。

だいたい、前にみた「スネカ」や、「なまはげ」のように、「捕食者」の性質を見事に表現しつつ、それを取り入れている行事を持つ文化など、他に探すのは難しいだろう。それほど、よく「捕食者」の「性質」を「知り」つつ、それを多くの「神々」と同様に「敬まっ」たり、むしろ逆に、自分らの「利益」に「利用」すらしていたのである。

それは、(ダチョウ倶楽部の「とりあえず拝んでおけ!」ではないが)多分に「ご都合主義」的なところはありつつ、多くの神々との関係で、バランス感覚ある「配慮」をしていたということでもあり、何よりも、したたかな「生活の知恵」でもあっただろう。それだけ、「捕食者」が「身近」なところにあって、「生活」にも密着していたということである。

しかし、西洋文明を取り入れることに躍起になった明治の頃からは、それら多くの「神々」は、「迷信」として捨て去られる傾向にあり、「捕食者」といえども、(表面上)その運命を免れなかった。それまでの地域的な共同体も大きく崩れ、日本全体としての「世間」も、その頃にできあがる。だから、「世間」とは、表面上は、非常に「この世」的なものとなり、単なる「人の集まり」しか意味しなくなった。

しかし、実質的には、依然として、「世間」が一つの「みえない」「権威」として機能するのは、それら、表面上は捨てられた、「この世」にあらざるものが、「世間」という「この世」的なものの「間隙」から、なおも、我々を縛るからである。むしろ、表面上は「捨てた」ということが、(後ろ髪を引くような形で)無意識レベルにおいては、よりそれへの「囚われ」を強めてすらいる。

このことは、「世間」とは、本来、「世と世の間」なのだと考えれば分かりやすい。それは、「この世」と「あの世」(死者の世界)ないし「他界」(神々や精霊の世界)との「間」ということであり、かつては、「明白」に意識されたものである。そのような「間」は、今も完全に払拭されたのではなく、「この世」の「人と人の間」に、いわば刻印のようにして、刻みつけられている。それこそが、「世間」ということであり、表面上は捨てられたかに見える、「神々」ないし「捕食者」の「権威」が、その実質的な「元」となっているのである。

ただ、その中でも、ますます「捨て去」られる傾向のはっきりする「神々」に対して、伝統的に身近なところにあり、「抗い難」く、本質的に「恐れ」をもたらす「捕食者」は、表面上はともかく、実質的には、相変わらず「力」を発揮する関係であり続けたということができる。むしろ、「捕食者」の側からすれば、意識レベルでは顧みられなくなることによって、より潜在化された形で、実質的には、「影響力」を強めることに成功したのである。

さらにその傾向がはっきりするのは、戦後である。「物質文明」をさらに発展させ、アメリカをも超える「産業社会」を築き上げた訳だが、そこにおいて、もはや「世間」の「権威」は、ほぼ「捕食者」一本に絞られることとなる。

それは、その「物質主義」的なあり方が、「捕食者」の意向と合致したからだが、そもそも、「産業社会」とは、「捕食者」のあり方をモデルにしたかのような、「捕食者的文明」そのものである。(この点については、いずれまた述べたい。)それは、「世間」全体としての「意向」そのものが、もはや「捕食者」の「意図」や「戦略」と、ほとんどかぶさるような方向に進んできたということである。さらに、日本の「集団主義」的なあり方も、「捕食者」の意向と、よく合致するのである。

かつては、「捕食者」との関係は、様々な関係の中での「バランス」や「知恵」でもあり得た。ところが、「神々」との関係が切れた現代においては、もはやそれは、「バランス」や「知恵」などであるはずもない。それは、ほとんど、我々は、「捕食者」の「奴隷」と化したということを意味している。現在の日本は、世界でも有数の、「捕食者」的な「社会」を築き上げたのである。

したがって、このような状況において、日本人が、「捕食者」を「知らない」などということは、あるはずもないのである。

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