「実体的意識性」と「オルラ」
精神科医宮本忠雄著『精神分裂病の世界』(紀伊国屋書店)は、一般向きの解説書としては、よく分裂病者の「知覚世界」や「内面世界」にまで踏み込んで、分かりやすく解説されている。その説明は、分裂病的体験の経験者からしても、かなり満足できるものがある。また、様々な点で、分裂病にまつわる「問題点」が整理されており、いろいろと考えさせられる。その中でも、特に、「実体的意識性」への注目は、重要である。
「実体的意識性」とは、ヤスパースの言葉で、分裂病者が、「自分の後ろなどに、ありありと、ある存在を、実感として感じる」ことを言っている。それは、「知覚」以前の「直感」的なもので、その者にとっては、まさに「実体」そのものとして、そこに「ある」ものと「意識」される。ただし、多くの場合、この「実体」は、何ものかとして明確に規定できるものではなく、まさに「未知」のものである。
著者は、「分裂病者」にとって、この「実体的意識性」こそが、本質的なもので、「幻覚」や「妄想」も、この「実体的意識性」を基礎にして展開されたものという。これは、全く正しい視点というべきである。この「実体的意識性」によってこそ、分裂病者は、差し迫った「恐れ」を抱き、圧倒され、自己が崩壊する瀬戸際に追い込まれるのであって、単に、「幻覚」や「妄想」が、そうするのではないからである。あるいは、体験の「リアリティ」というときに、「知覚」の「リアリティ」ということだけが、そうしているのではなく、その背後にある「実体的意識性」こそが、そうさせるからである。
私は、前回みたように、「幻覚」や「妄想」の根底にある、「未知」の「現実」という言い方をしたが、まさに、それを「実体」として意識させる、重要な要素が、「実体的意識性」なのである。
そういう訳で、分裂病の症状として、「幻覚」や「妄想」が取り上げられるが、実際には、この「実体的意識性」ということを抜きにして、それを云々しても、ほとんど意味のないことである。ところが、他の「分裂病」関連の書物などでは、この「実体的意識性」について、特に問題として取り上げたり、敷延したりしているのをあまりみかけない。むしろ、それに触れることは、避けられているようにみえる。それは、恐らく、この言葉が、一種「オカルト」へと踏み込む、一歩手前のような印象を与えるからでもあろう。
ただ、この「実体的意識性」は、「分裂病」だけに特有のものという訳ではない。『解離性障害』のところでもみたが、むしろ、「自分の後ろに何ものかがいる」という感覚は、「解離性障害」の方に多いと思われる。ただ、その場合の「何ものか」というのは、「もう一人の自分」ともいうべき、どこか、自分に親しいものである。ところが、分裂病の場合の「実体的意識性」は、「圧倒的」な「他者」として、あるいは「非人間的」な「他者」として、その者に「押し迫る」ものであるのが特徴である。
私自身の場合は、この「圧倒的」な「他者」としての「実体(的意識性)」と、どこか自分に親しい「もう一人の自分」ともいうべき「実体(的意識性)」との、両方があった。そして、それらは、「空間」的には、前者の「他者」的な「実体」が、まさに「他人」の「背後」に、後者の「もう一人の自分」的な「実体」が、自分の「背後」にいることが多かった。それらには、私は、当初、「敵」と「味方」と解したくらい、はっきりとした相違があった。
つまり、「実体的意識性」としては、「分裂病性」のものと、「解離性」のものとの両方が混在していた訳で、「実体的意識性」そのものは、本来、どちらをも含み得るものだから、そういう場合もあって、別に不思議はない訳である。
このような「実体的意識性」について、自分の体験を通して、克明に描き出しているのが、モーパッサンの「オルラ」である。(福武文庫『モーパッサン怪奇傑作集』)(新潮文庫『モーパッサン短編集<3>』)
「オルラ」とは、このような、「実体的意識性」によって、自分の背後にいると感知された「実体」につけられた名前――というよりも、それ自らが「語った」名前なのである。
主人公は、初め、何か異様な雰囲気、何か尋常でないことが起こりそうな「気配」を感じて、強い不安に襲われる。それが、徐々に、自分の背後にいる、「何ものか」の「実体」として、明確に感知されるようになる。そして、それが起こす、さまさまな奇妙な行動にも、悩まされることになる。彼は、それについて、様々に思いを巡らすが、結局、それは、かつて人類の経験したことのない、新たな「存在」であり、ちょうど、人間が牛に対してしているように、人類を乗っ取るものと考える。自分自身も、「オルラ」に乗っ取られそうなので、何とか殺そうと悪戦苦闘するが、結局、「オルラ」には「肉体」がないので、それも無理なことを悟る。そして、最後は、「…ということは、自分自身が死ぬのだ」という言葉で、終わっている。そこには、まさに、分裂病的な、「世界」の「没落感」または「自己」の「崩壊」の「切迫感」が、ひしひしと伝わってくる。
ただ、主人公が、この「オルラ」という存在を認める過程には、まさに、前回述べたような、恐怖に促された「想像力」や「思考」の、止めのない「連鎖」がある。まずは、「実体的意識性」という、何らかの「実体」に付きまとわれるという感覚があるのだが、それが何なのかの「解釈」として、「想像力」と「思考」の異様な連鎖が起こっているのである。だから、これは、まさに、分裂病的な「妄想」の過程を示す、一つの端的な例ともいえる。モーパッサンの文章は、その、切羽詰まった、鬼気迫るようなあり様を、克明に伝えているのである。
(このようなものは、他になかなかないと思うので、「オルラ」は分裂病者のそのような思考過程を伝える、恰好の材料と思う。)
ただ、この「オルラ」は、もともと、自分の背後に感知されたものであり、何か行動として(たとえば「声」などにより)、圧倒的な「他者」として迫るようなものではなかった。それが、主人公の「想像力」により、まさに、世にも稀な、圧倒的な「他者」として、「作り上げ」られた面がある。実際に、この「オルラ」が起こした「行動」と解されるものをみてみると、むしろ、意外にも、どこか「ユーモア」に満ちていたり、妖精的な、悪戯心のようなものが、目立つのである。
たとえば、夜中に、主人公が眠っている間に、何故か牛乳と水だけ飲んでしまう。(自分を椅子に縛り付けて寝ても、やはり牛乳と水はなくなっていた。)ばらの花を手に取ろうとすると、その意志を読んで、それを先取りするかのように、「オルラ」がばらの花を持ちあげて、その花をもぐ。(主人公からすれば、 空中にばらの花が持ち上がって、自ずともげていくように見える。)「オルラ」の正体を知ろうと、あらゆる「未知の存在」について書かれた書物を調べている途中、うとうとしていると、「オルラ」が正面の椅子に座って、その本のページをめくっている。(「皮肉」な笑みが、目に見えるようである。)
もちろん、「未知」の存在によるこのような「行為」は、恐ろしいものであるのは当然だが、やはり、それは、「分裂病」的な「他者」のとる行動とは、異質である。
私は、この「オルラ」は、本来は、自分の「背後」にいる、どこか自分と親しい、「もう一つの自分」というべきものだったと思う。ところが、主人公は、むしろ、分裂病的な「思考」の連鎖を施して、それに、まさに(「絵に描いた」ような)典型的な、分裂病的「他者」を「投影」してしまったのである。
つまり、この例でも、私の場合と同じように、「解離性」のものと「分裂病性」のものが混在している訳である。だた、私の場合と違うのは、その「実体的意識性」は、本来「解離性」のものなのだが、それに「分裂病的」な「思考の連鎖」によって、「分裂病的」な「解釈」が施されているということである。
ただし、「オルラ」は、「解離性」の「もう一人の自分」のようなものといっても、それが、既に「自分」から切り離されて、独自に存在しているなら、やはり、一個の「他者」として振る舞うものではある。(シュタイナーによれば、「ドッペルゲンガー」ないし「境域の守護霊」という独自の「霊的存在」。)また、主人公が、その「解釈」でたどり着いた「オルラ」とは、本当に、見事に、「分裂病的」な「他者」の「原型」ともいうべき、「捕食者」そのものを描き出している。たとえば、それが「催眠術を駆使して、人心を操る」とか、「かつて精霊とか悪魔とか呼ばれたが、その実態を暴かれずにきたもの」とか、「人類が牛に対してするように、人類を支配し、食するもの」などである。
そこで、主人公は、「実体的意識性」として、明確に意識したのは、まさに、自己の背後の「解離性」のものなのだが、それとは別に、明確に意識しないまでも、「他者」としての「捕食者」的存在をも、間近に「予感」していたのだと思う。そして、既に独自の存在のように振る舞っていた、「解離性」の「実体」に、恐怖とともに予感した、「分裂病」的な「捕食者」を、「投影」してしまったのだといえる。
「解離」した「自己」として、どこか自分に親しいながら、「精霊」的、または「悪魔」的側面をもつこのような「実体」は、ある意味「分かり易い」、「分裂病的他者」以上に「捉え難い」面があるのである。そこで、何かしら、このような「投影」を施してしまい易い訳だが、モーパッサンの場合は、既に目前に予感された、「捕食者」そのものを「投影」してしまったということである。
それで、実際には、かなり「親しい」面のある「オルラ」が、一方的に、「自己」を圧倒する「捕食者」的「存在」に染め上げられてしまったのである。実際、モーパッサンは、それに「押し潰され」てしまったようである。
(ほぼ、観念的「自爆」である。)
鋭い思考力を持ちながら、両者を明確に区別し得なかったのが、モーパッサンの悲劇といえば、言えるだろう。(私の場合は、当初だが、この自己の背後の「存在」によって、「捕食者」の恐怖を相当緩和された面がある。しかし、後に、本当の意味で、大きな「恐怖」となったのも、こちらの方なので、複雑である。)
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