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2010年5月24日 (月)

「知覚のリアリティ」と「実体的意識性」

注)「実体的意識性」は、「解離性障害」に伴っていわれることが多いが、「統合失調症」にとっても重要な概念です。

前回述べたように、「実体的意識性」そのものは、いわばその「存在」そのものから直接に伝わる、「直感」的なものである。一方、「知覚のリアリティ」は、「幻覚」などとして、具体的な「知覚」に伴うものだから、この「実体的意識性」とは、一応別のものといえる。

しかし、実際には、両者は、あいまって、その体験に「リアリティ」を付与しているのが普通だから、それらを厳密に区別するのは、難しいことだろう。私も、これまで、「幻覚」などについて、「知覚のリアリティ」というときは、この「実体的意識性」という意味も含めて言って来た。また、既に述べたように、この「幻覚」は、必ずしも意識されるとは限らず、「無意識」過程で生じる場合も多いから、「知覚」として意識されなかったとしても、「実体的意識性」と同様、一種の「直感」として作用する可能性がある。

さらに言えば、「実体的意識性」も、広い意味の「感覚」の一種の捉えることもできるだろう。たとえば、「五感」を越えて、「五感」を総合する働きをする、「共通感覚」ということがが言われるが、「実体的意識性」も、そのようなものと解する余地がある。ただし、もちろん、この場合の「感覚」とは、「物理」的な「感覚」とは別のものなので、あくまでも「比喩」的な意味でである。

まあ、別にこれらの区別にこだわる必要はないのだが、「分裂病的状況」での「リアリティ」というものは、「知覚」(幻覚)そのものよりも、「実体的意識性」の方から生じていることを明らかにするためには、一応区別しておくことが必要である。

「分裂病的状況」で、最も一般的に生じる「幻覚」は、他者の「声」(幻聴)で、それも、その者を「罵っ」たり、「批判」したりするものが多い。この「声」は、通常の物理的な「声」と同様に、はっきりと聞こえるものである(伝わり方には、微妙な違いがあるが)。つまり、「現実」と同等の「知覚」的「リアリティ」がある。

しかし、「分裂病者」は、決して、この「声」の「知覚」的「リアリティ」によって、「分裂病」的な「状態」に陥っているのではない。つまり、それが、「現実」同等のものとして聞こえるという、それそのものによって、「分裂病的状態」に陥るのではない。このことは、「分裂病者」が聞く「声」というものが、実際に、その他者によって物理的に発せられたとした場合に、どうなるかを考えてみれば分かるはずである。

その場合、恐らく「反応」は人により様々で、怒り出す、唖然とする、無視する、怪訝に思う、その他いろいろだろう。そのようなことが、頻繁に続けば、けんかや、その他のトラブルが生じ、あるいは、その者は、精神的に衰弱し、何からの「病的反応」を呈するかもしれない。しかし、はっきりしていることがある。その者は、決して「分裂病」にはならない!ということである。

このように、「分裂病者」は、単に、その「声」の現実同等の「リアリティ」に反応しているのではない。彼が強く反応するのは、その「声」の背後に、何らかの形で感得される、「実体的意識性」の方なのである。つまり、何もないところに、ある「存在」をありありと、「実体」として「意識」するのと同じ意味で、その「声」の背後に、(通常の他者の「声」ということを越えた)何らかの、「見えない」「実体」を、「感知」するということである。

それは、もちろん、「知覚」的な「リアリティ」によって強められもし、あるいは、その「声」そのものの「性質」や「内容」によるところも大きい。また、その者自身は、むしろ、「実体的意識性」なるものを、正面から認めようとはせず、その「声」を、通常の人間の「声」と「混同」(解釈)することも多い。それが、「みかけ」上、事を分かりにくくしている。しかし、その場合でも、その者が、本当に、「混乱」に陥り、「恐怖」に陥るのは、その「声」が単に通常の「声」として「リアル」だからなのではなく、背後に、何らかの形で、「実体的意識性」を、感じ取っているところによるのである。

それは、言い換えれば、目の前にする「人間」そのものからは、とても醸し出せない、「未知」の要素である。そこには、単に言葉の「意味」や、「勢い」ということを越えて、心底「恐怖」や「混乱」をもたらすだけの、「圧倒的」なものがあるのである。

そういった「未知」の、「圧倒」的なものに対する「恐怖」こそが、全ての「分裂病」的な「反応」の基礎にあるのである。むしろ、それを認め難いことから来る、様々な防衛的な「反応」こそが、分裂病的な「反応」の「本質」といえる。単に、現実と同等の「知覚」があることによって、そのような「反応」が生じているのではない、ということである。

言い換えれば、この「実体的意識性」の「リアリティ」は、幻覚的な「知覚」の「リアリティ」より以上のものである。「知覚」そのものでは、生み出せないだけの、強度の「リアリティ」をもたらすというのだから、それも当然といえる。そして、それこそが、その者に、具体的な「解釈」はともかく、その基礎となる、ある尋常でない「出来事」そのものは、絶対に起こったと「確信」させるだけのものを、生み出している。その「確信」が、全ての分裂病的「反応」の基礎にあるのである。

「幻覚」的な「知覚」も、確かに強い「リアリティ」をもたらしはする。しかし、それは、いくら「現実」と同等の「リアリティ」といっても、「現実」の「知覚」と比べると、他の多くの者とは「共有」できないものであり、その意味では、基盤は危ういのである。しかし、この「実体的意識性」は、「知覚」そのものではないので、他の者と「共有」できるかどうかは、ほとんど問題とはならない。そこから、「直接」に伝わってくるものこそが、重要なのであり、それ自体で、有無を言わせないだけの「リアリティ」を備えているのである。

むしろ、それは、他の多くの者とは「共有できない」ということを、補って余りあるものである(たとえ、「幻覚」ということが分かったとしても、そこに何らかの「リアリティ」があることを、確信させる)。それは、一種「本能」的、または「生物的」ともいえるもので、「主観的」ではあるものの、「根底」的なものである。

だから、たとえ、多くの者に、こぞって「否定」されても、その確信を、そう簡単に揺るがすことはできない。

これまで述べた、「知覚のリアリティ」というのは、単に、「幻覚」の場合だけを指しているなどと思われては困る。「実体的意識性」の「リアリティ」が、「知覚のリアリティ」を上回るということは、単に「幻覚」だけでなく、我々の通常の「知覚のリアリティ」をも上回るということである。だからこそ、それは、それまでにその者が、通常の「知覚」に基づいて築き上げて来た「世界」を、突き崩すだけのものともなるのである。彼の、それまでに築き上げて来た「世界」は、その「リアリティ」の前に、脆くも、「瓦解」するのである。

このように、「幻覚」を含め、「実体的意識性」の「リアリティ」は、通常の「知覚」の「リアリティ」というものの「危うさ」を暴露してしまうという意味でも、「厄介」なのである。それは、要するに、「他の多くの者との共有性」に基づいているのであって、それ以上に、確たる基盤があるという訳ではない。だから、もちろん、本人にとっては、その危うい「基盤」が、「崩壊」を引き起こす。また、一般に対しても、それらは、強い「不安」や、「拒否」の感情を呼び起こすのである。

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