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2010年5月15日 (土)

実体的意識性-「捕食者」と「境域の守護霊」

ある存在をありありと意識するという「実体的意識性」は、「知覚」以前の「直感」のようなものであった。すると、それは、「知覚のリアリティ」ということと、どのように関係するのかということが、問題となる。が、その点は、次回にでも述べることにして、今回は、まず、そもそも分裂病的状況で、「実体的意識性」なるものがどうして生じるのか、について述べたい。

それは、もちろん、その者が、そういった「実体」を「直感」し得るような
「状態にあるということが一つある。しかし、それは、その「実体」そのもののあり方に、大きく依存することでもあるのである。

つまり、一言で言えば、その「実体」なるものが、強烈な仕方と存在感でその者に立ち現れるからこそなのである。「捕食者」的な存在等が、ほとんど「意図」的に、強烈に現れるから、その者は、いやでも「実体」として「意識」せざるを得なくなるということである。それは、まさに「なまはげ」や「スネカ」が、子供を襲うのと同じようなもので、有無を言わせない、あからさまなものがある。「捕食者」は、もはや、その者に対して、自分を「実体」として「意識せい!」と言っているのも同然である。まさに、「実体的意識性」をもたせるべく、現れているといえるのである。

ただし、分裂病者は、それまで経験がなかった状況へと、その時初めて入って行くので、これまで、そのようなものを知る術もなかった。この点では、霊的なものの経験が豊富な「霊能者」とは、大きく異なっている。つまり、これまで、まったく「実体」として意識することなどなかったものを、あるいは、せいぜい、無意識的にしか感知していなかったものを、そこで初めて、「実体」として「意識」するという「過程」にあるのである。そこでは、たとえ「捕食者」的な存在が、いかに強烈なし方で現れようが、必ずしも、はっきりと、「実体」として「意識」されるとは限らない。

まず、「無意識」と「意識」の間には、深い「溝」があるから、その「溝」を越えるのは容易なことではない。また、本人も、「未知」のものを「実体」として意識することには、大きな抵抗があり、むしろ、それを避けるような方向で、「解釈」しようとする。

たとえば、「妄想」として、「CIA」のような、現実の「組織」が出てくるようなのは、まだ、この「実体的意識性」が、はっきりと「意識」されているとは言えない。しかし、分裂病的な「兆候」が現れている者には、既に、何らかの形で、「実体的意識性」が芽生えていることは間違いない。その「兆候」は、いずれ、はっきりとした形を表すことにもなる。たとえば、「宇宙人」や「神」、「悪魔」などの「超越」的なものが、出てくるようであれば、もはや、この「実体的意識性」は、十分意識されているといえる。

「捕食者」の側からすると、本来、多くの人間を支配下におくには、潜在的な影響を与えれば十分で、むしろ、自己をはっきりと意識させることは、得策とはいえない。しかし、単に潜在的な影響ということを越えて、ある者を「捕らえ」ようとするならば、話しは別である。その場合には、自分という存在ををはっきりと「実体」として「意識」させることによって、真の「恐怖」をもたらす必要がある。それは、何らかの形で、「意識」を捉えるからこそ、本物の「恐怖」となり得るのである。「分裂病的状況」に入って行くということは、そのように、「捕食者」との特別な関係(要は「捕まる」ということだが)に入って行くということである。

言い換えると、それまでは、あくまで、「捕食者」による「この世」的な支配を通して、「捕食者」に服していたに過ぎなかった。ところが、「分裂病的状況」では、もはや、「この世」的な支配ということを越えて、「霊界の境域」という「捕食者」の住まう「懐」にまで、引きずり込まれている。「捕食者」を「実体」として「意識」するということは、それまで「目に見えな」かった「霊的」実体を、それとして、はっきりと「意識」するということである。それは、もはや、それまでのその者の「世界」や「現実」を、大きく踏み越えさせ、その立脚点を「奪う」ものである。その者は、「捕食者」によって、「霊界の境域」という、馴染みのない「未知」の「世界」へと、「捕獲」されたのである。

「捕食者」は、「声」または何らかの視覚的な「現象」を伴って、強烈に襲いかかるのが普通である。そこには、当然、「知覚」的な「リアリティ」としても、強烈なものを伴う。「実体的意識性」は、そのような「知覚」的な「リアリティ」とあいまって生じているのも確かである。しかし、本来、それを「実体」として「意識」させているものは、やはり、単に「知覚」的な「リアリティ」には収まり切らない、その「存在」自体に本質的に伴うかのような、「直接的」な要素といえる。つまり、「知覚」以前の「直感的」なものである。それが、まだ、十分に「知覚」としては、開けていない者にも、「実体的意識性」として、強烈なものをもたらすのである。

このような「分裂病的状況」にあって、これだけの強烈な「実体的意識性」を生み出し得るものは、他の「存在」では考えられない。その者は、「捕食者」によって、いわば強引に「霊」的な「世界」への扉を開かせられているのであり、また、そのようなことは、「捕食者」でなければ、でき難いことでもある。もちろん、それは、「捕食者」からすれば、自らの懐へと、「捕獲」するためだが、実際に、ある客観的な、「霊的」な「感覚」ないし「意識」が、そこにおいて、はっきりと開かされるのは確かなのである。

私自身も、やはり、当初、「捕食者」によってこそ、そのような「世界」への扉をこじ開けられたということができる。(カスタネダは、「精霊のノック」というが、それに近い状況である。)その後、一般的な「精霊」や「妖精的存在」、「天使的存在」などとも接触したが、それらには、それぞれに、確かに、ある種の「強烈性」というか、「個性」あるいは「存在感」のようなものを感じるが、しかし、それ自体が、「捕食者」のように、強烈な「実体的意識性」をもたらすなどということはなかった。

このように、「分裂病的状況」(「霊界の境域」へ初めて踏み込んだ状況)にあって、まず「捕食者」との「接触」が生ずるというのは、その「存在」自体の「意志」と「強烈」さによるものが大きいのである。それは、決して、単純に、その者の「波動」が低いから、低い次元の存在を呼び寄せる、などということなのではない。

また、結果としてだが、それにより、「霊的」な次元へと開かれれば、さらなる領域や存在との接触の道も開ける可能性がある。だから、それは、結果的には、一つの「試練」ともなり得るのである。もろちん、「捕食者」に「捕まっ」てしまえば、もはやその「世界」へと「閉じ込め」られたも同然で、そのような可能性は望み難いものとなる。

もう一つ、「捕食者」とは違った意味で、このような強烈な「実体的意識性」をもたらす「存在」がいる。それは、シュタイナーのいう「境域の守護霊」である。本来は、「自己」そのものともいえるのだが、それから切り離されて、独自の存在として振る舞う「存在」である。「捕食者」と比べると、どこか「自己」に「親しい」ものであることが、直感的に知られるが、やはり、一つの「他者」的な、自分や人間とは「異質」な存在として、「意識」されるものである。

このような存在もまた、「霊界の境域」にあって、自己を「実体」として「意識せい!」というかのように、強烈な仕方で現れる。「捕食者」のようではなく、どこか、「ユーモア」に満ちたところがあるのだが、やはり、それなりに「恐ろしい」姿で、「圧倒」するように立ち現れるということである。(私の場合、ほぼ「捕食者」と同時に「実体」として「意識」したので、「捕食者」との対比が明確である。しかし、単独に、この存在と出会った場合には、モーパッサンのように、「捕食者」的な「恐怖」に塗り固められても不思議ではない。)

この「存在」は、あまりにも多面的な面をもっているので、容易には、「規定」できないが、基本的に、この「境界」で出会うときの「役目」は、「門番」ないし「番犬」なのだといえる。「霊界」に来るのに「ふさわしくない」者を、その「恐ろしい」姿でもって、追い返すべく、境界を「見張って」いる訳である。シュタイナーは、「霊的なものを正しく認識できない者が、霊界に参入すれば、魂が麻痺してしまう」というが、それは、要するに、私がここで述べたようなこと、つまり、「発狂」したり、「捕食者」の「餌食」になるというのと同じことだろう。

しかし、「境域の守護霊」は、あくまで「境域」そのものを「守護」している(「この世」との「境界」を容易に侵されないようにしている)のであって、その者を「守護」している訳ではない。その者が、「追い返され」た結果、そのようなことから免れたとすれば、それはあくまで、結果としてそうなったに過ぎない。

「境域の守護霊」は、あくまで「門番」に過ぎないから、それが「かい潜られる」ことはいくらでもあり得る。また、そもそも、シュタイナーも言うように、「境域」に入ったからと言って、必ず出会われるものでもない。つまり、「境域の守護霊」がいるからといって、「捕食者」から「護られる」などということなのでは、決してない。現に、「分裂病」者の多くが、「境域の守護霊」と出会っているようにはみえないし、たとえ出会ったとしても、結果として、「捕食者」に「捕まっ」ている場合が多いのは、明白である。

ただ、「境域の守護霊」は、やはり、ある意味「捕食者」と同じように、「境域」にある者に、ことさら、自己の「存在」を「意識」させようとしている。それは、その者が、既に「霊界の境域」に立っていることを、はっきり「意識」させるためと思われる。つまり、慣れ親しんだ「世界」を越えて、「未知」の「危険」な「領域」へと足を踏み入れていることへの「警告」である。そして、まずもって、自分の姿に「怖じけづく」者を「追い返す」のである。また、その先に進もうとする者には、さまざまな「試練」を与える。まずは、自分を「たたき台」にさせるかのようで、そうできない者は、先へと進ませないのである。その辺りのことが、「捕食者」との絡みで、「危う」く、「微妙」ながらも、なされるようである。

このように、「境域の守護霊」も、「捕食者」とは違った意図のもとに、「実体的意識性」を生み出そうとする存在で、実際、それだけの「強烈」性を備えた「存在」である。

そういう訳で、「分裂病的状況」、あるいは、初めに「霊界の境域」に赴いた際に、まず「実体」として「意識」されるものは、「捕食者」的存在か「境域の守護霊」(または、その前段階的な「ドッペルゲンガー」)である可能性が高いといえる。というよりも、そもそも、「実体的意識性」なるものは、これらの存在によって、あえて、もたらされているということなのである。

どちらにしても、それは、「恐怖」に染められた体験となる可能性が高く、何らかの「病的反応」をもたらす可能性も高い。また、それらは、そう単純な「存在」ではないので、「善悪」やら「高低」などの、とってつけたような観念では、到底立て打ちできない可能性が高い。

そこで、そのようなときに、無闇に「恐れる」ことに終始したり、「無謀」過ぎたりしないためにも、これらについては、ある程度知っていたり、区別の可能性をもっておくことは、必要なことと思われる。そのように、重要な「存在」であるにも拘わらず、これらの存在は、一般には、ほとんど何も「知られ」ていないのである。

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コメント

なるほど。
私が霊聴したのは、霊界の境域だったのか。
シュタイナーのを読んでいるのだが、
ティエムさんの説明でやっとわかった。
いきなり、エーテル能力を起こったのだが、
ティエムさんと同じ現象。

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