実体的意識性-「捕食者」と「境域の守護霊」
ある存在をありありと意識するという「実体的意識性」は、「知覚」以前の「直感」のようなものであった。すると、それは、「知覚のリアリティ」ということと、どのように関係するのかということが、問題となる。が、その点は、次回にでも述べることにして、今回は、まず、そもそも分裂病的状況で、「実体的意識性」なるものがどうして生じるのか、について述べたい。
それは、もちろん、その者が、そういった「実体」を「直感」し得るような
「状態にあるということが一つある。しかし、それは、その「実体」そのもののあり方に、大きく依存することでもあるのである。
つまり、一言で言えば、その「実体」なるものが、強烈な仕方と存在感でその者に立ち現れるからこそなのである。「捕食者」的な存在等が、ほとんど「意図」的に、強烈に現れるから、その者は、いやでも「実体」として「意識」せざるを得なくなるということである。それは、まさに「なまはげ」や「スネカ」が、子供を襲うのと同じようなもので、有無を言わせない、あからさまなものがある。「捕食者」は、もはや、その者に対して、自分を「実体」として「意識せい!」と言っているのも同然である。まさに、「実体的意識性」をもたせるべく、現れているといえるのである。
ただし、分裂病者は、それまで経験がなかった状況へと、その時初めて入って行くので、これまで、そのようなものを知る術もなかった。この点では、霊的なものの経験が豊富な「霊能者」とは、大きく異なっている。つまり、これまで、まったく「実体」として意識することなどなかったものを、あるいは、せいぜい、無意識的にしか感知していなかったものを、そこで初めて、「実体」として「意識」するという「過程」にあるのである。そこでは、たとえ「捕食者」的な存在が、いかに強烈なし方で現れようが、必ずしも、はっきりと、「実体」として「意識」されるとは限らない。
まず、「無意識」と「意識」の間には、深い「溝」があるから、その「溝」を越えるのは容易なことではない。また、本人も、「未知」のものを「実体」として意識することには、大きな抵抗があり、むしろ、それを避けるような方向で、「解釈」しようとする。
たとえば、「妄想」として、「CIA」のような、現実の「組織」が出てくるようなのは、まだ、この「実体的意識性」が、はっきりと「意識」されているとは言えない。しかし、分裂病的な「兆候」が現れている者には、既に、何らかの形で、「実体的意識性」が芽生えていることは間違いない。その「兆候」は、いずれ、はっきりとした形を表すことにもなる。たとえば、「宇宙人」や「神」、「悪魔」などの「超越」的なものが、出てくるようであれば、もはや、この「実体的意識性」は、十分意識されているといえる。
「捕食者」の側からすると、本来、多くの人間を支配下におくには、潜在的な影響を与えれば十分で、むしろ、自己をはっきりと意識させることは、得策とはいえない。しかし、単に潜在的な影響ということを越えて、ある者を「捕らえ」ようとするならば、話しは別である。その場合には、自分という存在ををはっきりと「実体」として「意識」させることによって、真の「恐怖」をもたらす必要がある。それは、何らかの形で、「意識」を捉えるからこそ、本物の「恐怖」となり得るのである。「分裂病的状況」に入って行くということは、そのように、「捕食者」との特別な関係(要は「捕まる」ということだが)に入って行くということである。
言い換えると、それまでは、あくまで、「捕食者」による「この世」的な支配を通して、「捕食者」に服していたに過ぎなかった。ところが、「分裂病的状況」では、もはや、「この世」的な支配ということを越えて、「霊界の境域」という「捕食者」の住まう「懐」にまで、引きずり込まれている。「捕食者」を「実体」として「意識」するということは、それまで「目に見えな」かった「霊的」実体を、それとして、はっきりと「意識」するということである。それは、もはや、それまでのその者の「世界」や「現実」を、大きく踏み越えさせ、その立脚点を「奪う」ものである。その者は、「捕食者」によって、「霊界の境域」という、馴染みのない「未知」の「世界」へと、「捕獲」されたのである。
「捕食者」は、「声」または何らかの視覚的な「現象」を伴って、強烈に襲いかかるのが普通である。そこには、当然、「知覚」的な「リアリティ」としても、強烈なものを伴う。「実体的意識性」は、そのような「知覚」的な「リアリティ」とあいまって生じているのも確かである。しかし、本来、それを「実体」として「意識」させているものは、やはり、単に「知覚」的な「リアリティ」には収まり切らない、その「存在」自体に本質的に伴うかのような、「直接的」な要素といえる。つまり、「知覚」以前の「直感的」なものである。それが、まだ、十分に「知覚」としては、開けていない者にも、「実体的意識性」として、強烈なものをもたらすのである。
このような「分裂病的状況」にあって、これだけの強烈な「実体的意識性」を生み出し得るものは、他の「存在」では考えられない。その者は、「捕食者」によって、いわば強引に「霊」的な「世界」への扉を開かせられているのであり、また、そのようなことは、「捕食者」でなければ、でき難いことでもある。もちろん、それは、「捕食者」からすれば、自らの懐へと、「捕獲」するためだが、実際に、ある客観的な、「霊的」な「感覚」ないし「意識」が、そこにおいて、はっきりと開かされるのは確かなのである。
私自身も、やはり、当初、「捕食者」によってこそ、そのような「世界」への扉をこじ開けられたということができる。(カスタネダは、「精霊のノック」というが、それに近い状況である。)その後、一般的な「精霊」や「妖精的存在」、「天使的存在」などとも接触したが、それらには、それぞれに、確かに、ある種の「強烈性」というか、「個性」あるいは「存在感」のようなものを感じるが、しかし、それ自体が、「捕食者」のように、強烈な「実体的意識性」をもたらすなどということはなかった。
このように、「分裂病的状況」(「霊界の境域」へ初めて踏み込んだ状況)にあって、まず「捕食者」との「接触」が生ずるというのは、その「存在」自体の「意志」と「強烈」さによるものが大きいのである。それは、決して、単純に、その者の「波動」が低いから、低い次元の存在を呼び寄せる、などということなのではない。
また、結果としてだが、それにより、「霊的」な次元へと開かれれば、さらなる領域や存在との接触の道も開ける可能性がある。だから、それは、結果的には、一つの「試練」ともなり得るのである。もろちん、「捕食者」に「捕まっ」てしまえば、もはやその「世界」へと「閉じ込め」られたも同然で、そのような可能性は望み難いものとなる。
もう一つ、「捕食者」とは違った意味で、このような強烈な「実体的意識性」をもたらす「存在」がいる。それは、シュタイナーのいう「境域の守護霊」である。本来は、「自己」そのものともいえるのだが、それから切り離されて、独自の存在として振る舞う「存在」である。「捕食者」と比べると、どこか「自己」に「親しい」ものであることが、直感的に知られるが、やはり、一つの「他者」的な、自分や人間とは「異質」な存在として、「意識」されるものである。
このような存在もまた、「霊界の境域」にあって、自己を「実体」として「意識せい!」というかのように、強烈な仕方で現れる。「捕食者」のようではなく、どこか、「ユーモア」に満ちたところがあるのだが、やはり、それなりに「恐ろしい」姿で、「圧倒」するように立ち現れるということである。(私の場合、ほぼ「捕食者」と同時に「実体」として「意識」したので、「捕食者」との対比が明確である。しかし、単独に、この存在と出会った場合には、モーパッサンのように、「捕食者」的な「恐怖」に塗り固められても不思議ではない。)
この「存在」は、あまりにも多面的な面をもっているので、容易には、「規定」できないが、基本的に、この「境界」で出会うときの「役目」は、「門番」ないし「番犬」なのだといえる。「霊界」に来るのに「ふさわしくない」者を、その「恐ろしい」姿でもって、追い返すべく、境界を「見張って」いる訳である。シュタイナーは、「霊的なものを正しく認識できない者が、霊界に参入すれば、魂が麻痺してしまう」というが、それは、要するに、私がここで述べたようなこと、つまり、「発狂」したり、「捕食者」の「餌食」になるというのと同じことだろう。
しかし、「境域の守護霊」は、あくまで「境域」そのものを「守護」している(「この世」との「境界」を容易に侵されないようにしている)のであって、その者を「守護」している訳ではない。その者が、「追い返され」た結果、そのようなことから免れたとすれば、それはあくまで、結果としてそうなったに過ぎない。
「境域の守護霊」は、あくまで「門番」に過ぎないから、それが「かい潜られる」ことはいくらでもあり得る。また、そもそも、シュタイナーも言うように、「境域」に入ったからと言って、必ず出会われるものでもない。つまり、「境域の守護霊」がいるからといって、「捕食者」から「護られる」などということなのでは、決してない。現に、「分裂病」者の多くが、「境域の守護霊」と出会っているようにはみえないし、たとえ出会ったとしても、結果として、「捕食者」に「捕まっ」ている場合が多いのは、明白である。
ただ、「境域の守護霊」は、やはり、ある意味「捕食者」と同じように、「境域」にある者に、ことさら、自己の「存在」を「意識」させようとしている。それは、その者が、既に「霊界の境域」に立っていることを、はっきり「意識」させるためと思われる。つまり、慣れ親しんだ「世界」を越えて、「未知」の「危険」な「領域」へと足を踏み入れていることへの「警告」である。そして、まずもって、自分の姿に「怖じけづく」者を「追い返す」のである。また、その先に進もうとする者には、さまざまな「試練」を与える。まずは、自分を「たたき台」にさせるかのようで、そうできない者は、先へと進ませないのである。その辺りのことが、「捕食者」との絡みで、「危う」く、「微妙」ながらも、なされるようである。
このように、「境域の守護霊」も、「捕食者」とは違った意図のもとに、「実体的意識性」を生み出そうとする存在で、実際、それだけの「強烈」性を備えた「存在」である。
そういう訳で、「分裂病的状況」、あるいは、初めに「霊界の境域」に赴いた際に、まず「実体」として「意識」されるものは、「捕食者」的存在か「境域の守護霊」(または、その前段階的な「ドッペルゲンガー」)である可能性が高いといえる。というよりも、そもそも、「実体的意識性」なるものは、これらの存在によって、あえて、もたらされているということなのである。
どちらにしても、それは、「恐怖」に染められた体験となる可能性が高く、何らかの「病的反応」をもたらす可能性も高い。また、それらは、そう単純な「存在」ではないので、「善悪」やら「高低」などの、とってつけたような観念では、到底立て打ちできない可能性が高い。
そこで、そのようなときに、無闇に「恐れる」ことに終始したり、「無謀」過ぎたりしないためにも、これらについては、ある程度知っていたり、区別の可能性をもっておくことは、必要なことと思われる。そのように、重要な「存在」であるにも拘わらず、これらの存在は、一般には、ほとんど何も「知られ」ていないのである。
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なるほど。
私が霊聴したのは、霊界の境域だったのか。
シュタイナーのを読んでいるのだが、
ティエムさんの説明でやっとわかった。
いきなり、エーテル能力を起こったのだが、
ティエムさんと同じ現象。
投稿: 小川 | 2015年5月25日 (月) 16時20分
ティエム様
大変ご無沙汰しております。
つい先日の出来事ですが、5年ぶりに集団ストーカー現象が再発したので、報告も兼ねてコメント投稿させて頂きます。といっても、出現したのは1名のみで「集スト」よりは「単スト」と呼ぶべき事象ですが…
細かい点は省くとして、今回新たな発見だったのは、
・追ってきた男は、明らかに統合失調だったこと
・顔立ちを含めた外見が、自分とよく似ていたこと
という2点でした。行く先々で神出鬼没に現れるのは相変わらずで、大きな動揺はなかったのですが、自分とほぼ同じ容姿を目にした時には、さすがに背筋が凍りました…
この点に関しては、もうお察しかもしれませんが、追ってきた男は捕食者的な性向に加えて、ドッペルゲンガー(≒境域の守護霊)の性質を強く帯びていたことが伺えます。この両義性は、以前にも感じとっていましたが、今回より色濃く発現したという感じです。
境域の守護霊と捕食者の関係性は、今なお不明な部分も多いのですが…
どちらも自己や他者や背後に潜む影のような存在ならば、似ていて当然と言えば当然なのでしょうか。
また、些細な事かもしれませんが、男に出くわした場所が、喫茶店風レストランだったことも印象深い点でした。というのも、場所を含めた様々な状況が、『無限の本質』のあのラストシーンを強く想起させるためです。行きつけのレストラン…統合失調者…その後の追跡劇……。ただの偶然でなければ、この状況を設定した存在は、恐るべき才能を持った演出家ですね。
投稿: アルマジラ | 2024年7月21日 (日) 18時01分
アルマジラさん、コメントありがとうございます。
興味深い出来事ですね。
私も、割と近くに住んでるらしき明らかに統合失調の人と、頻繁に出くわし、「ああ引き寄せてしまっているな」と感じることがよくあります。
その人は、毎回同じ目立つ格好で自転車に乗っていることが多く(おそらく、事故から身を護るためで、外界の車ではなく何か違うものを見ていたり、声を聞いていて注意が散漫になっていることが多いためでしょう)、大声で一人ごとを発したり、人に何か云いつけて、ケンカっぽいことになっているのを見たこともあります。
私は、意識では、あまり関わりたくないので意識しないようにしているのですが、心の奥ではどうしても興味を持ってしまうために、引き寄せてしまうことになるのでしょう。
アルマジラさんの自分にそっくりな容姿の統合失調の人というのも、基本、自分の心の奥で興味、または共感があるため、引き寄せてしまうのだと思います。ただ、顔がそっくりということで、そこには、特別の意味が感じられ、「境域の守護霊」(本来自分のドッペルゲンガーでもある)の働きかけを、感じずにはいられないですね。あるいは、「捕食者的存在」の嫌がらせ的な働きかけがあるのかもしれませんが、それだけではない気がします。単に統合失調の人と会うというのではなくて、自分という存在を何かしら象徴するような意味を持つ人との、衝撃性をもった出会いということで、実際に、アルマジラさんの心の琴線に触れているので、それなりの意味合いが込められているように思えます(私には、詳しくは分かりませんが)。
また、相手方にとっても、自分にそっくりな人との出会いということで、衝撃をもって受け取られ、追いかけられる理由になっているかもしれないですね。
いずれにしても、一つ言えるのは、それを何か、現実の組織の嫌がらせとか、文字通りの(人間による)「集団ストーカー」などと解してしまって恐れると、その方向を固定してしまって、ますますネガティブな感情で、現象を引き寄せてしまうので、そのような方向に行かないで済んでいるのは、建設的なことだということです。
今後も、現象を「楽しむ」くらいの感じで、さらに探求して行ったらいいと思います。
投稿: ティエム | 2024年7月22日 (月) 09時10分
ティエム様
ご返信ありがとうございます。
内容を拝見しまして、自身に起こった個人的な出来事が、ある種の普遍性を持っていたことに驚愕しております。
特に「無意識に引き寄せ合う」というご指摘については、(私が見落としていた)今回の現象の本質をあまりに鋭く言い当てており、読んだ瞬間に背筋がゾクっとしました…^^
まず「統合失調時における防衛意識」の話ですが、私が出会った男性にも似たような特徴が見受けられました。男性の場合は、リュックを背中ではなくお腹側で大事そうに抱えていましたが、そういった切実な理由があったのですね。
また「共感があるため、引き寄せてしまう」も、その通りだと思います。5年前の捕食者たちは、こちらの都合はお構いなしにグイグイ迫ってきましたが、今回の場合は、まず私の方から相手に関心を抱き、その送った視線や意識に相手が反応した…というのが実際のところでしたので。
「捕食者とは限らない」という点も、大変貴重なご指摘です。確かに、追跡という表面的な行動は同じであっても、怖がらせてやろうという心理的な意図は、(ゼロではないにせよ)薄かったと思います。追跡も一回限りで、以前のような執拗さはありませんでした。
ただ、ここで補足したいのは、男性がその際に発揮した異常な能力に関することです。男性は、かつての捕食者たちと同様に、時間・空間の制約を無視した瞬間移動(ワープ)を見せつけてきたのです。当日は急ぎの用があり、男性をレストランに置き去りにしましたが、その後すぐに、私の「前方から」飛び出てきたことを確認しております。
以上のことから、例えば、身近に暮らす統合失調の人たち(の一部)が、捕食者たちと同じ超自然的な能力を獲得している、という可能性もあり得るのではないでしょうか? もしこれが真実だとしたら、きわめて探求しがいのあるテーマと言えそうですね(俗っぽい見解で恐縮ですが)。
また話を元に戻すと、捕食者や守護霊といった類型に捕らわれ過ぎず、いろいろな別の可能性を探ることの大切さを、今あらためて実感しています。例えば、先のコメントには書きませんでしたが、当日の用事というのが身内の葬儀(一周忌)だっことも、事象の発生に影響した可能性がありそうです。
葬儀という場では、故人に対する惜別の念とは別に、儀礼的や形式的な態度が求められます。また、久しぶりに集まる親戚の前では、1人前の成人男性として振る舞うことが否が応にも求められます。こうした周囲の期待に応えべく、心理的な「仮面」を準備していた矢先に、(あるがままの自己である)統合失調の男性と出会ったことは、何か象徴的な意味があるような気がして「心の琴線に触れ」たのだと思います。
※長文すみません、以後なるべく慎みます
投稿: アルマジラ | 2024年7月23日 (火) 22時34分
「男性がその際に発揮した異常な能力に関することです。男性は、かつての捕食者たちと同様に、時間・空間の制約を無視した瞬間移動(ワープ)を見せつけてきたのです。当日は急ぎの用があり、男性をレストランに置き去りにしましたが、その後すぐに、私の「前方から」飛び出てきたことを確認しております。
以上のことから、例えば、身近に暮らす統合失調の人たち(の一部)が、捕食者たちと同じ超自然的な能力を獲得している、という可能性もあり得るのではないでしょうか?」
という点について、私なりのコメントを簡単にさせていただきます。
私が頻繁に会う統合失調の人も、神出鬼没ですし、統合失調の人ではないですが、記事『「ハイブリッド」と「集団ストーカー」』で述べたように、「ハイブリッド」または一種の「想念形態」と見立てられような存在が、明らかに超自然的な仕方で出没したこともあります。ですので、基本、そういうことはあると考えますし、統合失調の人が、「捕食者」その他何であれ、背後の存在の影響を受けやすい状態にあって、そういった能力を受けて、超自然的な振舞をすることはあると思います。(通常の人は、そのような影響力を受けたら、混乱したり、何かおかしいと感じたりするでしょうが、統合失調の人なら、何も気づかずに、そういう力の影響のままに振舞うことがあると思われます。)
ただ、そのような方向で考えることには、慎重でないと、混乱や恐れの元になるし、柔軟な発想ができなくなる可能性があるので、あくまで「可能性」として捉えておくというのが無難だとは思います。(私自身、できるだけそのようにしています。)
いずれにしても、統合失調絡みでは、いろいろあるので、面白い(笑)のですし、今後もまた、いろいろあるかもしれませんが、捕らわれずに探究していかれたらと思います。
投稿: ティエム | 2024年7月23日 (火) 23時53分
ご返信ありがとうございます。
なるほど、男性自身による能動的なテレポートではなく、背後の存在の影響下にあったというのは、いかにもあり得えそうな話ですね。彼らと同等の能力があれば、そもそも過剰に防衛する必要はないですから。
また、このような事象においては、ご紹介の記事にある通り、霊的・物質的存在のバリエーションや、捕食者などの背後関係を見極めることで、混乱はかなり避けられそうですね。私に関して言えば、守護霊や捕食者と直接対峙した事がないため、そのあたりの嗅ぎ分けが下手なんだろうと思います。
統合失調者=エスパー説は、さすがに斬新過ぎましたね……^^;
投稿: アルマジラ | 2024年7月24日 (水) 23時14分