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2010年5月

2010年5月24日 (月)

「知覚のリアリティ」と「実体的意識性」

注)「実体的意識性」は、「解離性障害」に伴っていわれることが多いが、「統合失調症」にとっても重要な概念です。

前回述べたように、「実体的意識性」そのものは、いわばその「存在」そのものから直接に伝わる、「直感」的なものである。一方、「知覚のリアリティ」は、「幻覚」などとして、具体的な「知覚」に伴うものだから、この「実体的意識性」とは、一応別のものといえる。

しかし、実際には、両者は、あいまって、その体験に「リアリティ」を付与しているのが普通だから、それらを厳密に区別するのは、難しいことだろう。私も、これまで、「幻覚」などについて、「知覚のリアリティ」というときは、この「実体的意識性」という意味も含めて言って来た。また、既に述べたように、この「幻覚」は、必ずしも意識されるとは限らず、「無意識」過程で生じる場合も多いから、「知覚」として意識されなかったとしても、「実体的意識性」と同様、一種の「直感」として作用する可能性がある。

さらに言えば、「実体的意識性」も、広い意味の「感覚」の一種の捉えることもできるだろう。たとえば、「五感」を越えて、「五感」を総合する働きをする、「共通感覚」ということがが言われるが、「実体的意識性」も、そのようなものと解する余地がある。ただし、もちろん、この場合の「感覚」とは、「物理」的な「感覚」とは別のものなので、あくまでも「比喩」的な意味でである。

まあ、別にこれらの区別にこだわる必要はないのだが、「分裂病的状況」での「リアリティ」というものは、「知覚」(幻覚)そのものよりも、「実体的意識性」の方から生じていることを明らかにするためには、一応区別しておくことが必要である。

「分裂病的状況」で、最も一般的に生じる「幻覚」は、他者の「声」(幻聴)で、それも、その者を「罵っ」たり、「批判」したりするものが多い。この「声」は、通常の物理的な「声」と同様に、はっきりと聞こえるものである(伝わり方には、微妙な違いがあるが)。つまり、「現実」と同等の「知覚」的「リアリティ」がある。

しかし、「分裂病者」は、決して、この「声」の「知覚」的「リアリティ」によって、「分裂病」的な「状態」に陥っているのではない。つまり、それが、「現実」同等のものとして聞こえるという、それそのものによって、「分裂病的状態」に陥るのではない。このことは、「分裂病者」が聞く「声」というものが、実際に、その他者によって物理的に発せられたとした場合に、どうなるかを考えてみれば分かるはずである。

その場合、恐らく「反応」は人により様々で、怒り出す、唖然とする、無視する、怪訝に思う、その他いろいろだろう。そのようなことが、頻繁に続けば、けんかや、その他のトラブルが生じ、あるいは、その者は、精神的に衰弱し、何からの「病的反応」を呈するかもしれない。しかし、はっきりしていることがある。その者は、決して「分裂病」にはならない!ということである。

このように、「分裂病者」は、単に、その「声」の現実同等の「リアリティ」に反応しているのではない。彼が強く反応するのは、その「声」の背後に、何らかの形で感得される、「実体的意識性」の方なのである。つまり、何もないところに、ある「存在」をありありと、「実体」として「意識」するのと同じ意味で、その「声」の背後に、(通常の他者の「声」ということを越えた)何らかの、「見えない」「実体」を、「感知」するということである。

それは、もちろん、「知覚」的な「リアリティ」によって強められもし、あるいは、その「声」そのものの「性質」や「内容」によるところも大きい。また、その者自身は、むしろ、「実体的意識性」なるものを、正面から認めようとはせず、その「声」を、通常の人間の「声」と「混同」(解釈)することも多い。それが、「みかけ」上、事を分かりにくくしている。しかし、その場合でも、その者が、本当に、「混乱」に陥り、「恐怖」に陥るのは、その「声」が単に通常の「声」として「リアル」だからなのではなく、背後に、何らかの形で、「実体的意識性」を、感じ取っているところによるのである。

それは、言い換えれば、目の前にする「人間」そのものからは、とても醸し出せない、「未知」の要素である。そこには、単に言葉の「意味」や、「勢い」ということを越えて、心底「恐怖」や「混乱」をもたらすだけの、「圧倒的」なものがあるのである。

そういった「未知」の、「圧倒」的なものに対する「恐怖」こそが、全ての「分裂病」的な「反応」の基礎にあるのである。むしろ、それを認め難いことから来る、様々な防衛的な「反応」こそが、分裂病的な「反応」の「本質」といえる。単に、現実と同等の「知覚」があることによって、そのような「反応」が生じているのではない、ということである。

言い換えれば、この「実体的意識性」の「リアリティ」は、幻覚的な「知覚」の「リアリティ」より以上のものである。「知覚」そのものでは、生み出せないだけの、強度の「リアリティ」をもたらすというのだから、それも当然といえる。そして、それこそが、その者に、具体的な「解釈」はともかく、その基礎となる、ある尋常でない「出来事」そのものは、絶対に起こったと「確信」させるだけのものを、生み出している。その「確信」が、全ての分裂病的「反応」の基礎にあるのである。

「幻覚」的な「知覚」も、確かに強い「リアリティ」をもたらしはする。しかし、それは、いくら「現実」と同等の「リアリティ」といっても、「現実」の「知覚」と比べると、他の多くの者とは「共有」できないものであり、その意味では、基盤は危ういのである。しかし、この「実体的意識性」は、「知覚」そのものではないので、他の者と「共有」できるかどうかは、ほとんど問題とはならない。そこから、「直接」に伝わってくるものこそが、重要なのであり、それ自体で、有無を言わせないだけの「リアリティ」を備えているのである。

むしろ、それは、他の多くの者とは「共有できない」ということを、補って余りあるものである(たとえ、「幻覚」ということが分かったとしても、そこに何らかの「リアリティ」があることを、確信させる)。それは、一種「本能」的、または「生物的」ともいえるもので、「主観的」ではあるものの、「根底」的なものである。

だから、たとえ、多くの者に、こぞって「否定」されても、その確信を、そう簡単に揺るがすことはできない。

これまで述べた、「知覚のリアリティ」というのは、単に、「幻覚」の場合だけを指しているなどと思われては困る。「実体的意識性」の「リアリティ」が、「知覚のリアリティ」を上回るということは、単に「幻覚」だけでなく、我々の通常の「知覚のリアリティ」をも上回るということである。だからこそ、それは、それまでにその者が、通常の「知覚」に基づいて築き上げて来た「世界」を、突き崩すだけのものともなるのである。彼の、それまでに築き上げて来た「世界」は、その「リアリティ」の前に、脆くも、「瓦解」するのである。

このように、「幻覚」を含め、「実体的意識性」の「リアリティ」は、通常の「知覚」の「リアリティ」というものの「危うさ」を暴露してしまうという意味でも、「厄介」なのである。それは、要するに、「他の多くの者との共有性」に基づいているのであって、それ以上に、確たる基盤があるという訳ではない。だから、もちろん、本人にとっては、その危うい「基盤」が、「崩壊」を引き起こす。また、一般に対しても、それらは、強い「不安」や、「拒否」の感情を呼び起こすのである。

2010年5月15日 (土)

実体的意識性-「捕食者」と「境域の守護霊」

ある存在をありありと意識するという「実体的意識性」は、「知覚」以前の「直感」のようなものであった。すると、それは、「知覚のリアリティ」ということと、どのように関係するのかということが、問題となる。が、その点は、次回にでも述べることにして、今回は、まず、そもそも分裂病的状況で、「実体的意識性」なるものがどうして生じるのか、について述べたい。

それは、もちろん、その者が、そういった「実体」を「直感」し得るような
「状態にあるということが一つある。しかし、それは、その「実体」そのもののあり方に、大きく依存することでもあるのである。

つまり、一言で言えば、その「実体」なるものが、強烈な仕方と存在感でその者に立ち現れるからこそなのである。「捕食者」的な存在等が、ほとんど「意図」的に、強烈に現れるから、その者は、いやでも「実体」として「意識」せざるを得なくなるということである。それは、まさに「なまはげ」や「スネカ」が、子供を襲うのと同じようなもので、有無を言わせない、あからさまなものがある。「捕食者」は、もはや、その者に対して、自分を「実体」として「意識せい!」と言っているのも同然である。まさに、「実体的意識性」をもたせるべく、現れているといえるのである。

ただし、分裂病者は、それまで経験がなかった状況へと、その時初めて入って行くので、これまで、そのようなものを知る術もなかった。この点では、霊的なものの経験が豊富な「霊能者」とは、大きく異なっている。つまり、これまで、まったく「実体」として意識することなどなかったものを、あるいは、せいぜい、無意識的にしか感知していなかったものを、そこで初めて、「実体」として「意識」するという「過程」にあるのである。そこでは、たとえ「捕食者」的な存在が、いかに強烈なし方で現れようが、必ずしも、はっきりと、「実体」として「意識」されるとは限らない。

まず、「無意識」と「意識」の間には、深い「溝」があるから、その「溝」を越えるのは容易なことではない。また、本人も、「未知」のものを「実体」として意識することには、大きな抵抗があり、むしろ、それを避けるような方向で、「解釈」しようとする。

たとえば、「妄想」として、「CIA」のような、現実の「組織」が出てくるようなのは、まだ、この「実体的意識性」が、はっきりと「意識」されているとは言えない。しかし、分裂病的な「兆候」が現れている者には、既に、何らかの形で、「実体的意識性」が芽生えていることは間違いない。その「兆候」は、いずれ、はっきりとした形を表すことにもなる。たとえば、「宇宙人」や「神」、「悪魔」などの「超越」的なものが、出てくるようであれば、もはや、この「実体的意識性」は、十分意識されているといえる。

「捕食者」の側からすると、本来、多くの人間を支配下におくには、潜在的な影響を与えれば十分で、むしろ、自己をはっきりと意識させることは、得策とはいえない。しかし、単に潜在的な影響ということを越えて、ある者を「捕らえ」ようとするならば、話しは別である。その場合には、自分という存在ををはっきりと「実体」として「意識」させることによって、真の「恐怖」をもたらす必要がある。それは、何らかの形で、「意識」を捉えるからこそ、本物の「恐怖」となり得るのである。「分裂病的状況」に入って行くということは、そのように、「捕食者」との特別な関係(要は「捕まる」ということだが)に入って行くということである。

言い換えると、それまでは、あくまで、「捕食者」による「この世」的な支配を通して、「捕食者」に服していたに過ぎなかった。ところが、「分裂病的状況」では、もはや、「この世」的な支配ということを越えて、「霊界の境域」という「捕食者」の住まう「懐」にまで、引きずり込まれている。「捕食者」を「実体」として「意識」するということは、それまで「目に見えな」かった「霊的」実体を、それとして、はっきりと「意識」するということである。それは、もはや、それまでのその者の「世界」や「現実」を、大きく踏み越えさせ、その立脚点を「奪う」ものである。その者は、「捕食者」によって、「霊界の境域」という、馴染みのない「未知」の「世界」へと、「捕獲」されたのである。

「捕食者」は、「声」または何らかの視覚的な「現象」を伴って、強烈に襲いかかるのが普通である。そこには、当然、「知覚」的な「リアリティ」としても、強烈なものを伴う。「実体的意識性」は、そのような「知覚」的な「リアリティ」とあいまって生じているのも確かである。しかし、本来、それを「実体」として「意識」させているものは、やはり、単に「知覚」的な「リアリティ」には収まり切らない、その「存在」自体に本質的に伴うかのような、「直接的」な要素といえる。つまり、「知覚」以前の「直感的」なものである。それが、まだ、十分に「知覚」としては、開けていない者にも、「実体的意識性」として、強烈なものをもたらすのである。

このような「分裂病的状況」にあって、これだけの強烈な「実体的意識性」を生み出し得るものは、他の「存在」では考えられない。その者は、「捕食者」によって、いわば強引に「霊」的な「世界」への扉を開かせられているのであり、また、そのようなことは、「捕食者」でなければ、でき難いことでもある。もちろん、それは、「捕食者」からすれば、自らの懐へと、「捕獲」するためだが、実際に、ある客観的な、「霊的」な「感覚」ないし「意識」が、そこにおいて、はっきりと開かされるのは確かなのである。

私自身も、やはり、当初、「捕食者」によってこそ、そのような「世界」への扉をこじ開けられたということができる。(カスタネダは、「精霊のノック」というが、それに近い状況である。)その後、一般的な「精霊」や「妖精的存在」、「天使的存在」などとも接触したが、それらには、それぞれに、確かに、ある種の「強烈性」というか、「個性」あるいは「存在感」のようなものを感じるが、しかし、それ自体が、「捕食者」のように、強烈な「実体的意識性」をもたらすなどということはなかった。

このように、「分裂病的状況」(「霊界の境域」へ初めて踏み込んだ状況)にあって、まず「捕食者」との「接触」が生ずるというのは、その「存在」自体の「意志」と「強烈」さによるものが大きいのである。それは、決して、単純に、その者の「波動」が低いから、低い次元の存在を呼び寄せる、などということなのではない。

また、結果としてだが、それにより、「霊的」な次元へと開かれれば、さらなる領域や存在との接触の道も開ける可能性がある。だから、それは、結果的には、一つの「試練」ともなり得るのである。もろちん、「捕食者」に「捕まっ」てしまえば、もはやその「世界」へと「閉じ込め」られたも同然で、そのような可能性は望み難いものとなる。

もう一つ、「捕食者」とは違った意味で、このような強烈な「実体的意識性」をもたらす「存在」がいる。それは、シュタイナーのいう「境域の守護霊」である。本来は、「自己」そのものともいえるのだが、それから切り離されて、独自の存在として振る舞う「存在」である。「捕食者」と比べると、どこか「自己」に「親しい」ものであることが、直感的に知られるが、やはり、一つの「他者」的な、自分や人間とは「異質」な存在として、「意識」されるものである。

このような存在もまた、「霊界の境域」にあって、自己を「実体」として「意識せい!」というかのように、強烈な仕方で現れる。「捕食者」のようではなく、どこか、「ユーモア」に満ちたところがあるのだが、やはり、それなりに「恐ろしい」姿で、「圧倒」するように立ち現れるということである。(私の場合、ほぼ「捕食者」と同時に「実体」として「意識」したので、「捕食者」との対比が明確である。しかし、単独に、この存在と出会った場合には、モーパッサンのように、「捕食者」的な「恐怖」に塗り固められても不思議ではない。)

この「存在」は、あまりにも多面的な面をもっているので、容易には、「規定」できないが、基本的に、この「境界」で出会うときの「役目」は、「門番」ないし「番犬」なのだといえる。「霊界」に来るのに「ふさわしくない」者を、その「恐ろしい」姿でもって、追い返すべく、境界を「見張って」いる訳である。シュタイナーは、「霊的なものを正しく認識できない者が、霊界に参入すれば、魂が麻痺してしまう」というが、それは、要するに、私がここで述べたようなこと、つまり、「発狂」したり、「捕食者」の「餌食」になるというのと同じことだろう。

しかし、「境域の守護霊」は、あくまで「境域」そのものを「守護」している(「この世」との「境界」を容易に侵されないようにしている)のであって、その者を「守護」している訳ではない。その者が、「追い返され」た結果、そのようなことから免れたとすれば、それはあくまで、結果としてそうなったに過ぎない。

「境域の守護霊」は、あくまで「門番」に過ぎないから、それが「かい潜られる」ことはいくらでもあり得る。また、そもそも、シュタイナーも言うように、「境域」に入ったからと言って、必ず出会われるものでもない。つまり、「境域の守護霊」がいるからといって、「捕食者」から「護られる」などということなのでは、決してない。現に、「分裂病」者の多くが、「境域の守護霊」と出会っているようにはみえないし、たとえ出会ったとしても、結果として、「捕食者」に「捕まっ」ている場合が多いのは、明白である。

ただ、「境域の守護霊」は、やはり、ある意味「捕食者」と同じように、「境域」にある者に、ことさら、自己の「存在」を「意識」させようとしている。それは、その者が、既に「霊界の境域」に立っていることを、はっきり「意識」させるためと思われる。つまり、慣れ親しんだ「世界」を越えて、「未知」の「危険」な「領域」へと足を踏み入れていることへの「警告」である。そして、まずもって、自分の姿に「怖じけづく」者を「追い返す」のである。また、その先に進もうとする者には、さまざまな「試練」を与える。まずは、自分を「たたき台」にさせるかのようで、そうできない者は、先へと進ませないのである。その辺りのことが、「捕食者」との絡みで、「危う」く、「微妙」ながらも、なされるようである。

このように、「境域の守護霊」も、「捕食者」とは違った意図のもとに、「実体的意識性」を生み出そうとする存在で、実際、それだけの「強烈」性を備えた「存在」である。

そういう訳で、「分裂病的状況」、あるいは、初めに「霊界の境域」に赴いた際に、まず「実体」として「意識」されるものは、「捕食者」的存在か「境域の守護霊」(または、その前段階的な「ドッペルゲンガー」)である可能性が高いといえる。というよりも、そもそも、「実体的意識性」なるものは、これらの存在によって、あえて、もたらされているということなのである。

どちらにしても、それは、「恐怖」に染められた体験となる可能性が高く、何らかの「病的反応」をもたらす可能性も高い。また、それらは、そう単純な「存在」ではないので、「善悪」やら「高低」などの、とってつけたような観念では、到底立て打ちできない可能性が高い。

そこで、そのようなときに、無闇に「恐れる」ことに終始したり、「無謀」過ぎたりしないためにも、これらについては、ある程度知っていたり、区別の可能性をもっておくことは、必要なことと思われる。そのように、重要な「存在」であるにも拘わらず、これらの存在は、一般には、ほとんど何も「知られ」ていないのである。

2010年5月 5日 (水)

「実体的意識性」と「オルラ」

精神科医宮本忠雄著『精神分裂病の世界』(紀伊国屋書店)は、一般向きの解説書としては、よく分裂病者の「知覚世界」や「内面世界」にまで踏み込んで、分かりやすく解説されている。その説明は、分裂病的体験の経験者からしても、かなり満足できるものがある。また、様々な点で、分裂病にまつわる「問題点」が整理されており、いろいろと考えさせられる。その中でも、特に、「実体的意識性」への注目は、重要である。

実体的意識性」とは、ヤスパースの言葉で、分裂病者が、「自分の後ろなどに、ありありと、ある存在を、実感として感じる」ことを言っている。それは、「知覚」以前の「直感」的なもので、その者にとっては、まさに「実体」そのものとして、そこに「ある」ものと「意識」される。ただし、多くの場合、この「実体」は、何ものかとして明確に規定できるものではなく、まさに「未知」のものである。

著者は、「分裂病者」にとって、この「実体的意識性」こそが、本質的なもので、「幻覚」や「妄想」も、この「実体的意識性」を基礎にして展開されたものという。これは、全く正しい視点というべきである。この「実体的意識性」によってこそ、分裂病者は、差し迫った「恐れ」を抱き、圧倒され、自己が崩壊する瀬戸際に追い込まれるのであって、単に、「幻覚」や「妄想」が、そうするのではないからである。あるいは、体験の「リアリティ」というときに、「知覚」の「リアリティ」ということだけが、そうしているのではなく、その背後にある「実体的意識性」こそが、そうさせるからである。

私は、前回みたように、「幻覚」や「妄想」の根底にある、「未知」の「現実」という言い方をしたが、まさに、それを「実体」として意識させる、重要な要素が、「実体的意識性」なのである。

そういう訳で、分裂病の症状として、「幻覚」や「妄想」が取り上げられるが、実際には、この「実体的意識性」ということを抜きにして、それを云々しても、ほとんど意味のないことである。ところが、他の「分裂病」関連の書物などでは、この「実体的意識性」について、特に問題として取り上げたり、敷延したりしているのをあまりみかけない。むしろ、それに触れることは、避けられているようにみえる。それは、恐らく、この言葉が、一種「オカルト」へと踏み込む、一歩手前のような印象を与えるからでもあろう。

ただ、この「実体的意識性」は、「分裂病」だけに特有のものという訳ではない。『解離性障害』のところでもみたが、むしろ、「自分の後ろに何ものかがいる」という感覚は、「解離性障害」の方に多いと思われる。ただ、その場合の「何ものか」というのは、「もう一人の自分」ともいうべき、どこか、自分に親しいものである。ところが、分裂病の場合の「実体的意識性」は、「圧倒的」な「他者」として、あるいは「非人間的」な「他者」として、その者に「押し迫る」ものであるのが特徴である。

私自身の場合は、この「圧倒的」な「他者」としての「実体(的意識性)」と、どこか自分に親しい「もう一人の自分」ともいうべき「実体(的意識性)」との、両方があった。そして、それらは、「空間」的には、前者の「他者」的な「実体」が、まさに「他人」の「背後」に、後者の「もう一人の自分」的な「実体」が、自分の「背後」にいることが多かった。それらには、私は、当初、「敵」と「味方」と解したくらい、はっきりとした相違があった。

つまり、「実体的意識性」としては、「分裂病性」のものと、「解離性」のものとの両方が混在していた訳で、「実体的意識性」そのものは、本来、どちらをも含み得るものだから、そういう場合もあって、別に不思議はない訳である。

このような「実体的意識性」について、自分の体験を通して、克明に描き出しているのが、モーパッサンの「オルラ」である。(福武文庫『モーパッサン怪奇傑作集』)(新潮文庫『モーパッサン短編集<3>』)

「オルラ」とは、このような、「実体的意識性」によって、自分の背後にいると感知された「実体」につけられた名前――というよりも、それ自らが「語った」名前なのである。

主人公は、初め、何か異様な雰囲気、何か尋常でないことが起こりそうな「気配」を感じて、強い不安に襲われる。それが、徐々に、自分の背後にいる、「何ものか」の「実体」として、明確に感知されるようになる。そして、それが起こす、さまさまな奇妙な行動にも、悩まされることになる。彼は、それについて、様々に思いを巡らすが、結局、それは、かつて人類の経験したことのない、新たな「存在」であり、ちょうど、人間が牛に対してしているように、人類を乗っ取るものと考える。自分自身も、「オルラ」に乗っ取られそうなので、何とか殺そうと悪戦苦闘するが、結局、「オルラ」には「肉体」がないので、それも無理なことを悟る。そして、最後は、「…ということは、自分自身が死ぬのだ」という言葉で、終わっている。そこには、まさに、分裂病的な、「世界」の「没落感」または「自己」の「崩壊」の「切迫感」が、ひしひしと伝わってくる。

ただ、主人公が、この「オルラ」という存在を認める過程には、まさに、前回述べたような、恐怖に促された「想像力」や「思考」の、止めのない「連鎖」がある。まずは、「実体的意識性」という、何らかの「実体」に付きまとわれるという感覚があるのだが、それが何なのかの「解釈」として、「想像力」と「思考」の異様な連鎖が起こっているのである。だから、これは、まさに、分裂病的な「妄想」の過程を示す、一つの端的な例ともいえる。モーパッサンの文章は、その、切羽詰まった、鬼気迫るようなあり様を、克明に伝えているのである。

(このようなものは、他になかなかないと思うので、「オルラ」は分裂病者のそのような思考過程を伝える、恰好の材料と思う。)

ただ、この「オルラ」は、もともと、自分の背後に感知されたものであり、何か行動として(たとえば「声」などにより)、圧倒的な「他者」として迫るようなものではなかった。それが、主人公の「想像力」により、まさに、世にも稀な、圧倒的な「他者」として、「作り上げ」られた面がある。実際に、この「オルラ」が起こした「行動」と解されるものをみてみると、むしろ、意外にも、どこか「ユーモア」に満ちていたり、妖精的な、悪戯心のようなものが、目立つのである。

たとえば、夜中に、主人公が眠っている間に、何故か牛乳と水だけ飲んでしまう。(自分を椅子に縛り付けて寝ても、やはり牛乳と水はなくなっていた。)ばらの花を手に取ろうとすると、その意志を読んで、それを先取りするかのように、「オルラ」がばらの花を持ちあげて、その花をもぐ。(主人公からすれば、 空中にばらの花が持ち上がって、自ずともげていくように見える。)「オルラ」の正体を知ろうと、あらゆる「未知の存在」について書かれた書物を調べている途中、うとうとしていると、「オルラ」が正面の椅子に座って、その本のページをめくっている。(「皮肉」な笑みが、目に見えるようである。)

もちろん、「未知」の存在によるこのような「行為」は、恐ろしいものであるのは当然だが、やはり、それは、「分裂病」的な「他者」のとる行動とは、異質である。

私は、この「オルラ」は、本来は、自分の「背後」にいる、どこか自分と親しい、「もう一つの自分」というべきものだったと思う。ところが、主人公は、むしろ、分裂病的な「思考」の連鎖を施して、それに、まさに(「絵に描いた」ような)典型的な、分裂病的「他者」を「投影」してしまったのである。

つまり、この例でも、私の場合と同じように、「解離性」のものと「分裂病性」のものが混在している訳である。だた、私の場合と違うのは、その「実体的意識性」は、本来「解離性」のものなのだが、それに「分裂病的」な「思考の連鎖」によって、「分裂病的」な「解釈」が施されているということである。

ただし、「オルラ」は、「解離性」の「もう一人の自分」のようなものといっても、それが、既に「自分」から切り離されて、独自に存在しているなら、やはり、一個の「他者」として振る舞うものではある。(シュタイナーによれば、「ドッペルゲンガー」ないし「境域の守護霊」という独自の「霊的存在」。)また、主人公が、その「解釈」でたどり着いた「オルラ」とは、本当に、見事に、「分裂病的」な「他者」の「原型」ともいうべき、「捕食者」そのものを描き出している。たとえば、それが「催眠術を駆使して、人心を操る」とか、「かつて精霊とか悪魔とか呼ばれたが、その実態を暴かれずにきたもの」とか、「人類が牛に対してするように、人類を支配し、食するもの」などである。

そこで、主人公は、「実体的意識性」として、明確に意識したのは、まさに、自己の背後の「解離性」のものなのだが、それとは別に、明確に意識しないまでも、「他者」としての「捕食者」的存在をも、間近に「予感」していたのだと思う。そして、既に独自の存在のように振る舞っていた、「解離性」の「実体」に、恐怖とともに予感した、「分裂病」的な「捕食者」を、「投影」してしまったのだといえる。

「解離」した「自己」として、どこか自分に親しいながら、「精霊」的、または「悪魔」的側面をもつこのような「実体」は、ある意味「分かり易い」、「分裂病的他者」以上に「捉え難い」面があるのである。そこで、何かしら、このような「投影」を施してしまい易い訳だが、モーパッサンの場合は、既に目前に予感された、「捕食者」そのものを「投影」してしまったということである。

それで、実際には、かなり「親しい」面のある「オルラ」が、一方的に、「自己」を圧倒する「捕食者」的「存在」に染め上げられてしまったのである。実際、モーパッサンは、それに「押し潰され」てしまったようである。
(ほぼ、観念的「自爆」である。)

鋭い思考力を持ちながら、両者を明確に区別し得なかったのが、モーパッサンの悲劇といえば、言えるだろう。(私の場合は、当初だが、この自己の背後の「存在」によって、「捕食者」の恐怖を相当緩和された面がある。しかし、後に、本当の意味で、大きな「恐怖」となったのも、こちらの方なので、複雑である。)

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