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2010年4月

2010年4月25日 (日)

「現実」の「解釈」としての「妄想」

前々回、「幻覚」についてみたが、これには、実際の「経験」がないと、なかなか、とっかかりすらつかめないという面があった。

しかし、この「妄想」の方は、少なくとも、誰もが、とっかかりぐらいは、持てるはずのものと思う。

一般に、「妄想」の一つの特徴として、「想像力」または「思考」が異様に高まり、「連想」的に次々と発展していく、ということがある。通常の「意識」による抑制が緩み、無意識的な「思考」の「連鎖」が、表面に出て来るのである。精神分析などでは、あえて、そのような「思考」の連鎖を起こさせて、そこから、無意識の「コンプレックス」を読もうとすることも行われる。また、「瞑想」していると、そのような無意識の「思考」の連鎖が、止めなく出て来ることがある。

「分裂病」にいう「妄想」にも、そのような「思考」の連鎖という特徴があるのは事実である。

しかし、一般にいう、「妄想」というのは、それら「思考」の連鎖は、一方に「現実」というものがあること、つまり「現実」そのものとは別であることを前提として、なされるものである。それは、「現実」からの一時的「逃避」だったり、単に抑圧されたものの回帰だったりするが、何しろ、それが、「想像」ないし「思考」の連鎖に過ぎないことは、「意識」されているのである。

「分裂病」の場合は、その「思考」の連鎖がなされる「動機」が、初めから、決定的に異なっている。それは、「現実」と別にではなく、初めから、「現実」そのもののこととして、その「解釈」としてなされるのである。

つまり、そこには、まず、ある、これまでの経験の延長上には、とても「理解し難い」、何か「尋常でない」「出来事」が起こったということが前提としてある。それが通常の「思考」では、とても「理解」できないので、その「解釈」として、「想像」ないし「思考」の止めない連鎖が起こるのである。

分裂病者の「妄想」というのは、表に表された内容のみをみれば、非常に単純かつ固定的なものに思えるかもしれない。しかし、それができあがる過程としては、そのように、歯止めのない「思考」の連鎖が起こっているのである。本来、その「思考」の連鎖を押し止どめず、いくところまで発展させれば、それは、そう簡単に固定的なものとして、落ち着くものではない。しかし、そのような「妄想」の「固定」は、恐怖をもよおす、「訳の分からない」状態に、ずっとおかれることを避けようとする、「防衛」的な反応から来ているのである。

そして、そのような、ある「理解し難い」「出来事」が起こったということに、強い「リアリティ」を持たせているのが、前々回みた「幻覚」なのである。つまり、「現実」と同等の「リアリティ」を有するが、「他の者と共有できない知覚」である。この、「幻覚」は、特に当初、必ずしも意識されるとは限らないが、それでも、無意識的過程として起こっている可能性が高く、その場合にも、そのような「出来事」が起こったという「直感」ないし「予感」に、大きな影響を与えるのである。

要するに、「分裂病」の「妄想」の基には、(意識的または無意識的)「幻覚」によってもたらされた、ある「理解し難い」、「現実」の「出来事」がある。その「解釈」として、試みられた「思考」の連鎖が、「妄想」なのである。

だから、「妄想」は、「現実」とは異なる「思考」ないし「想像」を、「現実」と「混同」したり、取り違えたというものではない。初めから、「現実」そのものの「解釈」として、なされているのである。その点で、通常いう「妄想」とは、決定的に異なるのである。


前に、「分裂病」の「妄想」に似たものとして、「恋愛妄想」をあげた。これも、思考の連鎖によって、混乱した状態に陥るもので、行動的にも、分裂病の「妄想」の場合と、かなり似た反応がみられる。この「恋愛妄想」も、また、ある「分からない」ことがらに対する、「解釈」としてなされることも同じである。ただ、この場合の「分からない」ことがらとは、要するに、相手の「気持ち」なのであり、その振る舞いの「意味」である。このような「分からなさ」は、誰もが「了解」するもので、決して特別なものではない。要するに、単純な「欲望的関心」に帰される問題で、恋愛感情が「冷め」てしまえば、そのような関心も失われるものでもある。

ところが、「分裂病」の場合の、ある「分からない」「出来事」というのは、本質的に「未知」であることを予感させるもので、容易に「分かり得る」ものではない。それは、他の者と共有できない「知覚」に基づいているだけに、他の者に「了解」され得るものでもない。しかも、それは、「自己」の立脚点を、根底から覆しかねないような、底知れぬ「恐怖」をもよおすものである。

そのような、「恐怖」に促されて、この「分からない」「出来事」について、何とか「分かろう」と、止めなく「思考」ないし「想像」を働かせることが、分裂病の「妄想」の本質なのである。実際、それは、「人の気持ち」など以上に、本質的に、「分からない」からこそ、「思考」の連鎖が、「止めなく」起こるのであり、本来、そうしたところで、「分かる」といった落ち着きどころがあるものでもない。また、恋愛感情のように、その感情に冷めてしまえば、止むというようなものでもない。

既にみたように、表に現れる「妄想」は、そのような「未知」の「分からない」状態に、さらされ続ける「恐怖」に、耐え切れず、「思考」の連鎖をいわば強引に止めて、ある固定的な「解釈」として「確信」されたものなのである。むしろ、それは、本来、そのように「分かり得る」ことではないからこそ、「分かった」こととして、「確信」される「必要」があるのである。

ただ、このような「妄想」が、「確信」されることには、そのような「防衛反応」のほかに、「幻覚」そのものが、いったん形成された「妄想」を、さらに補強するように働くという面もある。

それは、単純に、「妄想」が、「幻覚」的な現実を、それに沿うような方向で、視野狭窄的に解釈させるからということもある。しかし、実際に、強烈な恐怖に促され、無意識の深みから沸き起こる「妄想」は、「幻覚」的現実というものを、新たに「創出」する面もあるのである。さらに、「捕食者」は、これまでみてきたように、戦略的に、「幻覚」を仕掛けることができる訳だが、人の心中に形成された「妄想」を読んだうえで、それに添う形の「幻覚」を、さらに「創出」することもできる。

何しろ、「幻覚」と「妄想」は、互いに相乗的に「補強」し合う面があって、それが、また、容易にそこから抜け出し難い、泥沼のような「状況」を、作り出しているのである。

しかし、それらの根底にあるのは、やはり、ある「未知」の「現実」なのであり、それがもたらす「恐怖」であるということに、変わりはない。それらは、「幻覚」によってもたらされるので、結局は、この「幻覚」というものが、いくらかでも、体験的に「理解」できないと、本当には、「分かりよう」がないということになってしまうだろう。

しかし、「妄想」というものの、「思考」の連鎖として、一般と共通する面と、「現実」そのものの「解釈」として、一般とは異なる面は、十分明らかにできたはずである。

2010年4月 3日 (土)

「分裂病」以外の場合と「幻覚」

前々回みたような、「他の多くの者と共有できない知覚」というものは、「分裂病」以外にも多くある。誰もが、経験するものとしては、「夢」がそうだし、少し特殊な例としては、臨死体験者が、臨死状態で体験する「知覚」、霊能者などの知覚する「霊的知覚」、宗教家などの体験する「神秘体験」などがある。

そして、これらにおいても、「分裂病」にいう「幻覚」という「イメージ」は、大きく影響を与えている。これらも、「分裂病」の場合と同様、「現実」には「ない」ものとしての「幻覚」、「非現実」的で「あやふや」なものとしての、「幻覚」という「イメージ」に引き寄せられて、みられる場合が多いのである。

あいるは、逆に、これらの体験をした者は、それを「分裂病」にいう「幻覚」とは、別物であることを強調しようとする。「分裂病」にいう「幻覚」という「非現実」なものがあることは前提として、これらの体験は、そのようなものとは別の、「真実」の体験である、と言おうとするのである。

しかし、これらは、いずれにしても、「分裂病」の「幻覚」という、実態のはっきりしない、「あやふや」な「イメージ」に引きずられての、「不毛」な議論と言うしかない。「分裂病」の「幻覚」という「イメージ」は、このように、広く「一人歩き」してしまっているのである。

ただ、このような、「他の多くの者と共有できない知覚」というものは、実際、「夢」以外には、多くの者が、なかなか経験するものではないことから、致し方ない面がある。その「知覚」というものが、一体どのようなものなのかが、まさに「イメージ」できず、最も、「分かった」気にさせる、「幻覚」という「言葉」で、それらを「計る」しか、手がないのである。しかし、その「分かった」気にさせる「幻覚」という言葉自体が、「分裂病」の場合においても、既に、ピントを外してしまっている。

実際には、「分裂病」の「知覚」にしても、臨死体験者の「知覚」にしても、霊能者などの「霊」の「知覚」にしても、宗教家などの体験する「神秘体験」にしても、「他の多くの者と共有できない」が、「現実」そのものとしての「リアリティ」を有する「知覚」の、一つの「バリエーション」に過ぎない。

そこには、「見方」により、さまざまな違いを想定できようが、「知覚」として、「本質的」な区別がある訳ではない。ただ、「分裂病」の場合は、「捕食者」等によって、誘導された「知覚」という意味で、「混乱」と「破壊」の性質を帯び易いというだけのことである。

ところが、それが、「現実」には「ない」ものとしての、「幻覚」という「イメージ」をはめられることから、前述のような、「不毛」な議論が起こってしまう。そもそも、「分裂病」についての「イメージ」そのものが、「理解」とかけ離れたところで、いかに、「一人歩き」しているか、ということでもある。

これらのことを「解決」する一つの手としては、「幻覚剤」でもよいから、とりあえず、誰もが、一度は、このような「他の多くの者と共有できない」が、「現実」そのものの「リアリティ」を有する「知覚」を体験してみることである。

未開社会などでは、このようなことも、誰もが経験すべき、一つの「イニシエーション」として、儀式に組み込まれていたようである。かつて、「LSD」が合法であった頃には、このような試みをした者もかなりいて、それなりに効果をあげてもいた。(日本では、精神科医加藤清など)だが、残念なから、今は非合法なので、とりあえず、このようなことも、難しい状況になってしまった。

ただ、最近は、「ヘミシンク」とか、あまりポピュラーとは言えないが、「アイソレーションタンク」による「瞑想」など、外にも、このような「幻覚」状態を誘導する方法が、開発されてはいる。「催眠療法」や、ユングの「能動的想像」などのセラピーもそうである。また、自然発生的な「臨死体験」や、「体外離脱」体験も、より多く起こるようになってきているようである。何も、それらに、「深入り」する必要がある訳ではなく、一度でも、体験してみるだけで、「見方」が大きく変わる可能性があるのである。

このような体験が、一度でもあれば、少なくとも、「幻覚」というものが、すぐそれと「分かる」ものとか、「あやふや」で「非現実」的なものとかの、「誤解」は、なくなるはずなのである。「分裂病」にいう「幻覚」というのも、その場合と異なるものではないというとこである。「分裂病」の「イメージ」も、少なくとも、その点においては、いくらか解消されるはずである。

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