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2010年1月14日 (木)

「さとられ」と「CIA」

これまでにも、何度か、これらについては取り上げて来た。が、これこそが、「分裂病的状況」で起こっていることの、「キイワード」ともいえるものなので、まとめを兼ねて、さらに述べたい。

「CIAにつけ狙われる」という「妄想」は、分裂病者の「妄想」として、典型的なものである。一方、「自分の秘密が周りの者に漏れる」という「さとられ」も、分裂病者の「妄想」の典型的なものとされる。

実は、これらは、状況としては、ほとんど「同じ」事態の、一つの「解釈」の違いである。

「CIAにつけ狙われ」ているという者は、「自分の秘密が外部に漏れる」という事態を、「CIA」のような「組織」による、諜報活動の結果と解釈する。「テレパシー」のような「直接」的な方法で外部に知られるのではなく、盗聴器を仕掛けられる、監視される、聞き込み調査をされるなどの、何らかの「通常」の物理的手段によって、秘密が知られると解するのである。

それに対して、「さとられ」は、自分の心の中にあることが、直接「テレパシー」などの方法で、周りの者に「漏れている」と感じるものである。

但し、「CIA」が持ち出されることには、他の要素も大きく影響している。そもそも、「CIA」とは、一つの「象徴」的な意味を帯びている。それは、「世界的権力」、「秘密活動」、「高度の(操作的、洗脳的)技術」、「(個性のみえない)組織体」といったものを包摂する、一つの「象徴」なのである。

「CIA」は、誰もがその存在自体は認める、「既知」のものでありながら、実際には、「未知」の要素を多分に秘める。それは、「秘密」の組織であり、誰も、その実際の在り方を、具体的に知るものはいない。その「未知」の要素が、その「象徴」的な「イメージ」を大きく膨らませているのである。

「分裂病者」もまた、「分裂病的状況」で、得たいの知れないものに、差し迫られるという、「未知」の体験をしている。それは、はっきりとは「みえない」が、まさに背後で、「秘密裏」に、何か強大な力をもって、「組織的」に(「グル」になって)、迫ると感じられるものである。それを、「既知」のものの延長上に言い表わそうとするとき、「CIA」以上に適当なものはないのである。

しかし、とはいえ、「CIA」が持ち出されるポイントは、やはり、本来の「諜報」活動にこそある、というべきである。つまり、「自分の秘密が知られる」という理解しがたい状況の説明としてこそ、特に、選ばれているのである。

ところが、この「自分の秘密が知られる」という、実際の状況の「リアリティ」そのものに即してみると、「CIA」による「諜報活動」などよりも、「さとられ」の方が、よほど「真実」に近い。

「自分の秘密が知られる」という「状況」は、周りの者が、自分の「秘密」に関わることを「声」として言って来ることなどのことから、具体的に意識されるものである。その「秘密」なるものを、本当に顧みれば、それは、決して、誰かに言ったこととか、何かの形で表出したものなどではなく、自分の「心の中」にしかないことであるのが、はっきりするはずである。つまり、何か外部的に表示された情報を、間接的に収集したものではなく、「直接」何らかの方法で、心の中のことがらを、知られると解するほかない面があるのである。

「CIA」による「諜報活動」というのは、先にみたような、象徴的な面や他の要素ともあいまって、一つの「解釈」として、一応まとまりがあり、完結している。そして、何より、「見えない」「迫害」の相手を、一応とも、はっきり「見えるもの」として、差し示している。その点で、選ばれやすい訳だが、具体的レベルでの、「状況」の説明としては、はっきりと、破綻する可能性も秘めているのである。実際、それでは「無理」と解する者は、「宇宙人」やら「神」やらの、もっと「SF」的または「超越」的なものを持ち出さざるを得なくなる。

それ以前に、そもそも、「どうでもよい」ある個人の情報を、世界的諜報機関が動いて収集するなどということは、あるはずがないので、この「解釈」は、初めから破綻しているともいえる。ただ、それでも、あえて、このような「あり得ない」「解釈」を選ぶしかないほど、「秘密が知られる」という理解しがたい状況の「リアリティ」そのものは、強烈に起こっているということである。それで、自分が、世界的な「重要人物」のように思ってしまうこともあるが、それはむしろ、そのような「解釈」が選ばれたことの、結果的な「つじつま合わせ」という側面も大きいのである。

一方、「さとられ」の方は、実際に、自分の「心の中」にしかないはずのことが、外に漏れていると感じるという、信じ難い「状況」を、そのまま認めている。「状況」そのものに即して、それをそのまま認める点では、より「優れ」ている。ただ、その状況の、まとまった「解釈」としては、ほとんど何も提示できていない。だから、通常の理解を超えた要素を認めたくない者や、あやふやな「状態」におかれることを好まない者は、このような「解釈」は選ばないだろう。

しかし、この「さとられ」も、一つの「解釈」であることには違いない。それは、特に、自分の秘密が知られる相手を、「周りの者」と特定している点に現れている。実際にあるのは、自分の「秘密」に関わることを、「周りの者」が、「声」として言って来る(ようにみえる)、という「状況」なのであって、本当に、「周りの者」が、自分の「秘密」を知っていると、「分かる」訳ではないのである。

要するに、「CIA」にしろ「さとられ」にしろ、これらの「解釈」の根底にあるのは、「何者かに秘密が漏れる」と感じられる「状況」そのものは、厳としてあるということである。まず、何よりも、「何故」かはともかくとして、このような「状況」というものが、分裂病的状況にほぼ「普遍的」なものとしてあるということが、確認されるべきである。そして、そのうえで、もしその「状況」を体験したとしても、そのことに「囚われない」ということができるならば、それ以上に特に必要なことはないのである。

ただ、やはり、実際には、そのような「未知」の「状況」に接する限り、一定の「説明」がみえなければ、大抵の者は、混乱するであろうことは否めない。しかし、これまで何度か述べて来たように、この「状況」については、そう簡単に、一義的な説明のつくものではない。また、それに踏み込もうとする限り、通常の理解を超えた、「霊的」なものを認めざるを得ない。そこには、かなり「複雑」な要素も絡むので、一般には、必ずしも、そうすることが期待できない。

しかし、以下には、あえて、その「状況」の「理解」のための、ポイントを示しておく。ポイントは二つある。

一つは、これまで何度もみて来たように、分裂病的状況では、自己と外界の「境界」が揺らぎ、「外界」または「他者」が「自己」の内部に侵入し、あるいは「自己」が「外界」ないし「他者」へと拡散して行くような、不安定な状態にあるということである。言い換えれば、それまでの「自己」という「枠組」ないし「殻」は、もはや維持できなくなっていて、「浸透膜」のような、希薄なものと化しているのである。「心の秘密が外に漏れる」というのは、まさに、本来「自己」の心に属するはずのものが、外界に拡散するような感覚を、象徴的に言い表している面がある。

しかし、二つは、特にそのような状態になくとも、人の心の中を「読む」ことのできる「霊的存在」は、山ほどおり、人間ですら、無意識レベルにおいては、そうすることが可能な場合がある、ということである。分裂病的状況で、自己と外界の境界の揺らいでいる状態では、そのようなことは、よけいに起こりやすいし、そのことに、敏感に反応しやすい。

ただし、ここで注目すべき「霊的存在」とは、表に現れている「人間」の「背後」または「間」にあって、「人間」に影響を与えている「捕食者」的な「精霊」である。それらの存在は、「単独」で人間に働きかけることもあるが、いわば、「人間」をも巻き込みつつ。「協同」して働きかけることによって、より効果をあげることができる。たから、その場合には、表に現れている「人間」そのものと、その「背後」の「霊的存在」の「関係」というものに、着目しなければならない。表に現れた「人間」にだけ着目するのでは、「みかけ」に囚われるし、「背後」の「霊的存在」にだけ着目したのでは、必ずしも、「みかけ」の「リアリティ」は生まれない。

「周りの者が秘密に関わることを言って来る」といった状況は、それら、「表」に現れた「人間」と、「背後」または「間」の「霊的存在」との、協同的な「関係」によってこそ、「創出」されているということである。ただ、その「協同」関係には、「反感」や「怒り」などの、周りの人間そのものの「心理」が、主導する場合もあり得るし、それとはほとんど関係なく、「背後」の霊的存在の「戦略」や「力」が、主導する場合もある。

既にみたように、「霊的存在」そのものにとって、人間の心の中にあるものを読み取るのは、容易いことである。その読み取った事柄を、ある人物の「背後」または「間」から、その人物を「通し」て「語らせる」、または、そのように「見せかける」ことも、難しいことではない。前々回見たように、単なる「幻覚」と割り切れる代物ではない、「中間的現象」(物理的現実と区別しがたい現象)も起こせるから、その場合には、一層「みかけ」の「リアリティ」は強まる。

あるいは、もっと単純に、人間は、背後の「霊的存在」そのものを、はっきりとは認識できないので、人間の側で、その「背後」や「間」の「霊的存在」の言動を、周りの人間の言動のように(「投影」して)、認識してしまうということも、大きく影響している。

また、人間ですら、無意識のレベルにおいては、それらの存在と同じように、決してある者の「心の秘密」が読み取れない訳ではない。そもそも、ユングの「集合的無意識」のように、「心」とは、ある部分において、人間同士で共有されているものとすれば、そのようなことが生じること自体には、決して不思議はない。

さらに、人間にも、いわば「悪魔的」な「感覚」の優れた者はいるから、「無意識」にも、(人を分裂病に貶めるような)「戦略」的行動をとることは、不可能とはいえない。が、「分裂病的状況」全体としてみると、やはり、人間の単独の「力」では、そのようなことには、大きな限界があるのが明らかである。

「分裂病的状況」というものは、単に、一時的な「偶然」として生じるのでもなければ、ある感情的で突発的な「出来事」に過ぎないのでもないということは、強調されてよい。これも繰り返しみたように、それが「継続」して起こるということ、一定の「普遍性」があるということは、そこに、ある一貫した「戦略」というものが貫かれているからこそなのである。そして、それこそが、「分裂病」という、一種独特ではあるが、普遍的な「状況」を生み出す元になっているのである。

そこで、私としては、そのような「状況」は、人間をも巻き込みつつ、「協同」する形ではあっても、実質的には、背後の「捕食者的な精霊」こそが、「人と人の間」に「喧噪」をもたらしたり、特定の者から「恐怖」を絞り取るべく、執拗な「戦略」的方法によって、「主導」しているからこそ生じるのである、と言わざるを得ないのである。

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