「注文の多い料理店」の犬の怪
宮沢賢治の『注文の多い料理店』は、誰もが面白く読める、ユーモアと皮肉に満ちた、軽い「物語」のようである。しかし、その背後には、「精霊」の世界の「真実」や、前回みたような「中間的現象」の「真実」といった、「本当は怖い」ものを存分に秘めた、「問題作」といえる。
そのユーモアと皮肉は、料理店に、「食う」つもりで入った人間の方が、実は、「食われる」方であったということ。「注文の多い料理店」の「注文」とは、料理の種類ではなく、料理店の側が、入った人間をおいしく食べるための「注文」だったということなどに、端的にみられる。が、その他にも、ちょっとしたやりとりや、展開にも、ことごとく、みることができる。
しかし、その「人間が食われる」ということは、決して、単なる逆転の発想というものではなくて、一つの「真実」の提示そのものなのである。「注文の多い料理店」=「山猫軒」の実質的「経営者」は、山の神または精霊と思われるが、そういった「神々」ないし「精霊」は、人を「捕食」するものでもあるからである。それは、かつて、人間の側から神々に差し出された、「生け贄」という習慣にも、端的に示されている。
また、その「捕食」のあり方が、結構「グルメ」であるらしいのは、処女等、「生け贄」の「注文」にも、うるさかったことからも窺われる。「捕食者」が、「分裂病者」を、散々「怖がらせ」たあげく、焦らせながら、塩でもんで、たっぷり味付けしたうえで、平らげようとすることも、まさに、この料理店の「注文」の多さそのままを彷彿とさせる。
もっとも、この「物語」の場合は、遊び感覚で山に狩猟に来た、西洋かぶれの2人の人間に対する「怒り」から、「みせしめ」的になされたもののようである。
また、この「注文の多い料理店」というのは、それまでなかったところに出現した建物で、『遠野物語』の「マヨイガ」とまったく同じである。そこに入った者が、まったく「物質的」なもののように振る舞っていること、しかし、いずれ消滅してしまうことで、「物質的な現実」そのものでなかったことが判明するのも、同じである。つまり、「中間的現象」そのものである。
これは、山の神ないし精霊の、異次元的な力によって、創出された「現象」と言うべきである。ただ、「マヨイガ」の場合と違い、それが「好意」に基づくものではなかったということである。
しかし、このような「中間的現象」は、「注文の多い料理店」の出現の前に、一種の「警告」のような形で、既に2人の人間に与えられていたのである。
それは、2人の人間が、山で道に迷い始める頃のことで、連れていた犬が、突然あわをふいて、死んでしまうというものである。これは、「物語」として、はっきり「死んでしまいました」と書かれており、単なる「幻覚」とは解し難い。2人の人間も、「いくらの損害である」などと、「物」扱いしているが、はっきりと、死を認めている。
しかし、その「犬」こそが、いわば、その「料理店」の「実質」を暴き、それに飛び込むことによって、人間が「食われる」前に、消えさせてしまうことに成功するのである。
つまり、死んだはずの「犬」は、生きていたのであり、まさにその犬こそが、人間を救ったのである。人間が、「物」扱いにした犬によってこそ、救われているのも、皮肉がきいている。(前にも述べたように、この「犬」を、たとえば、幽霊だったと解するのは無理である。犬は、「料理店」が消えた後も、残って、2人の人間のもとにいるからである。)
これによって、「犬が死んだ」という「現象」は、単なる「幻覚」ではないにしても、「物質的現実」そのものではなかったことが、明白になった。つまりは、「中間的現象」というしかないのである。
むしろ、人間は、この犬の出現の矛盾に気づいていないらしいのも、皮肉である。「料理店」での出来事だけで、十分気が動転しているので、犬が死んだことなど忘れているとも言える。が、やはり、それだけ「鈍感」なのである。
ただ、あえて言えば、「犬が死んだ」という「事実」は、やはり、「中間的現象」として、どこか、「非現実的」な要素を漂わせていた、ということも言える。いかにも唐突であり、不自然であったということである。
だからこそ、犬が出て来て、「生きている」のが「現実」であることが判明した瞬間、そちらの方が、「現実」として、自然に受け入れられたのである。但し、そこには、もちろん、矛盾する「現実」を、同時に受け入れることはできないという、当然の心理が働いている。そして、そのようなことこそが、一般には、「中間的現象」が、たとえ起こったとしても、それを即座に記憶から抑圧してしまうことの、理由なのである。
宮沢賢治の、この「死んだはずの犬の怪」は、一見まさに「怪」だけれども、「中間的現象」としてみると、実に、その「真実」を細かいところまで、よく示していると言える。賢治自身は、この「怪」については、何の説明も加えておらず、いわば、当たり前のことのように流している。
賢治は、『注文の多い料理店』の序文で、これらの「物語」は、「虹や月明かりからもらった」もので、「どうしても、本当にあるようでしかたがないこと」だと言っている。それが、まさに、そのように、「もらった」ものだとしても、賢治の、このような、当たり前のような流し方は、やはり、賢治自身が、これらの「中間的現象」について、よく知っていたとしか思えないのである。
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