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2009年11月

2009年11月 8日 (日)

「注文の多い料理店」の犬の怪

宮沢賢治の『注文の多い料理店は、誰もが面白く読める、ユーモアと皮肉に満ちた、軽い「物語」のようである。しかし、その背後には、「精霊」の世界の「真実」や、前回みたような「中間的現象」の「真実」といった、「本当は怖い」ものを存分に秘めた、「問題作」といえる。

そのユーモアと皮肉は、料理店に、「食う」つもりで入った人間の方が、実は、「食われる」方であったということ。「注文の多い料理店」の「注文」とは、料理の種類ではなく、料理店の側が、入った人間をおいしく食べるための「注文」だったということなどに、端的にみられる。が、その他にも、ちょっとしたやりとりや、展開にも、ことごとく、みることができる。

しかし、その「人間が食われる」ということは、決して、単なる逆転の発想というものではなくて、一つの「真実」の提示そのものなのである。「注文の多い料理店」=「山猫軒」の実質的「経営者」は、山の神または精霊と思われるが、そういった「神々」ないし「精霊」は、人を「捕食」するものでもあるからである。それは、かつて、人間の側から神々に差し出された、「生け贄」という習慣にも、端的に示されている。

また、その「捕食」のあり方が、結構「グルメ」であるらしいのは、処女等、「生け贄」の「注文」にも、うるさかったことからも窺われる。「捕食者」が、「分裂病者」を、散々「怖がらせ」たあげく、焦らせながら、塩でもんで、たっぷり味付けしたうえで、平らげようとすることも、まさに、この料理店の「注文」の多さそのままを彷彿とさせる。

もっとも、この「物語」の場合は、遊び感覚で山に狩猟に来た、西洋かぶれの2人の人間に対する「怒り」から、「みせしめ」的になされたもののようである。

また、この「注文の多い料理店」というのは、それまでなかったところに出現した建物で、『遠野物語』の「マヨイガ」とまったく同じである。そこに入った者が、まったく「物質的」なもののように振る舞っていること、しかし、いずれ消滅してしまうことで、「物質的な現実」そのものでなかったことが判明するのも、同じである。つまり、「中間的現象」そのものである。

これは、山の神ないし精霊の、異次元的な力によって、創出された「現象」と言うべきである。ただ、「マヨイガ」の場合と違い、それが「好意」に基づくものではなかったということである。

しかし、このような「中間的現象」は、「注文の多い料理店」の出現の前に、一種の「警告」のような形で、既に2人の人間に与えられていたのである。

それは、2人の人間が、山で道に迷い始める頃のことで、連れていた犬が、突然あわをふいて、死んでしまうというものである。これは、「物語」として、はっきり「死んでしまいました」と書かれており、単なる「幻覚」とは解し難い。2人の人間も、「いくらの損害である」などと、「物」扱いしているが、はっきりと、死を認めている。

しかし、その「犬」こそが、いわば、その「料理店」の「実質」を暴き、それに飛び込むことによって、人間が「食われる」前に、消えさせてしまうことに成功するのである。

つまり、死んだはずの「犬」は、生きていたのであり、まさにその犬こそが、人間を救ったのである。人間が、「物」扱いにした犬によってこそ、救われているのも、皮肉がきいている。(前にも述べたように、この「犬」を、たとえば、幽霊だったと解するのは無理である。犬は、「料理店」が消えた後も、残って、2人の人間のもとにいるからである。)

これによって、「犬が死んだ」という「現象」は、単なる「幻覚」ではないにしても、「物質的現実」そのものではなかったことが、明白になった。つまりは、「中間的現象」というしかないのである。

むしろ、人間は、この犬の出現の矛盾に気づいていないらしいのも、皮肉である。「料理店」での出来事だけで、十分気が動転しているので、犬が死んだことなど忘れているとも言える。が、やはり、それだけ「鈍感」なのである。

ただ、あえて言えば、「犬が死んだ」という「事実」は、やはり、「中間的現象」として、どこか、「非現実的」な要素を漂わせていた、ということも言える。いかにも唐突であり、不自然であったということである。

だからこそ、犬が出て来て、「生きている」のが「現実」であることが判明した瞬間、そちらの方が、「現実」として、自然に受け入れられたのである。但し、そこには、もちろん、矛盾する「現実」を、同時に受け入れることはできないという、当然の心理が働いている。そして、そのようなことこそが、一般には、「中間的現象」が、たとえ起こったとしても、それを即座に記憶から抑圧してしまうことの、理由なのである。

宮沢賢治の、この「死んだはずの犬の怪」は、一見まさに「怪」だけれども、「中間的現象」としてみると、実に、その「真実」を細かいところまで、よく示していると言える。賢治自身は、この「怪」については、何の説明も加えておらず、いわば、当たり前のことのように流している。

賢治は、『注文の多い料理店』の序文で、これらの「物語」は、「虹や月明かりからもらった」もので、「どうしても、本当にあるようでしかたがないこと」だと言っている。それが、まさに、そのように、「もらった」ものだとしても、賢治の、このような、当たり前のような流し方は、やはり、賢治自身が、これらの「中間的現象」について、よく知っていたとしか思えないのである。

2009年11月 3日 (火)

幻覚的現実と物質化現象の「中間的現象」

注)「非物質的現実」と「「物資的現実」の「中間的現象」というものがあることも、「統合失調症」にとって非常に厄介な「現実」です。

非物質的現実           /            物質的現実

「幻覚的現実」←「中間的現象」→「物質化現象」


分裂病的状況でも、他の場合でも、「幻覚」というのには、様々な種類がある。その違いは、主観的な「現実感」にも、また客観的な「リアリティ」にも、大きな影響を与えている。

それは、我々が通常、「物質的現実」を「現実」として生きている以上、それとの「隔たり」という観点から、区別するのがよいと思う。言い換えると、「幻覚」というものにも、「物質的現実」とはっきりと区別できるものから、ほとんど区別できないものまで、様々あるということである。

それは、大体、上の図のように分類できると思う。

ここで、幻覚的現実というのは、単純に、いわゆる「幻覚」、客観的事実に反する知覚だけを意味するのではない。それが、「霊的」または「異次元的」な出来事として捉えられようが、いわゆる「物質的現実」というのが、一方にあって、それとははっきり区別し得るものとして認識できるもの。つまり、「物質的現実」そのものとは、相入れない「現実」であることが、はっきりしているものである。

それに対して、物質化現象というのは、本来は、「この世」的でないもの、つまり、物質的でないものの現れなのだが、それが、何らかの理由により、「物質的な現実」そのものとして、現れ出たものである。あるいは、もともと物質的なものとしてあるものが、何らかの物質的でない作用により、物理的には起こり得ない現象として、起こった場合をも含め得る。

例えば、それ以前には、物質的には感知できなかったものが、突然、「物質的」なものとして出現した場合、それは「物質化現象」である。あるいは、「ポルターガイスト現象」のように、物質的なものが、物理的な原因なく、動いたり、飛んだりする現象も、「物質化現象」に含め得る。

このような現象は(少なくともその結果は)「物質的な現象」として、確かめ得ることが特徴である。他の物理的現象と同じく、他の者による知覚とか、観測装置によって確かめられるということである。

つまり、そのような現象は、「物質的現実」そのものと区別することは難しい、というよりも、「物質的現実」そのものとして起こっているということである。

そして、この「幻覚的現実」というのと、「物質化現象」というのとの間には、ほとんど限りなく、「中間的な現象」があるといえるのである

「中間的」というのは、それが、「幻覚的現実」のように、「物質的現実」そのものとはっきり区別できる現象とは言えず、かと言って、「物質化現象」のように、「物質的現象」そのものとして起こっているとも、言い難いものだからである。それは、度合いとしても、まさに、「幻覚的現実」に近いものから、「物質化現象」に近いものまで、様々あり得る。

分裂病的状況においても、「幻覚」というものには、そのような「中間的現象」が、起こり得る。そして、そのような「中間的な現象」こそが、非常に厄介なのである。

それは、「この世」的なものと区別できる「幻覚的現実」と違って、「物質的現実」そのものと区別し難い要素を、いくらかとも含むからである。「物質的現実」そのものとして起こっているかのような「みかけ」をもつから、普段「物質的現実」に意識を焦点化している者にとっても、一定の「リアリティ」を持つ。しかし、それは、「幻覚的現実」特有の、とても「物質的現実」そのものとは解し難い、混乱させる、「非現実」的要素をも含むのである。

だから、その「理解」となると、「幻覚的現実」や「物質化現象」のように、一応は、割り切った形で、把握できる可能性あるものに比しても、非常に困難なのである。

要するに、それは、「現実」と「非現実」の「狭間」にあるような出来事で、どちらとも確定できない。まさに、「キツネにつままれた」ような出来事である。「物質的現実」のような「リアリティ」はもつが、「幻覚的現実」のように、どこか「非現実的」で、混乱させる要素に満ちているのである。

また、そのような現象、特にそれが継続して起こるときには、そもそも、「現実」というものが、そのように確かで一義的なものでなくなったという、「崩壊」の感覚をももたらすことになる。

分裂病以外で、このような、「中間的現象」の例をみると、これまであげたところでは、カスタネダが、「カラスとなって空を飛んだ」ことや、さらには、『遠野物語』に出て来る「マヨイガ」がある。

カスタネダが「空を飛んだ」のは、本人には、まさに、「物質的現実」そのもののように「実感」された。が、しかし、自分でも、理論的には、そんなことはあり得ないと思う。ドンファンに聞いても、どう感じたかが重要で、それを「説明」することには意味がないと言う。他の者が自分を見たら、自分が「空を飛んでいる」ように見えるのかと聞いても、それは、その見る者次第だと言う。

つまり、「物質的現実」と全く別の現象とも言えないし、「物質的現実」そのものの出来事とも言えない、「中間的な現象」ということである。

遠野物語の「マヨイガ」(それまでなかった場所に突然現れ出た建物)も、そこに現れ出た時には、物質的なもののように現れ出ているし、そこに入り込んだ者も、全く物質的なものと変わりなく、振舞っている。しかし、それは、いずれ、消えてしまうことで、「物質的現実」そのものではなかったことが判明する。ところが、その「マヨイガ」に入った者は、そこにあった何らかの「贈り物」を、後に手に入れるなどのことによって、何らかの物理的痕跡を、手に残すのである。

つまり、「マヨイガ」は、「物質的現実」と全く別の現象とも言えないし、「物質的現実」そのものの出来事とも言えない、「中間的な現象」と言うしかない。

この「マヨイガ」の場合は、背後に「善意」のあるものとみなし得るが、それに対して、分裂病的状況における「幻覚」は、既に述べたように、「捕食者」によって、創出されたり、あるいは、少なくとも方向づけられたりするから、その場合の、「中間的現象」は、もっと「悪意」に満ちている。つまり、はっきりと、「混乱」や「恐怖」を意図されて、起こる。

その内容も、その者の潜在的恐怖にうったえかける形での、「迫害」を示唆するものだったり、あるいは、もっと、想像力に訴えかける、抽象的な「恐怖」をもたらすものだったりする。

それが、はっきりと「物質的現実」と区別できるようなものであれば、単なる「幻覚」として済まされるだろう。が、実際、「物質的現実」と区別し難いもの、つまり、「中間的現象」というものがあるのである。その場合には、当然本人の感覚としても、「現実」として受けとるしかないような、強い「リアリティ」を伴う。それだけに、その修正も困難で、「混乱」も大きいのである。

分裂病の「幻覚」については、このような「中間的現象」もあることを、視野に収めてないと、なぜ分裂病者が、かくも容易に、「幻覚」に惑わされ、それを「現実」として受け取ってしまうのか、本当には、理解できないはずである。(そのため、「幻覚」を「幻覚」として認識できないことこそが、「分裂病」の本質であるというような、トートロジー的発想まで生まれる。)

また、今後、分裂病的状況に陥る可能性ある者にとっても、このような、「物質的現実」そのものと区別し難い「中間的現象」の「幻覚」があることを知っていないと、それを「幻覚」として、「現実」と区別することは、困難になると思う。

このように、「中間的な現象」は、厄介で、理解し難いものだが、私は、一般のレベルにおいても、普通予想される以上に、多く起こっているものとみている。ただ、それが、余りにも「理解」し難く、通常の「認識」の枠組に収まらないために、意識に上ることがないだけである。あるいは、たとえ一瞬意識化されても、即座に記憶から抹消(抑圧)されてしまうのである。だから、「事実上」、そのような現象は、注目されることがないだけである。

さらには、現在、より一般的に、「現実」という概念が、揺らいでいることも確かなので、このような「中間的現象」は、今後、ますます頻発すると思う。(最近では、「宇宙人」がらみの事件に、このような現象が多くみられるようである。)

次回は、まさに、このような「中間的現象」を、見事に「物語」として結晶させている、宮沢賢治の『注文の多い料理店』を再びとりあげたい。

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