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2009年6月

2009年6月14日 (日)

「なまはげ」の「鬼」

注)本文にもあるように、「なまはげの鬼」は「捕食者」を見事に集約的に伝えているので、今後も何度も出てきます。

これまでに、分裂病的状況に関して、何度か「なまはげ」の「鬼」に触れた。この行事には、本当に驚くほど、「捕食者」や「人間」に関する深い「事実」が、集約して伝えられていると思う。

これが、現在も「行事」として残っているのは、表面上は、単に「伝統芸能」の保存という意味合いなのだろう。(別に、現在の子供の「しつけ」に有効とみなされているわけでもなかろう。)しかし、そこには、やはり、何ほどかの「真実」が伝えられているという、無意識の直感が働いている、というのも確かと思われる。

そこで、もう一度、この点につき、いくらかまとめて、とりあげてみたい。

1 まずは、何と言っても、「鬼」が、子供を「脅し」、「威圧」する様相が、非常に「リアル」なことである。

これは、既にみたように、「分裂病的状況」で、「捕食者」が、「声」を通して、人を「脅し」たり、「威圧」するあり様と、驚くほどそっくりである。まるで、それを体験した者が、それを元にして、「鬼」の振る舞いを考え出したかのようである。(威圧的な「声」の調子や、有無を言わせず、突然「怒涛」のように襲いかかってくる感じなど)

しかし、本来は、やはり、行事のとおり、子供を「脅し」たり、「威圧」するというのが、原点なのだと思う。実際に、「捕食者」は、多くの子供を、このようにして、「襲う」ことがあるということである。

よく、子供の頃に、「鬼を見た」という人はいるし、私も、子供の頃から、いろいろ「捕食者」に「怖い目に」に会わされたことを思い出している。

ドンファンも、実は、「捕食者」というのは、誰にも「見えない」という訳ではなく、子供の頃には、一度は「目にした」可能性があるが、あまりに「怖い」ために、記憶から消されてしまったのだ、という。

これは、要するに、「捕食者」は、多くの者に、子供の頃、一度は、自分の「恐ろしさ」を、潜在的にでも、植え付けておく、ということである。それが、後々、人間に「影響」を与えるのに、力を及ぼすからである。

「なまはげ」には、様々な要素が含まれるにしても、まずは、「捕食者」の、「子供」に対するそのような行いが、原点として伝えられているもの、と考えられるのである。

2 次に、子供を「しつける」に当たっての、「親」との「共犯関係」が、見事に伝えられている点である。

「なまはげ」の「鬼」は、「悪い子はいねーか」、「泣く子はいねーか」などと言って、親の言うことを聞かない子を、諌める。「親」は、そのことが分かっていて、むしろ、「鬼」を丁重に迎え入れる。「親」は、「手に負えない」子供を、その「恐ろしさ」でもって、手なずけてくれる存在として、「鬼」を歓迎しているのである。もっと言えば、そこには、はっきりと、「共犯関係」がある。

結局、この「鬼」は、子供に「世間」の「恐ろしさ」を教える役目を果たしている。「世間」(とりあえず、それは、「親の言うことを聞く」ことから始まる)から「はみ出す」と、どのような目にあうか、目に物を見せている訳である。

「捕食者」は、単純に人の「敵」などではなく、「世間」を通して、人を支配し、管理する者である。そこから「はみ出る」ことは、「捕食者」にとっても、許し難いことである。だから、人は、子供の頃から、「世間」に従うよう、手なずけておくことが望ましい。その点は、自分に対して、柔順であることを強いる「親」と、完全に利害が一致している。そこで、「子供」に対しては、一種の「共犯関係」が成立する訳である。

実際に、「子供」は、「親」の背後に「鬼」を見るということも、また多いはずである。

また、「分裂病的状況」でも、やはり、「世間」と「捕食者」は、一種の「共犯関係」にあることが実感される。「分裂病者」は、まさに、「世間」からはみ出さんとする者である。だから、「世間」の側もまた、「捕食者」とともに、互いに「グル」になって、その者を「迫害」しようとするのである。

3 最後に、「世間」からはみ出す者を「食う」という、「捕食者」の本質が、示唆されていること。

「なまはげ」の「鬼」が子供を脅す言葉に、「耳を食ってしまうぞー」というのがある。「耳」という限定は、「かわい」くもあるが、元々あったのか、後から付け加えられたのか、分からない。

いずれにしても、この言葉は、「食う」という自らの本質を、はっきりと表している。これは、「世間」からはみ出す子供は、「食ってしまう」という、「脅し」ないし「警告」である。

「世間」の中で、柔順でいる限り、つまり、自らの支配・管理に服している限り、「捕食者」は特に構わない。「世間」を通して、全体として、「食糧」として吸い上げることができるからである。しかし、そこから、「はみ出す」者は、「個別」に「食ってしまう」という。

そして、そのようにして「食われる」者の実例が、「分裂病者」にほかならない。

そのようなことまでをも、この行事は、見事に含みこんで、伝えている。

このようなものを、単に、近代的な意味で、人が子供の「しつけ」のために、想像的に考えついたものに過ぎない、などと考えることはばかげている。

2009年6月 5日 (金)

人の背後から現れ出ること

「アニマ」に限らず、「精霊」で一番困るのは、何と言っても、「人の背後から現れ出ること」である

これは、「恐ろしい」という意味では、直接的なものではないけれども、最も「混乱」を呼び起こすものといえる。私たちは、普通、その前にいる人間そのものに「注意」の焦点を寄せているので、その周辺から発せられた言葉を、背後からのものなどと認識する余地は、ほとんどない。そこで、その「言葉」を、その人そのものの言葉と混同することが、起こるからである。

もちろん、これには、そのような「声」を、意識してか、あるいは少なくとも、潜在的な部分で、「聞き取る」ことができるということが前提となる。但し、逆に、「背後の存在」そのものには、まだほとんど「注意」がいかないか、「知覚」できていないという状態において、そういうことが問題となるのである。

私も、初めの頃は、「背後の存在」などという意識を持っていた訳ではないので、そのような「声」を、人そのものの言葉と混同したことは多い。さらに、今でも、ふいをつかれれば、一瞬、人そのものの言葉と思ってしまうことはある。(今でも、このように、人の背後から、「捕食者」的な存在がちょっかいをかけてくることは、割とある。)特に、通りがかりの人など、こちらが「知らない」人であれば、その「声」を照らし合わせることもできず、区別することは難しい。

これは、人間にしてみれば、甚だ「迷惑」なことで、「悪意」あるものとしかとりようがない。実際、「捕食者」などは、人間の関係の「混乱」や「喧噪」を意図的に仕掛けて、そうしているように思える。あるいは、まさに、そうすることで、人間が迫害するタイプの「分裂病的」な「妄想」(「誰か又は組織に迫害される」、「秘密が漏れている」など)を、吹き込んでいるようなものである。

しかし、このようなことは、「アニマ」も割と頻繁に行っていたことだし、「精霊」の側からすれば、そうせざるを得ない面があるのも、確かのようである。特に、こちらが、「精霊」そのものに、「注意」を向けるという可能性がほとんどないときには、彼らとしては、我々と、直接コミュニケーションをとる手段がない。彼らが「存在」する可能性など、一縷も顧みることのない人に対しては、なおさらである。

つまり、そういった場合、彼らとしては、直接的な仕方で、人間の「意識」に何らかの痕跡を残すことは難しい。そこで、我々が、通常「注意」を向ける対象である、人間などの背後から現れ出ることによって、何とか、我々の「印象」の圏内に「入り込」み、痕跡を残すしか、手立てがないのである。

当然、我々としては、それを、人間のものと混同する可能性が高まる。が、彼らとしては、そのようなことには、いわば「お構いなし」で、潜在的にでも、何らかの形で、「印象」や「影響」を残せれば、それで「可」とせざるを得ないようなのである。(ただし、「捕食者」の場合は、意図的にそうしている可能性が高いことは既にみたとおり。)

しかし、「精霊」との交流をある程度重ねれば、彼らそのものに対して、特に「注意」を向けるということも可能になる。また、前回もみたように、ある程度、その「性格」や「行動パターン」も分かるようになってくる。そうすると、たとえ人の背後から現れ出ても、視覚的に、あるいは、そうでなくとも、少なくとも直感的に、それとして、認識できるという可能性は、高まることになる。

実際、彼らの言いかけてくること、あるいは、そのあり様は、やはり、「人間的なもの」とは明らかに異質である部分を、隠せない。たとえ、人間に「なりすます」かのような、「捕食者」的な精霊にしても、決して、人間のことが本当に「分かっている」訳ではないし、人間として振る舞うことに、そう長けている訳でもない。その奇妙で、(人間としては)不自然な部分、どこかしら、「異質」で「異様」な部分は、現れ出てしまうのである。

だから、彼らについて、いかほどかでも、知っていたり、経験をある程度重ねれば、そうそう、人間のものと混同することもないはずなのである

逆に言えば、そのような言葉を、人間のものと混同すると、その「人間的なもの」とは異質の部分によってこそ、「混乱」することになる。それは、本来、その前にする人間が、言うはずもないことだったり、そのように、「力」を帯びるはずもないことだからである。冷静に考えれば、それは「分かる」はずだが、その言葉のあまりの「リアル」さや、むしろ、人間以外のものの関与する可能性など、認めたくもないために、それを人間的なものの範囲で、なんとか解釈しようとすることが起こってしまう。

そのような場合、そこには、「組織」や「CIA」など、はた目にも明らかに飛躍した、「権力」の象徴のようなものを、持ち出さざるを得なくなる。その「非人間的」なものと「人間的」なものとのギャップを、無理やり、埋め合わせようとするからである。

だから、「分裂病的」な状況、あるいは「捕食者的な精霊」にちょっかいをかけられたときに、そのような方向に行かないようにするには、やはり、何かしら「人間でない」ものを認めるということが、最低限、必要になる。「人間的なもの」の範囲で、すべてを解決しようとする試みは、むしろ混乱を拡大するだけなのである。

このように、彼らが「人間の背後から現れ出る」ことによって混乱するのは、我々の側にも問題がある、ということである。

いずれにしても、彼らの立ち現れ方というのも、我々の彼らに対する「認識」の仕方によって、随分異なってくるということが言える。

私の場合も、彼らは、初めは、既にみたように、執拗なほど、繰り返し、繰り返し、人の背後から、現れ出て来た。私も、初めはそれが分からないから、人そのものの言葉と混同することになる。あるいは、人そのものの言葉としても、信じ難いので、自分は「頭がおかしくなった」という思いに囚われる。

そんなことが、ある程度重なると、どうも、それらの言葉は、「表」の「人間」そのものから発せられているのではなく、その人間の「内心」か、あるいは、何か違うものから、発せられているらしい、ということが「分かる」ようになってくる。その「正体」については、依然として不明だが、少なくとも、表の「人間」そのものの言葉ではない、ということは、必ず「分かっ」てくるはずなのである。

そして、さらに観察が深まると、初めはぼんやりとではあるが、どうも、背後から「何者か」が、現れ出ているらしい、といった感覚が生じるようになる。そして、さらにその「感覚」は、よりはっきりとしたものになっていく。ここまで来れば、その「声」の正体は、その人間の「内心」ですらなく、何かしら、別の「存在」が現れ出ているらしいといことが、かなりはっきりとしてくるのである。

そして、まさに、そのような認識が生じた折りに、彼らは、直接、私の身の回りに、現れ出るようになったのである。誰か、ほかの人間の背後というのではなく、直接、私の身の回りに、知覚できたり、あるいは直感的に感じ取ることができるような仕方で現れる、ということである。それは、私自身が、既にある程度、「彼ら」を「彼ら」として、「知覚」できるようになり、それとして、「注意」を向けることも、できるようになったということと併行している。

そうして、ここに至ると、もはや、有無を言わせないような形で、人間とは別の、ある「存在」が、現れ出ていること自体は、疑いようがないものとなる。

身の回りに現れ出たのは、「アニマ」、「捕食者」的な「精霊」、その他の「精霊」様々だが、一つ、彼らとしては、そこで、はっきりと、直接私に現れ出る(影響を与え得る)「通路」のようなものを、確保できたということになるのだろう。もはや、あえて、人の背後から現れ出る必要は、なくなったということである。

しかし、「捕食者」的な「精霊」については、その後も、決して、人の背後から現れ出ることを止めはしなかった。むしろ、その攻撃は、より過激度を増してきた。私は、ほとんどの場合、それを「捕食者」によるものと認識できるようになってはいた(と言っても、当時としては、依然として「未知」の存在であり、従って、それによって「怖がらせる」効果というのは、相変わらず、高いものであったのも確かだが)が、そんなことにはお構いなく、相変わらず、人間の背後からの攻撃の手を緩めることはなかったのである。そして、既に触れたとおり、今でも、それに類することをしてくるのは、同じなのである。

だから、「精霊」一般はともかく、「捕食者」的な「精霊」については、明らかに、意図的な「効果」を狙って、人の背後から「現れ出ている」ということがいえる。そして、特に「妄想」系の「分裂病者」というのは、あまりにも容易に、彼らの「術中」にはまり過ぎている、と言わざるを得ない。「人と人の間」に喧噪をもたらすという、彼らの意図どおりに、いいように、振り回されているのである。

私は、これまで、一般的な「精霊」よりも、「捕食者」的な「精霊」について特に述べることをして来た。それは、そのような「精霊」こそが、言わば「盲点」のようなもので、我々の最も身近にあって「力」を及ぼすものでありながら、ほとんど何も知られていないものだからである

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