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2009年4月28日 (火)

「精霊」の「破壊性」とは

「精霊」は、「世界観」や「自己」の「死」をもたらすだけの「破壊性」を有すると言った。その理由は、端的に言えば、次の二つに絞られると思う。

1 それ自体「力」に満ちた存在である。
2 人間の観念的な「枠組」、特に「善悪」の観念によっては捉え切れない。


これは、実際に、接触したときの率直な感想に即して、一言で言えば、「圧倒させる力をもった、<訳の分からない>存在」とでもなるだろう。

1の「力」の面は、これまでにも何度かみたきたが、実際の具体的な感覚として、いくつか例をあげてみる。

a(圧倒されるような)「威圧感」―「声」などを通して、直接それが感じられることもあるし、ただ、側にその存在を感じるだけで、それが滲み出ることもある。今も行われる行事で、この感じをよく伝えているものがある。それは、「まなはげ」の「鬼」である。

b(身体、心ともの)「侵食感」―身体または心の内部に侵入してくる感じである。身体的または心理的に、内部と外部の「境界」が侵される感じともいえる。実際、それに伴って、内部と外部の境界は全体として曖昧になり、「世界」そのものが、安定性を失うことにもなる。シャーマンの「イニシエーション」では、更にこのようなことが、極まった形で体験される。たとえば、身体が「バラバラ」に解体されるという体験をする。

c(心の底から)「見透す感じ」―bの「侵食感」とも重なるが、「声」の内容からしても、「振る舞い」からしても、心の底から、見通されているという感じがする。それは、特に「知られたくない」部分に関わるので、心の「秘部」を暴かれる、という感じになる。

e、(身体、心ともの)「被操作感(被支配感)」―これも、上にあげた他の様々の感覚と併行してこそ、起こるものといえるが、それまでにはあったはずの、「主体性」を剥奪され、操作(支配)されるという感じになる。

その他に、顕著なものとして、
f「幻覚的現象」の「創出力」。さらには、物理的、またはそれに近い次元での、(理解困難な)「現象創出力」。

それらも、我々の「知覚」そのものに、いわば「入り込む」ということで、我々の内部への、「侵食感」を強める。とともに、「知覚」を通して、外的な「世界」そのものが、「侵される」という感覚をも生み出す。つまり、単に「主観的」なものを超えて、「客観的」な「世界」そのものを巻き込んでいる、という強烈な実感を与えるのである。

さらに、次の2とも重なるが、接触を重ねるうちに、必ず感じられるはずの、
g「非人間性(人間的な感情、倫理が欠如した感じ)」。

これは、「未知」の感覚を強めるとともに、上にみたような「力」というものに、人間的な抑制がないこと、いわば、「力」そのものが、剥き出しに現れるといった感じを与える。

これらは、全体としてみると、要するに、「自己」という、それまで「外界」からは一応とも区別され、ある種の「殻」をもって保護されていたはずの領域に、「未知」の何者か(「精霊」)が侵入してくるということ。そして、そこを無遠慮に、「かき乱す」といったことである。それによって、「自己」という、それまで一応とも安定していた基盤は、大きく揺さぶられ、崩されるのである。

さらに、それは、そのような「自己」と互いに依存し合ってこそ存在し、安定していた、「世界」そのものをも、大きく揺さぶり、崩すことになるのである。

そして、そのようなことは、次の2の面によって、さらに加速される。

2の「精霊」が「観念的な<枠組>によっては捉え切れない」というのも、既に何度かみてきたとおりである。

それは、要するに、それを「何者か」として、それまでの既成の観念の「枠組」に収めとろうとしても、必ず、そこからはみ出る部分があるということである。それは、容易に、ある性質のものとして、「限定」または「規定」することができない。そういった、「多様さ」、「混沌としたもの」、「一貫性のなさ」などを示す。それは、当然ながら、「未知」のものなのだが、しかし、それは、「知る」ということによって、決して「既知」とはなり切らず、「未知」であり続けるところがあるのである。

それは、要するに、それまでの「世界観」の「枠組」には、収まらないことが明白である。だからこそ、それまでの「世界観」を、根底から脅かすのである。しかし、それと同時に、結局は、どんな「世界観」によっても、捉え切ることができない、ということをも示している。それは、「世界観」というものによって成り立っている、「世界」の根底そのものを、揺るがす面があるのである。

人間にとって、実際上、特に、そのような「捉え切れなさ」は、「善悪」の観念について現れる。我々は、実際、何らかの「未知」の存在と接触した場合に、まず、「敵か味方か」あるいは「善か悪か」という、2分法的な「発想」をする。それこそが、「自己」にとっての、最も大きな「利害」的関心だからである。

ところが、「精霊」というのは、このような2分法的な「分類」をしようとしても、決して、それに「落ち着く」ということがないのである。

あるいは、上に揚げたような「力」の面だけを表面的に捉えれば、それは「敵」であり、「悪」とみなすことに、躊躇する理由はないようでもある。実際、「分裂病的状況」での「接触」は、多くの場合、そのようにみなされ、だからこそ、それは「迫害」じみた内容となり、時に「悪魔」が登場したりする。確かに、そのように、「自己」を脅かす「敵」であり、「悪」とみなされるからこそ、「恐怖」が拡大するという面はある。

しかし、その場合でも、それは、決して、我々の「敵」とか「悪」とかの観念そのものに、適合するほど、「分かりやすい」ものではない。分裂病者の「妄想」が、一貫性がなく、矛盾と混乱に満ちているのも、実際には、それがそのような「枠組」には、とても収まり切らないからこそである。

むしろ、もし本当に、「敵」そのもの、「悪」そのものと容易に規定できるのであれば、そこには、ある種の「開き直り」や、「対処」の可能性もみえてくる。混乱や恐怖の程度も和らぎ、一過性のもので、済むはずなのである。

それは、たとえ「悪」とか「敵」という、好ましくない「観念」であっても、そのような「規定」ができるということ自体によって、生み出される効果である。「自己」が脅かされる状況であっても、というより、むしろそうである程、そのような「観念」づけができることこそが、ある種の「落ち着き」をもたらすのである。

典型的な「妄想」というのは、まさに、そのように、それをできるだけ、既成の「世界観」の枠組に収め込んで、「観念」づけようという、一種の「悪あがき」である。が、しかし、そこには、結局、それが本来的にもつ「訳の分からなさ」というものが、随所に顔を出して、隠せないものとなってしまう。そこに現れる混乱や矛盾は、自ら、そのような「観念」づけの、不可能なことを、告白しているようなものである。もはや、心の底では、どこかで、そのような「観念づけ」をはみ出す要素が、痛いほど、感知されているのである。

そして、まさに、そうしようとしても、決してうまくいかない、「精霊」の「混沌」そのもののような「捉え難さ」、「訳の分からなさ」こそが、本当の意味で、「恐怖」と「混乱」を生み出し、長引かせている、というべきなのである。

以上は、特に「破壊性」の強いと思われる、「捕食者」的な「精霊」を念頭においてみて来た。が、「精霊」一般について、もう少し少具体的にみてみよう。

「精霊」には、表面上、「力」というよりも、「愛嬌」とか、「和ませる」、「ユーモラス」などの性質をみせるものも多い。それらは、むしろ「敵」や「悪」などとはみなし難く、心を許せる「味方」のように思える。あるいは、「捕食者」的なものにしても、必ずしも、分かりやすく、「敵意」剥き出しに攻撃してくる訳ではなく、こちらの「欲望」にうまく引っかけるような形で、「誘惑」したり、それを「増長」させるものもいる。それらもまた、「自己」にとっては都合の良い、「味方」のようにみなされるだろう。

ところが、そういった「精霊」もまた、決して、一貫した「分かりやすい」存在ではない。必ずどこかで、そのような見方を裏切る、信じ難い面を見せることになる。つまり、それらも、どこかで、多かれ少なかれ、上に見たような、「力」の面や、「攻撃性」、「混沌」とした面を露わにして、「混乱」させることとなるのである。

結局、「精霊」一般についても、「味方または善」、「敵または悪」という2分法的発想は、とこかで通用しなくなる。結局は、そのような、2分法的「発想」そのものが、脅かされるのである。

実際、「精霊」とは、本来的に、そのような両義的な面を持つ、理解しがたい存在としか言いようがないのでもあろう。あるいは、我々が、そのどちらかの側面を、無理に押し付けようとするので、それが常に「裏切られる」ことになるのだ、という見方もできるかもしれない。が、どちらにしても、それは、結局、我々の2分法的発想に「収まり切らない」のである。

その点は、伝統的な文化においても、ある程度伝えられていたことである。たとえば、日本の文化においても、「精霊」あるいは「妖怪」や「神々」というのは、種々の「不思議な力」をもつ存在であると同時に、容易に、「善や悪」と規定できる存在ではなく、多様で、両義的、あるいは「シュール」な存在であったはずである。「カッパ」などは、その典型で、人や馬を水辺に引き込むなどの悪さをするかと思えば、人に簡単に捕まって、「詫び状」を入れたりの、「情けない」行動を取ったりする。不気味で、「恐ろしい」と同時に、憎めない、「ユーモラス」な存在である。

西洋でも、「妖精」というのは、人間に、様々な「いたずら」をするかと思えば、助けになったりもする、両義的な存在である。

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