「意識」と「無意識」のギャップ
前に、分裂病的状況で、「幻覚(幻聴)」に振り回される理由として、
1「幻覚」のイメージについての一般的誤解、2「幻覚」のリアルさ、3「幻覚」の強烈な「意味」や「力」を挙げた。
しかし、さらに重要な理由を、もう一つあげておかねばならない。それは、
4「幻覚」は、特に初期には、「意識」と「無意識」の境界領域で起こる、ということである。「境界領域」とは、はっきりとした「意識」でもなく、全くの「無意識」でもない、その中間的な領域ということである。
前回述べたように、「幻覚」が全くの「無意識」領域で起こっている限り、その者に、本当には、影響を及ぼすことにはならない。分裂病的状況にある者は、少なくとも、本来「無意識」領域で起こる「幻覚」を、何らかの形で「意識」にのぼらせている。それで、「意識」を「巻き込む」ということが起こり、それに「振り回される」ということも起こっているのである。
しかし一方、当初、その者は、その「幻覚」を細部まで明確に「意識」しているのではなく、漠然とした形で、曖昧に「意識」しているのである。あるいは、全く「幻覚」的な知覚があること自体は意識されないが、ただ、それがもたらす影響は、強く意識されるということも起こり得る。それは、たとえば、「何が起こったのか分からないが、何かこれまでの経験に照らして、異様で決定的なことが起こったのは間違いない」といった形で現れる。そして、そのような「出来事」の解釈として、典型的な「妄想」が起こってしまうこともある。つまり、「幻覚」そのものは意識されないでも、その強い影響につき動かされて、「妄想」を生じてしまうことは起こり得る。
これらは、要するに、「幻覚」が、「意識」と「無意識」の境界領域で起こっているということである。全く「意識」されないのではないが、かといって、その細部まで明確な形で意識するのでもないという、「中間的」な状態におかれているのである。そして、このように、「意識」はされるが、対象がはっきりしない、「曖昧」な状態こそ、最も、それに「囚われ」、「翻弄され」易いということがいえる。「妄想」への衝動が強く起こるのも、そのような「曖昧」で「中ぶらりん」の状態を、解消したいからこそである。
「無意識」と「意識」の境界領域で起こることが、強い影響を与える例として、「後催眠暗示」を挙げることができる。これは、催眠中に、術者がある動作をすると、ある行為をするというような暗示を与えておくもので、その者を催眠から覚まさせた後、実際に術者がその動作をすると、その者は暗示のとおりの行為をしてしまうというものである(例えば、「術者が机をたたくと、窓を開ける」など)。本人に、どうしてそうしたか理由を聞くと、「暑かったから」などと言い訳をするが、実際は、理由を意識できず、無意識の衝動に駆られて、行ってしまうのである。
催眠暗示というのは、全くの「無意識」ではないが、完全な「意識」でもない、中間的な状態に与えられる訳で、そのような状態こそ、最も操作的な影響を被り易いのだと言える。それは、「意識」に近いところにあって、確実に「意識」を捉えて行為を促しはするが、しかし、はっきりとした「意識」による「制御」は、働きにくいからである。分裂病的状況で起こることもそれに似ていて、実際、ほとんど「催眠状態」を呈している場合も多いはずである。そして、そのような状態で起こる「声」などの「幻覚」は、まさに、一種の「暗示」といえるのである。
また、このように、「幻覚」が意識と無意識の境界領域で起こるということは、「幻覚」の方からみれば、「幻覚」というものは、これまでなかったものが、突然「生じる」というような、「有る」か「無い」かのものではない、ということである。それは、既に以前から「無意識」領域では生じていたものが、徐々に「意識化」されるのに応じて、「意識」にのぼるようになったということである。そして、さらに「意識化」が進めば、それが細部までより「明確化」されてくるということである。
要するに、「幻覚」というものは、ダイナミックな「発展」をするということであり、それは、「意識化」の度合いとしてみることができる。そして、その過程には、それを超えると、何らかの形で「意識」を捉えるようになるという、一種の「閾値」のようなものがあり、それを超えることが、即ち、「分裂病的状況へ入る」ということの、一つの大きな条件となっているのである。
もともと、分裂気質の者は、「意識」と「無意識」の境界が「薄く」、「無意識」領域で起こっていることを、意識にのぼらせ易い性質があると言える。しかし、それにしても、それが「意識化」されるというのは、一筋縄なことではなく、かなりの「醸成」期間が必要であったはずである。たとえば、無意識領域では、「幻覚」(による攻撃)を受けることが、ずっと繰り返されていて、もはや「意識化」される一歩手前まで来ていた、などのことである。
そして、たとえ、それが「意識」にのぼるところまで行って、「分裂病的状況」に入ったとしても、それが、細部まで明確に「意識化」されるというのは、さらに、強度の「意識化」を必要とする。それは、通常、「分裂病的状況」そのものを、かなり「くぐり抜け」ていった先に、かろうじて可能になるものと解されるのである。
それは、本来、「意識」と「無意識」の「ギャップ」というものは、それだけ「深い」ものであるということである。通常は、そのような「ギャップ」のために、「幻覚」が無意識を超えて、意識にのぼるということは起こらないのである。そのような「ギャップ」こそが、ある意味、「無意識」領域からの影響を、「防御」または「遮断」しているともいえる。「意識」は「無意識」領域からの情報が間断なく入り込めば、とても機能して行けなくなる。
しかし、一旦それが「意識化」されるに及んだ場合には、むしろ、それが「曖昧」な形ではなく、「明確」に「意識化」されることこそが、その影響を軽減することにつながる、というべきである。言い換えれば、「幻覚」のダイナミックな「発展」を、押し進めるということである。前に、「分裂病的状況は、自然な展開により治癒をみるしかない」ということを述べた。が、その「自然な展開」とは、ここでいう、「幻覚」の「発展」ということであり、また「幻覚」の「意識化」ということでもある。
たとえ、その「実体」が、本当に「恐るべき」ものであるとしても、それが「曖昧」な形であり、明確には意識できないということこそが、想像力の助けも借りて、より「恐怖」と「混乱」を拡大させているのである。
むしろ、はっきりとした「意識化」により、事態が「明確」になることは、余計な「想像」や「恐怖」を取り除き、また、一種の「開き直り」を生み、「事実」と正面から直面するほかなくさせる。さらに、催眠のところでみたように、曖昧な意識状態ではなく、明確な「意識」によってこそ、それに対する「制御」や、「対処」の可能性も生まれてくるのである。
「曖昧」であることこそが、「恐怖」を膨らませるというのは、身近なところでは、「ホラー映画」にもみることができる。映画では、「恐怖」の「対象」は、初め、思わせ振りに、漠然と映し出される。が、そうであるほど、「恐怖」を膨らませる効果は高まるのである。そして、終盤に差しかかるころには、その対象も「明確」に映し出される。しかし、そこに至れば、もはやその姿は、(いくら「異様なものであっても)むしろ、「ちゃっちい」との印象を受けるはずである。「事実」ではなく、「想像力」こそが、「恐怖」を拡大させていたのである。そして、そこに至れば、もはやその「事件」も、解決間近ということにもなる。
実際、「分裂病的状況」の進展というのも、基本的には、このような「ホラー映画」の作りとあまり変わらない。ただ、初めから、「進展」ないし「解決」が約束されている映画と違って、それを「意識化」または「明確化」して、事態を「進展」させることには、かなりの努力を伴うというだけである。それは、元々強固にある、「意識と無意識のギャップ」を乗り越えようとする努力だけに、大変なのである。
むしろ、分裂病的状況での「混乱」や「苦悩」とは、このような「意識と無意識のギャップ」を乗り越えようとすることの難しさの現れ、そのものとも言える。その「ギャップ」は、いくらかは埋められて、意識を捉えるようにはなったが、それ以上には、どうあがいても、なかなか越えられない(明確にならない)ということこそが、本当の苦痛なのである。
そして、「妄想」というのは、そのような「ギッャプ」を、とにかく、手っ取り早い方法で、埋めてしまおうとするものだと言える。「妄想」を信じることによって、事態が「明らかになった」ものと自分を丸め込み、その殻に閉じこもることができるからである。しかし、それは、事態の「進展」、つまり「意識化」または「明確化」という意味では、単にそれを阻害することにしかならない。言わば、「峠」を越えるのではなく、裾野を迂回するようなもので、いくらそこを回っても、「山」を越えられない。それは、「自然な展開」という意味では、入り口のところで、別の方向に「ズレ」てしまったようなものである。
しかし、逆に、この「妄想」による抵抗ないし阻害があまりなければ、基本的には、「自然な展開」または「意識化」というのは、十分望み得るものということなのである。
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