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2008年12月12日 (金)

日本で「魔女狩り」に相当する事件

前に、西洋の近世に起こった、「魔女狩り」に触れた。「魔女」として告発された者が、自白を強要されて、火あぶりにかけられた事件である。初めのうちは、「共同体」の側からみて、異質な「外れ者」が、「魔女」として告発された。が、やがて、それは共同体の内部にも広がって行って、収拾がつかなくなったことを述べた。精神科医中井久夫も指摘するように、この「魔女」には、分裂病者も含まれていたと思われる。このような事件は、分裂病者の「被迫害意識」にも影響していると思われるので、重要である。

私は、日本では、「魔女狩り」そのものに相当する事件はなく、似たものとして、「犬神憑き」などの「憑き筋」としての差別があったぐらいだと思っていた。しかし、この度、日本にも、ほぼ「魔女狩り」そのものに相当するといえる事件があることを知った。

それは、明治期に、「えた」や「ひにん」と呼ばれた者の差別を撤廃する布令が出されたときに、民衆がそれに反対して、多くの「えた」や「非人」の家に入り込んで、残虐に殺害したという出来事である。(斎藤洋一+大石慎三郎著『身分差別社会の真実』講談社現代新書参照)

規模としては、「魔女狩り」とは比べ物にならないし、地域的にも、関西以西方面に限られるようである。しかし、記録に残らない形では、似たようなことが、もっと広くかつ多くあったと思われる。

そもそも「えた」や「ひにん」と呼ばれた者たちは、中世では、「清目」(「穢れを清め、祓う」などの意味)などと呼ばれ、聖なるものと関わる特別な力のある者とみなされた。既に、中世でも、それらの者に対する「差別」意識はあったが、同時に、畏れ、敬われる対象でもあった。それが、江戸時代には、ほぼ一方的に、差別の対象として固定されて、身分制度としても固定された。

明治期に、そのような制度としての差別を撤廃する布令が出された訳だが、民衆または平民にとっては、紛いなりにも、自分らの下に位置するものを失う訳で、それに反対するというのは一応頷ける。また、それらの下層階級の者は、一方では支配階級から特権を受けていたり、民衆の反乱を抑える警備役のようなものも任されていたようで、それなりの「恨み」をかっていたのも確かだろう。

しかし、それだけでは、執拗なまでの、残虐な殺害の説明はできない。そこには、やはり、彼らに対する特別の「恐れ」があったというべきである。つまり、中世から引き継いだ、特別な力を有する者としての彼らに対する「怖れ」である。「特別な力」とは、また、「穢れ」や「不幸」、「呪い」をもたらす力でもある。それまでは、平民は、一応彼らとは、身分的にも住処としても隔てられていた訳だが、そのような制度を撤廃するとは、共同体の内部に、そのような「特別の力」をもった者が、それと知れず、生活を共にするということを意味する。そのようなことは、本気で、受け入れ難かったものと思われる。

このように、「不幸」や「呪い」をもたらす「力」をもつ者として「恐れる」ことは、「魔女狩り」における「魔女」に対するのと全く同じである。つまり、動機としては、ほとんど「魔女狩り」の場合と同じなのである。規模は小さいが、教会や異端審問所などを介さないで、直接民衆が手を下したという点では、より壮絶ともいえる。

これら日本の下層民と、「魔女」とは、イメージ的にはなかなか重ならないかもしれない。が、たとえば、被差別民としてとりあげられている「芸能者」などは、ほとんど「シャーマン」の成れの果てというべきもので、かつては一端の宗教者だったのが、宗教が制度化されたために落ちぶれて、芸能の場でしか表現できなくなった者たちである。つまり、もともと「不思議な力」を操る者であるが、それがイメージ的に「悪」と結びつけられて、嫌悪されるようになったという意味では、「魔女」と同じなのである。

中井久夫は、歴史的な文化特性と精神的な気質との間には関係があり、「農耕民的特性」を、「メランコリー親和型」(執着気質)、「狩猟民的特性」を「分裂気質」としている。「農耕民的特性」は、土地に定着した人々の間での調整を重視する特質で、集団性や規律、秩序を重んじる。「狩猟民的特性」は、集団性よりも、個人の感覚や能力を重視する特質で、ものごとを「先取り的」に捉えることを特徴とする。

これを、先の事件に当てはめれば、ほぼ「平民」が「農耕民的特性」に、殺害された下層民が「狩猟民的特性」にあてはまるといえる。つまり、(農耕民的な)「集団性」と背反し易い分裂気質の者は、歴史的に言っても、集団から「迫害」され易い特質が、実際にあるということができる。

分裂病で「迫害妄想」というものがあるが、やはり、その元には、そのような歴史的な事実の反映はあると思われる。つまり、分裂病的状況にある者は、たとえ表に現れなくても、潜在的な傾向としては、実際に、迫害的な意識を、多くの者の内心に、まさに「先取り」的に「感受」しているところがあるのである。実際、多くの者の内心の「声」は、そのような「暴力性」を十分にじませた振る舞いをする。分裂病的状況にある者は、そのような先取り的な「構え」によって、逆に、そのようなものを「誘発」しているところもあるのだが、実際に、それを「聞い」てしまうために、「影響」を受けしまうということである。

ただし、そのようなことは、あくまで、さまざまの見えない「力」の蠢く、「無意識」の領域での話である。それが一旦、現実の、特定の者による迫害とか、CIAその他の組織による迫害などと表現されると、それは、明らかな「誤り」である「妄想」にしかならない。(歴史的には、真実の一面ではあっても)

だから、分裂気質の者も、多くの者には、潜在的には、分裂気質の者に対する「迫害意識」というものがあり得ること、そして、現実に、そのような内心の現れを、自ら直接「知覚」する可能性もあるということを、覚悟しておかなくてはならない。そうして、実際にそのようなものに触れたときにも、それは、「内部的」、「潜在的」なものであって、現実の具体的レベルに現れたものではないことを、十分把握する必要がある。

さらに言えば、そこには、これまで見て来たように、「捕食者」の「人と人の間」の葛藤や争いを拡大しようとする、戦略的意図も働いているのである。

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