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2008年12月

2008年12月22日 (月)

分裂病的「攻撃性」の「誘発」とは

前回、分裂病的状況にある者は、他者の内心の「攻撃性」を「誘発」するということを述べた。この点は、これまであまり述べていないので、もう少し詳しくみてみたい。

この点については、エックハルト・トールのいう「ペインボディ」を通してみると、理解し易いと思う。「ペインボディ」とは、内心(無意識の領域)に潜んでいる、文字通り「痛み」(感情的トラウマ)を糧にして育つ、一種の見えない「体」である。トールは、「悟り」について、(「心」や「エゴ」と言うときには、どうしても抽象的なイメージを伴うが)この、より具体的でとっかかりのあるものを通して、話を展開しているのである。(新刊の『ニューアース』(サンマーク出版)に特に詳しい)

これは、基本的には、これまでみてきた、(「捕食者」によって与えられた)「外来の心」と同じものとみてよい。ただ、そのような「心」の、「感情」的または「エネルギー」的な側面に注目しているのである。それは、それ自体が、一つの「生き物」のように、「実体的」なあり方をする点が特色である。その意味では、ミゲル・ルイスのいう「パラサイト(寄生体)」に近い。

ただし、通常、多くの者に、このようなものが気づかれている訳では、もちろんない。

トールは、「ペインボディ」は、普段は眠っていて、ある状況で目覚めて、攻撃的または否定的な振る舞いをする、と言っている。端的に言えば、分裂病的状況にある者は、そのように、他者の眠っている「ペインボディ」を目覚めさせ易い、ということである。

これには、いくつかの理由が考えられる。

一つには、分裂病的状況にある者は、現に、他者の内心の「ペインボディ」の「声」を「直接」聞ける状態にある、ということである。「ペインボディ」にとっては、普段そもそも自分の存在に気づいてくれる者もなく、その「痛み」の「声」に耳を傾けてくれる者などいない。「本人」ですら、ほとんどそうである。だから、普段眠っていて、特に活動状態にはない。だが、そこへ、その「声」を聞ける者が近づけば、「ペインボディ」は、それを目ざとく嗅ぎ付けて目覚め、ここぞとばかりに「痛み」の「声」を浴びせかけることになる。

もう一つは、分裂病的状況にある者は、「ペインボディ」にとって、ほとんど「無防備」の状態にあって、いわば、格好の「餌食」なのである。「ぺインボディ」は、自己の「痛み」を回りに拡散し、いわば「同じ穴のムジナ」とすることで、増殖を図る。また、自己や他者の「痛み」を「栄養源」とすることで、さらに成長していく。そのような「餌食」として、分裂病的状況にある者ほど、ふさわしい者はない、ということである。この辺りは、まさに、「捕食者」の本質そのままである。

「無防備」というのは、通常は、「ペインボディ」そのものが、他者の「ペインボディ」に対する「防御」や「対処法」も、無意識のうちに受け持っているところがある。ところが、分裂気質の者は、そもそも「ペインボディ」が「薄い」か、より深く眠っていて、表面に現れにくいのである。このような者は、「ペインボディ」からすれば、何としても、自己を拡散せずにはおかないという意味で、強烈な刺激を呼び起こす。そのような者には、自らの「痛み」を分け与えることによって、さらに「痛み」を増殖させ、あるいは、その者の眠っている「ペインボティ」を揺り動かして、何としても目覚めさせよう(自己と同じものにしよう)とせずにはおかないのである。

さらには、これは、分裂病的状況にある者が、まさに、そのようにして他者の「ペインボディ」に晒されやすいことから、その「ペインボディ」を、ますます「意識」することで、一種の悪循環に陥っているのでもある。分裂病的状況にある者は、そのような経験が重なるにつれて、ますます他者の「ペインボディ」を、「意識」し、「恐れ」、過敏になり、攻撃を受けるのではないかと、受動的に「構え」る。いわば、「意識」が、「ペインボディ」に「呪縛」されたように、「釘付け」の状態となる。そのような状態は、「ペインボディ」の「攻撃性」をますます助長するのである。もはや、そのような受動的な「構え」そのものが、「ペインボディ」の攻撃性を「呼び込ん」でいるのも同然の状態となる。

分裂病的状況にある者は、他者の「ペインボディ」について、それまで余りにも「無知」で、「無頓着」だったということも言える。その状況に至って、始めて、その本当の「恐ろしさ」を思い知って、まるで、初めて出会ったかのように「呪縛」されたのである。それは、自分自身は、そのようなものが「薄い」か、深く「眠っている」ためでもあり、致し方がない面もある。

しかし、多くの者にとっては、(それとして意識する訳ではないが)「ペインボディ」などは、ある意味「なじみ」のものなのである。既にみたように、その「ペインボティ」そのものが、他者の「ペインボディ」に対する「防御」役のようなことも果たしている。いわば、多くの者は、無意識に、それそのものを「生きている」のである。ところが、分裂気質の者は、なかなかそれと同じようには、いかない訳である。さらに、分裂病的状況では、もはやそこに、「意識」するという要素が入り込むために、(たとえ無意識レベルでは可能であり得ても)ますますそれが難しいことになる。

しかし、そのような者が、結果として、分裂病的状況を通して、「ペインボディ」について正面から知ることになったというのは、大きな意味を持つ。むしろ、自らは、あまりそれに「染まら」なかったからこそ、他者を通して、それを正面から知るチャンスに恵まれたのである。トールも、まず何よりも、「ペインボディ」の存在に気づくことこそが重要と言っている。それは、もちろん自己の「ペインボディ」についてだが、他者の「ペインボディ」を知ることは、当然、自己の「ペインボディ」を知ることにもつながってくる。

たとえば、自分の中の「ペインボディ」もまた、場合によっては、他者に対して、同じように、攻撃的に振る舞っている可能性があるのである。また、そのように、自分の「ペインボディ」を知り、慣れ親しむことは、他者の「ペインボディ」をむやみに恐れることからも、解放させてくれるはずである。

さらに言えば、自己の「ペインボディ」とは、私がこれまで述べてきた「境域の守護霊」とも通じてくる。これも、分裂病的状況で、実際に「出会われる」可能性のあるものである。(モーパッサンの『オルラ』は、その衝撃的な出会いを描いたものである)これは、「ペインボディ」としての面をはらみつつも、より包括的で、大きな存在である。いわば、「全体としての自己」だが、未だそれとして明確に「顕在化」している訳ではなく、その「変容」しつつある姿として、「境域の守護霊」があると言える。私の体験のところでは、「背後の存在」として出て来る。

私は、結局、このような「ことの全体」を、ある意味「仕組んだ」のは、まさにこの「境域の守護霊」だったと思っている。その意味では、「本質的」に、「自己」こそがペインボディの攻撃を誘発したことになるが、この点については、またの機会に述べよう。

2008年12月12日 (金)

日本で「魔女狩り」に相当する事件

前に、西洋の近世に起こった、「魔女狩り」に触れた。「魔女」として告発された者が、自白を強要されて、火あぶりにかけられた事件である。初めのうちは、「共同体」の側からみて、異質な「外れ者」が、「魔女」として告発された。が、やがて、それは共同体の内部にも広がって行って、収拾がつかなくなったことを述べた。精神科医中井久夫も指摘するように、この「魔女」には、分裂病者も含まれていたと思われる。このような事件は、分裂病者の「被迫害意識」にも影響していると思われるので、重要である。

私は、日本では、「魔女狩り」そのものに相当する事件はなく、似たものとして、「犬神憑き」などの「憑き筋」としての差別があったぐらいだと思っていた。しかし、この度、日本にも、ほぼ「魔女狩り」そのものに相当するといえる事件があることを知った。

それは、明治期に、「えた」や「ひにん」と呼ばれた者の差別を撤廃する布令が出されたときに、民衆がそれに反対して、多くの「えた」や「非人」の家に入り込んで、残虐に殺害したという出来事である。(斎藤洋一+大石慎三郎著『身分差別社会の真実』講談社現代新書参照)

規模としては、「魔女狩り」とは比べ物にならないし、地域的にも、関西以西方面に限られるようである。しかし、記録に残らない形では、似たようなことが、もっと広くかつ多くあったと思われる。

そもそも「えた」や「ひにん」と呼ばれた者たちは、中世では、「清目」(「穢れを清め、祓う」などの意味)などと呼ばれ、聖なるものと関わる特別な力のある者とみなされた。既に、中世でも、それらの者に対する「差別」意識はあったが、同時に、畏れ、敬われる対象でもあった。それが、江戸時代には、ほぼ一方的に、差別の対象として固定されて、身分制度としても固定された。

明治期に、そのような制度としての差別を撤廃する布令が出された訳だが、民衆または平民にとっては、紛いなりにも、自分らの下に位置するものを失う訳で、それに反対するというのは一応頷ける。また、それらの下層階級の者は、一方では支配階級から特権を受けていたり、民衆の反乱を抑える警備役のようなものも任されていたようで、それなりの「恨み」をかっていたのも確かだろう。

しかし、それだけでは、執拗なまでの、残虐な殺害の説明はできない。そこには、やはり、彼らに対する特別の「恐れ」があったというべきである。つまり、中世から引き継いだ、特別な力を有する者としての彼らに対する「怖れ」である。「特別な力」とは、また、「穢れ」や「不幸」、「呪い」をもたらす力でもある。それまでは、平民は、一応彼らとは、身分的にも住処としても隔てられていた訳だが、そのような制度を撤廃するとは、共同体の内部に、そのような「特別の力」をもった者が、それと知れず、生活を共にするということを意味する。そのようなことは、本気で、受け入れ難かったものと思われる。

このように、「不幸」や「呪い」をもたらす「力」をもつ者として「恐れる」ことは、「魔女狩り」における「魔女」に対するのと全く同じである。つまり、動機としては、ほとんど「魔女狩り」の場合と同じなのである。規模は小さいが、教会や異端審問所などを介さないで、直接民衆が手を下したという点では、より壮絶ともいえる。

これら日本の下層民と、「魔女」とは、イメージ的にはなかなか重ならないかもしれない。が、たとえば、被差別民としてとりあげられている「芸能者」などは、ほとんど「シャーマン」の成れの果てというべきもので、かつては一端の宗教者だったのが、宗教が制度化されたために落ちぶれて、芸能の場でしか表現できなくなった者たちである。つまり、もともと「不思議な力」を操る者であるが、それがイメージ的に「悪」と結びつけられて、嫌悪されるようになったという意味では、「魔女」と同じなのである。

中井久夫は、歴史的な文化特性と精神的な気質との間には関係があり、「農耕民的特性」を、「メランコリー親和型」(執着気質)、「狩猟民的特性」を「分裂気質」としている。「農耕民的特性」は、土地に定着した人々の間での調整を重視する特質で、集団性や規律、秩序を重んじる。「狩猟民的特性」は、集団性よりも、個人の感覚や能力を重視する特質で、ものごとを「先取り的」に捉えることを特徴とする。

これを、先の事件に当てはめれば、ほぼ「平民」が「農耕民的特性」に、殺害された下層民が「狩猟民的特性」にあてはまるといえる。つまり、(農耕民的な)「集団性」と背反し易い分裂気質の者は、歴史的に言っても、集団から「迫害」され易い特質が、実際にあるということができる。

分裂病で「迫害妄想」というものがあるが、やはり、その元には、そのような歴史的な事実の反映はあると思われる。つまり、分裂病的状況にある者は、たとえ表に現れなくても、潜在的な傾向としては、実際に、迫害的な意識を、多くの者の内心に、まさに「先取り」的に「感受」しているところがあるのである。実際、多くの者の内心の「声」は、そのような「暴力性」を十分にじませた振る舞いをする。分裂病的状況にある者は、そのような先取り的な「構え」によって、逆に、そのようなものを「誘発」しているところもあるのだが、実際に、それを「聞い」てしまうために、「影響」を受けしまうということである。

ただし、そのようなことは、あくまで、さまざまの見えない「力」の蠢く、「無意識」の領域での話である。それが一旦、現実の、特定の者による迫害とか、CIAその他の組織による迫害などと表現されると、それは、明らかな「誤り」である「妄想」にしかならない。(歴史的には、真実の一面ではあっても)

だから、分裂気質の者も、多くの者には、潜在的には、分裂気質の者に対する「迫害意識」というものがあり得ること、そして、現実に、そのような内心の現れを、自ら直接「知覚」する可能性もあるということを、覚悟しておかなくてはならない。そうして、実際にそのようなものに触れたときにも、それは、「内部的」、「潜在的」なものであって、現実の具体的レベルに現れたものではないことを、十分把握する必要がある。

さらに言えば、そこには、これまで見て来たように、「捕食者」の「人と人の間」の葛藤や争いを拡大しようとする、戦略的意図も働いているのである。

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