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2008年11月

2008年11月16日 (日)

「声」の「正体」-その幅または多重性

分裂病的状況で知覚される「幻覚」は、「声」であることが多い。そして、その「声」の尋常でない「内容」と、執拗な「攻撃性」によって、翻弄されるというのが、大体の者が(特に初期に)陥る状態と思われる。

だから、この「声とは何か」ということが分かれば、ほぼ分裂病の要点は「理解」できたも同然なのである。しかし、それが容易に適わないということこそが、分裂病の厄介さを物語っている。一般には、それは単なる「幻覚」に過ぎないと解されるのだろうが、そう解したところで、分裂病の問題が何ら分かりやすくなるわけではない。

この点については、これまで、私も様々に説明して来たが、必ずしも、一義的に、明解というわけにはいかなかったかもしれない。

たとえば、これまで、「声」の「正体」については、「捕食者」あるいは「捕食者的な精霊」、「その他の精霊」、「他の人間の内心の声」など、いくつかを挙げて来た。あるいは、場合によっては、「その者自身の内心の声」ということもあるかもしれない。

実際、分裂病者の聞く「声」は、このうちのどれかでなければならないということではなく、どれででもあり得る。あるいは、いくつかが重なる場合も考えられる。実際、それは、決して、単純に一義的なものではない。

しかし、これまで述べて来たことの一つの重要な視点は、「声」がいずれであるにしても、そこに「捕食者」の関与なくして、人が分裂病に陥るまでの「力」を発揮することは考えられない、ということである。必ずしも、「捕食者」そのものが、表に現れる訳ではないが、そこに、何らかの影響をみることができるということである。ただし、状況が進めば、「捕食者」そのものが前面に現れ出ることは考えられる。実際、私の場合は、そうだったのである。

そこで、「声」の「正体」については、あまり、表面的な現れに囚われることに意味はなく、何であれ、そこに「捕食者」の影響をみる、という視点を重視した方が、良いと思われる。そのように、「日常的」または「人間的」なものとは切り離したうえで、これまで述べて来たように、それに囚われることなく、「真に受け」たり、ことさら「恐れ」たりしないことである。もちろん、それには、その「声」を、通常の他者の「声」と区別することが、当然の前提になる。

ただ、それとの関係でも、先に挙げたもののうち、「他者の内心の声」というのは、やはり特別に注意を要する。また、これにはどうしても、「人間的」または「現実的」な意味で、囚われが生じ易く、誤った「妄想」の基になり易い。そこで、これについては、少し重点的に述べておきたい。

実際、特に初期の頃、「声」は、(現に目の前にする)「他者の声」として聞こえるということが多いはずである。それは、物理的な「声」と区別し難いほど、鮮明に響くが、しかし、もちろん、物理的な「声」そのものなのではない。ただし、実際に、それが、その者の「内心の声」である可能性は、十分にある。つまり、「内心の声」が、一種「テレパシー的」に、物理的な「声」と区別し難く、聞こえているということである。

分裂病的状況では、自己と外界の境界は薄まり、感受性が異常に高まることから、そのようなことはいくらでも起こり得る。

それにしても、その「声」は、もちろん、その者が意識的に発したものではない。さらに、「内心」といっても、本人自身も無意識であることが多く、それをその者に確かめることなどは、まずできない。実際、「声」は、異常な攻撃性や否定性、弱点を適格につく狡猾さなどに満ちており、通常人間が、容易に、意図して発し得るようなものではないはずである。それは、「内心」といっても、無意識における、独特の「力」の影響下に発されるもので、まさに、そこにこそ、「捕食者」等の関与の余地があるのである、

だから、「内心の声」といっても、それを、その者の「本心」ということで、一面的に、その者自身に帰してしまうことは、避けるべきである(それも確かに、「一面」の真実には違いないが)。そして、実際、そうすることで、通常はあり得ないはずの「妄想」が、築かれてしまうことにもなる。そのような「声」を、その者自身の「声」として、「そのまま」受け取れば、周りに「秘密」が漏れているとか、何かの「組織」に狙われているなどの解釈が、出て来ざるを得ないからである。

実際、それらの「声」は、どのような他者のものであっても、ある種、判で押したような「類似性」があり、また、互いに「つながり」を感じさせるもののはずである。そこには、ある種、「普遍的」、「非個人的」な「型」のようなものがあるということである。まさに、それが、聞く者に、「グルになって」とか「組織的」などという「実感」をもたらすのである。

これまで、そのような「心」を、カスタネダの師ドンファンの言葉を借りて、「外来の心」と呼んで来た。それは、その者の「心」には違いないが、「外」から来たものであり、「本来の心」とは区別されるということである。端的に言えば、それは、「捕食者」が我々を管理・支配する手段として、我々に与えた心ということである。先にみたような基本的な「型」は、「捕食者」から来るということであり、一種「捕食者の心」の「コピー」のようなものである。もちろん、具体的には、個人的な感情や思考により、彩りはされるにしてもである。

(あるいは、それは端的に、「エゴ」の実質であるともいえる。ただ、それは全く個人的なもののように思われがちだが、実際には、普遍的な「型」があるということである。また、それは、エックハルト・トールのいう「ペインボディ」としてみると、理解しやすいかもしれない。次回は、この点につき、述べてみたい。)

だから、そこには、その「型」の「大元」であり、実際に「つながり」を有する「捕食者」の影響は、いくらでも、入り込む余地がある。それにより、その攻撃性や狡猾さが拡大されたり、通常人間にはあり得ない「力」を発揮することが、可能になるのである。

つまり、「内心の声」といっても、それは、単純に、その者の個人的な「内心」のみに帰してしまうことはできない。そのような「声」は、一種の「幅」ないし「多重性」をもって受け取るべきということである。それは、結局、その者の個人的な「内心の声」から、「捕食者」の「声」そのものの間で、「幅」または「多重性」をもつのである。

「声」の「正体」=個人的な「内心の声」← →「捕食者」そのものの「声」

いずれにしても、「みかけ」に囚われて、「声」を他者の内心の「声」そのものとして受け取ることには、何の「益」もないと思われる。せいぜい、それに囚われることがないならば、「人間とはそういうものである」という認識を深めることにはなる、という程度である。むしろ、そこに入り込む「未知」の要素を率直に認めたうえで、それについて体験的に「学ん」だり、対処していくことを考える方が、現実的と思われる。

2008年11月 2日 (日)

「世間」との「折り合い」

「世間」との関係で、分裂病者または分裂病的状況が意味するものについて述べて来た。そこで、この点でも、一つの「まとめ」のようなことをしておきたい。

要するに、「分裂病者」の「問題」は、一般的に見えやすい形で表現する限り、「世間」なのである。「解離性障害」などの場合、浮かび上がってくる、特定の者との「人間関係」というのではなく、いわば、「人間」との「関係」そのものである。あるいは、「集団性」ということであり、それへの「適応」ということである。

もちろん、そこには、親などとの「問題」がないわけではない。しかし、それは、概ね、親との「個人的」な関係というよりも、親が「体現」する「世間」との関係での問題と、捉えられるはずである。あるいは、具体的に、その者も、特定の者との関係で、発病のきっかけが生じたかもしれない。が、やはり、それも、特にその者との関係というのではなく、多くの者が体現する「世間」との問題が、その者を通して、具現化したものというべきである。

彼は、そのような「世間」に、ずっと「違和感」を抱き続け、「受け入れ」難かった訳だが、分裂病的状況では、それが、ごまかし様のないものとなる。「世間」は、今や、捕らえ所のない抽象的なものではなく、はっきりとした、具体的な姿をとって、彼に迫る。それは、もはや、全く未知の「他者」、あるいは恐るべき「敵」と化して、彼を襲う。だが、それは、彼の「問題」そのものが、明確にその「姿」を露わにした、ということなのである。

もはや、「問題」は切迫し、何らかの「折り合い」をつけない限り、一方的に「食い殺される」状況にまで至った。しかし、ここで「折り合い」をつけるとは、単に「屈服」したり、「妥協」するということなのではない。もはや、多くの者と同じようには、単純な「折り合い」、「みせかけ」の「折り合い」が、期待できる状況ではないのである。ことは、根本からなされない限り、意味がない状況に至っている。

しかし、「世間」はいまや、その「本性」を包み隠さず、その恐るべき「実質」を露わに、、彼に迫って来ている。それは、相手の「実質」を知ったうえで、根本から「折り合い」をつける、このうえない(望んでも得られない)チャンスということでもある。

彼が、そこで、防衛的な反応で拒否しないなら、いやでも、そこに、「捕食者」といった「みえざる存在」を、「見る」(または「予感する」)ことになる。それは、確かに、未知で、手に負えない存在だが、今や、「折り合い」をつけるべき「相手」として、このうえもなく、具体的で、明確なものとなったのである。

そこで、根本的な「折り合い」とは、そのような相手の「実質」を知りつつ、それを「超える」といった意味合いである。そのうえで、それと距離をとりつつ、「接する」ことができるようになることである。

端的に言えば、「世間」との「折り合い」とは、「捕食者」との「折り合い」以外ではあり得ない。「捕食者」こそが、「世間」の背後にある、「実質」的な存在だからである。また、現実的にも、現に、その「捕食者」の「攻撃」を受ける状況に立ち至った以上、それとの関係を抜きに、「折り合い」などということは考えられないはずである。

逆に言えば、「捕食者」との「折り合い」ということが、もし適うならば、自ずと、「世間」との「折り合い」ということも、つくようになるということである。

繰り返すが、それは、決して、容易なことではない。既に見たように、それは、日本人にとっての、「みえざる」「神」そのものを相手にするに等しいのである。これは、一神教圏の人が、絶対とされる「神」を「乗り越え」ようというのと、ほとんど同じことなのである。だから、それなりの自覚と気概を必要とする。

しかし、望んでか、望まずしてか、そのような状況に「首」を突っ込むことになった以上、もはや、それを避けて通ることはできないということである。あるいは、一旦、その「渦中」から逃れることができたとしても、その問題を本当に解決しない限り、そこから、真に解放されることにはならないということである。

*私自身、「捕食者」との「折り合い」は、かなり適うようになったとはいえ、現在進行中の問題である。それは、一朝一夕に適うものではない。ほとんど、「ライフ・ワーク」のようなものと思っている。いずれ、こり点についても、述べるかもしれない。

「捕食者」そのものについては、「対処法」を初め、これまで散々述べてきたし、「まとめ」もしているので、検索などにより参照して下さい。

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