分裂病を通しての「超越」体験の例
注)「統合失調症」をくぐり抜けることが、(自我の)「超越」の体験となり得ることを示す重要な例です。
R.D.レインは、「反精神医学」の旗手のように言われるが、決して闇雲に「精神医学」に反抗していた訳ではない。分裂病の否定的な面についても、十分見すえたうえ、それを通して、通常の「自我」が、「超越」されることがあることを、認めていたのである。
たとえば、レインは、次のように言う。
「ある人が狂気に陥るというときには、その人の位置は、あらゆる存在領域との関連において、深い転変を蒙ります。彼の経験の中心は自我(エゴ)から<自己>(セルフ)に移動します。…しかしながら狂人は混乱しているのです。彼は自我と自己を混同し、内部と外部を混同し、自然なものと超自然なものとを混同します。にもかかわらず彼はしばしば、たとえ深いみじめさや崩壊を通してであれ、私たちにとっては聖なるものの司祭となることができるのです。」
「狂気というのは全面的な崩壊である必要はありません。それはまた、ある突破かもしれないのです。狂気は隷属であり実存的死であると同じぐらいに、潜在的には解放であり更生でもあるのです。」
そして、そのような「超越」の一例として、ヤスパースが『精神病理学総論』に掲載していたという事例(手記)を取り上げている。
多少長いが、簡潔な文章で、要点がよくまとまっているので、その全文を引用したいと思う。類似の経験をした者ならば、必ずや、手を取るように「分かる」はずの内容である。
『a私は病気を自分でひき起したのだと思う。bもう一つの世界の中へ入りこもうとすると、私はその世界に住む番人たち、つまり私自身の弱点と欠点の化身どもとぶつかった。私はこうした魔物どもをはじめのうちはもう一つの世界の下等な住人と思い、私が準備もなくこの領分へやってきてここで迷っていたために、私をなぶるのではないかと思った。しかしその後、私はこの連中が私の魂の分裂して離れた部分(情念の姿)で、私のそばの空間の中に存在して私の感情で養われているのだと思うようになった。c私はだれもがこの魔物を持ってはいるが、個人の存在感がたくみに防御してうまくごまかしているので、気がつかないのだと思った。この個人の存在感というのは、思い出や観念複合物からできた一種の人工産物で、外面はきれいにメッキされた人形たが、この中には核心的なものは何もないのだと思った。
d私の場合はこの個人的な自己は、意識がぼんやりしたために隙間だらけになってしまっていた。e私はそれをとおしてもっと高い生命の源泉に近づこうと思った―その準備のためずっと前から、もっと高い非個人的な自己を自分の中によび起しておくとよかったのだ。なぜかというと、「神々の食物」は肉体の口には何にもならないからである。fそれは獣-人的な自己に対して破壊的作用を及ぼし、ばらばらにこわしてしまったのだった。こうして分かれた部分は次第に崩壊して、人形は全く溶けてしまい、体は毀損されてしまった。
私が「生命の源泉」へ接近をはかるのが早過ぎて、「神々」の呪が私に降りかかってきたのである。g後になってやっと、闇の者どもが関与していたのを知ったが、おそすぎた。そのときにはもうその力があまりにも大きくなってしまっていたのだった。hもう引き返す道はなかった。今や私は、見たいと願っていた霊の世界を持っていたのである。魔物たちは番人や番犬としてケルペロスのように奈落から昇ってきて、無用の者はだれも入れなかった。i私は生死に関する戦に応じようと決心した。それは結局、死ぬという決心を意味したのである。なぜかというと、私の考えによれば、敵を助けるものはすべて除去しなければならなかったのだが、しかしそれは同時にまた私の生命を助けるものをすべて除去することだったからである。私は狂気となることなしに死のうと欲してスフィンクスの前に立った―つまり「汝が奈落に陥るかそれとも我か」という気持だったのである。
jこの瞬間に光明が射した。私は断食によって誘惑者たちの素姓を見ぬいた。彼らは悪の仲介者であり、わが愛する個人的自己の欺瞞者であったが、この自己も今は彼らと同じくとるに足らぬものと私には思われた。kするといっそう大きくもっと広い自己が現れたので、私は今までの人格をその付属物もろとも捨て去ることができた。超越的世界に踏み入ることができるのは、この今までの人格ではないことがわかった。身の砕け散るような打撃の痛みと同じくらい恐ろしい痛みがその結果起ったが、私は救われ、魔物たちは萎縮し、衰え、死んでしまった。l全然新しい生命が始まった。私はこのときから自分を他の人たちとちがうと感じた。m他の人々の持っているような常套的虚言や、見せかけや、自己欺瞞や、追想像からなる自己が、私の中にもふたたびできあがったのだったが、その背後や上にはいつももっと大きな広い自己が立っており、それは永遠なもの、不変なもの、不死のもの、汚されないものという印象を私に与えた。それ以来、これがいつも私の守護者であり避難所なのである。n多くの人々がこうしたいっそう高い自己を知ったなら益があろうと私は思うし、また、私のよりもうまいやり方で実際この目標に達した人がいると思う。』
(R.D.レイン『経験の政治学』みすず書房 143~4頁)
ヤスパースは、それが「深い体験」であることは認めつつも、あくまでこれを、精神病の範疇のものとしかみなかった。しかし、レインは、「この患者は、私が何もつけ加えることができないほど明晰に、きわめて古くからあった一つの探求を、それに伴う落とし穴や危険を含めて、記述した」と述べている。まさに、古来からの「超越」体験に伴う、普遍的な要素が明確にみられる訳だが、むしろ、落とし穴や危険が具体的に示されている分、貴重ともいえる。
私も、別につけ加えるものはないが、しかし、一般には、なれそめのない言葉や、切り詰めた(舌足らずの)表現が分かりづらいと思うので、私なりに、やや詳しい解説を加えて行きたい。(該当箇所を分かりやすくするために、アルファベットを付した。)
「病気を自分で引き起こした」(a)というのも、恐らく、多くの者が、事後的に客観的に回顧する限り、そのように認識されるはずのものである。この「自分で引き起こした」という中には、恐らく、2つの要素、原因を自分が作り出したというのと、あえて、意図的に、その経験の中に入って行ったというのとの、2面があると思う。
「もう一つの世界」(b)というのは、これまで述べてきた、「霊界の境域」そのものである。「この世界」と「霊界」との「境界」ということである。分裂病的状況において、通常の「感覚的な世界」を超え出てはいるが、特定の「霊的世界」に入るのではなく、浮動している状態である。
「その世界に住む番人」であり、「自分の弱点と欠点の化身」というのも、既に述べた、シュタイナーのいう「境域の守護霊」そのものである。私の体験のところでは、「背後の存在」として述べたのが、それに当たる。「霊界の境域」では、そのようなものと、「出会わ」れる可能性が高まるのである。
彼は、初めは、何か外部的な「魔物」と思うが、後に、それが、自分の一種の「分身」であることに、気づいている。cでいうように、本来誰もが、そのようなものを持っているが、「個人の存在感」 によって覆い隠されて、気がつかないのに過ぎない。逆に言えば、分裂病的状況では、そのような「メッキ」が剥がされてしまうために、そういった「分身」にも、気づかざるを得ないのである。「個人的な自己」が「隙間だらけ」になってしまった(d)というとおりである。
彼は、eにいうように、そのような「隙間」を通して、もっと高い「生命の源泉」に近づこうと思う。「個人的な自己」のメッキが剥がれたことにより、逆に、そのような「生命の源泉」をも、身近に感じていたことが分かる。しかし、その準備はできておらず、そのためには、もっと高い「非個人的な自己」を呼び寄せておく必要があったことに気づく。
そこで、その「神々の食物」(「生命の源泉」)は、準備のできていない「個人的な自己」に対しては、逆に、「破壊」的な作用を及ぼすことになる(f)。kにいうように,「個人的な自己」というものは、そのような「世界」には踏み込めないからである。
そうして、それは「ばらばら」にされ、崩壊し、まったく「溶けて」しまうことになる。「神々の呪い」が降りかかったかと思うが、そこには、「闇の者」たちが関与していたことをも知る(g)。
しかし、hにいうように、時は既に遅く、もはや引き返すことはできないことを悟る。彼は、その「霊の世界」での、「生死をかけた闘い」に挑む決意をする(i)。つまり、「開き直」り、文字通り、「死ぬ」覚悟をする。その闘いでは、「敵」を助けるものと同時に、自分の生命を助ける者をも、「除去」する必要があることが分かる。「一対一」の「裸」の「勝負」ということである。
しかし、それは、「闇の者」とは、単に、外部的な存在ではなく、(その時点での)自己そのものというべき、「個人的自己」の欺瞞者である(j)ことに、気づいたことの結果でもある。結局、これは、単純に、「自己」と何者かとの「闘い」というのではなく、「自己」そのものが、起こっている「破壊作用」に、「身を任せる」ということにもなるのである。
すると、そこで「光明」が射し(j)、「いっそう大きく広い」自己が現れ出る(k)。前にみた、「非個人的な自己」である。既にみたように、「闇の者」たちとは、それまでの自己である、「個人的な自己」の欺瞞者とつながるものであったことが、明白になる。しかし、「いっそう大きく広い」自己が露わになった今、それらは、もはや「取るに足りない」ものに思われ、「捨て去る」ことができる。「魔もの」たちも、萎縮して、死んでしまう。
そのようにして、全く「新しい生命」が始まることになる。それは、もはや、通常の者とは、異なる生命であることが意識される(l)。
彼も、その後、一旦は捨て去った、欺瞞的な「個人的自己」が再びできあがったのを感じることがある。しかし、その背後には、常により「大きく広い自己」が立っていて、それに包まれているのを感じる。それは、つねに、守護者であり非難所であり続ける(m)。
彼は、このように「病的」な過程、かなり「壮絶」な過程を通して、この「大きく広い自己」と巡り会うことができた。しかし、もっとうまいやり方(危険の少ないやり方)で、これをなした人がいるはずだと思う(n)…というところで、この回想は終わっている。
「闇の存在」とともに、古い「個人的な自己」に死んで、より「大きく広い自己」(「非個人的な自己」)へと生まれ変わるところが、「超越」ということの、ポイントである。まさに、その古い「個人的な自己」の「死」の「過程」、あるいは、それに対する「あがき」が、「病的」なものとして、反映されるのである。それが、新たな「自己」として、生まれ変わることがなければ、確かに、「病的」なものに終始してしまうことになる。
それは、「生死を賭けた闘い」とは言っても、実質は、「抵抗」を止めて、外部的な「破壊作用」を「受け入れた」ことによるものといえる。つまりは、「破壊」を伴う、「自然な展開」に「身を任せた」ということである。
その過程の記述は、確かに明晰で、簡要である。しかし、かなり「はしょられ」たところ、あるいは、十分意識化されなかったところもあると解される。
特に、より高い「生命の源泉」に近づこうとして、その「破壊」作用にさらされるところはそうである。そこに、「闇の者」が関与していることに気づくことからしても、その「破壊」作用は、「補食者」によるものと、渾然一体となっている。だから、より高い「生命の源泉」という「光」を示唆する言い方に反して、やはり、そこには、私の場合と共通の、根源的な、「虚無」ないし「闇」の働きを、みることができると思う。それとして、はっきり「知覚」ないし「意識」されたのではないにしてもである。
「闇の者」とは、「補食者」ないし「補食者」的な「精霊」そのものといえる。それが、欺瞞的な「個人的な自己」とつながっていることを、明確に感じ取っている。つまり、ドンファンのいう、「外来の心」(「補食者」により与えられた「心」)である。
それは、まさに、「自我」に対する、執着や、保身、虚飾により、その周りに塗り固められた「鎧」(メッキ)のようなものといえる。つまりは、「エゴ」である。
それは、「自我」の「外殻」として、彼の言い方では、「個人の存在感」を、「高める」ことにより、通常は、外界に対して、「防御」的な働きをしている。分裂病的過程とは、そのような、「自我の外殻」が、外され、本来の「自我」が剥き出しにされる過程とも言える。それは、全く「無防備」な形で、「闘い」の「前線」にさらされるのである。
ドンファンでいえば、「敗北してすみっこに追いやられている」「本来の自己」が、剥き出しになることである。ドンファンは、むしろ、そこからが、「本当の闘い」の始まりなのだと言っている。
だから、一旦は、「個人的自己」の「メッキ」が捨て去られたとしても、その「無防備」な状態に耐え切れず、それが再び「できあがる」ことは、ままあることといえる。しかし、彼は、もはや、そのようなものに、依存することも、頼ることもしていない。より「大きく広い自己」が露わになったために、それを「守護者」とし、「非難所」とすることができる。多くの者が、それそのものを生きている「個人的自己」は、彼にとっては、いわば、「仮のもの」となったということができる。
このように、彼が、「大きく広い自己」を体験しつつも、 それと単純に「同一化」していないことも注目される。ユングも言うように、このような「自己(セルフ)」の体験は、時に、「自我」がそれと同一化して、「自我肥大」に陥ることがある。一種の「誇大妄想」である。「自我」は、「自己」そのものと同一化するのではなく、「自己」という太陽の周りを回る地球のようなものとして、意識されるのが望ましいとされるのである。
彼は、まさしく、「大きく広い自己」を、そのようなものとして認識していて、「自我肥大」に陥ることをも、免れているのである。
最近のコメント