「虚無」・「闇」あるいは「無限」
注)「虚無」と「闇」について、「無限」と関連づけて説明する重要な記事です。
分裂病的状況にとって、「補食者」と同様、「虚無」と表現して来たものとの関わりも、重要である。いずれも、自己の心という枠組にとっては、「破壊」的なものとして現れる。「補食者」による「攻撃」は、自己の心を激しく揺さぶり、大きな「風穴」を空ける。そのような「風穴」こそ、「虚無」に通じる窓になる。
この「虚無」を「無限」と解するなら、この点でも、ドンファンと通じるものがある。ドンファンは、カスタネダに、「無限」の「猛襲」を体験させると宣言した後、「捕食者」を体験させ,さらに「無限」へと飛び込ませることを試みた。
ただし、カスタネダ自身は、「補食者」と「無限」の関係というものは、取り立てて意識しなかったか、単純に、分からなかったようだ。しかし、ドンファンは、両者との遭遇を、明確な関連のもとに、行わせたはずなのである。
まずは、「虚無」あるいは「無限」という捉え方について、ざっとみておく。
「虚無」にしても、あるいは「無限」にしても、本来、言葉で表現できない「不可知」のあるもの、「絶対的」なあるものを、指し示す言い方である。もちろん、これらは、単なる「比喩」でもなければ、抽象的な「観念」でもない。分裂病的状況にしても、ドンファンのように、「呪術」的な実践の果てにとしても、それらは、ひとつの「実体」として、具体的な「力」のあるものとして、出会われるのである。
ただし、「虚無」というのは、文字通り、何も無い「無」という面を、浮かび上がらせた表現である。我々は、「有」として、つまり、ある枠組をもった「存在」として、それに対峙する。だから、それは、まず、そのような、限定的な枠組をもった「有」ではないもの、つまり、「無」として、意識されるのは当然である。
それは、実際、我々の「有」としての枠組を脅かすので、根源的ともいえる、「恐怖」の対象となる。しかし、我々が、実際に、「有」として生きている以上、それと対置された、「虚無」という言い方は、その実際上の現れに忠実なもので、ふさわしい表現というべきである。
「無限」というのは、「無」ということよりも、むしろ、「無限定」であること、個々の枠組みを超えた「全体」的なものを、指し示す言い方といえる。いわば、あくまで、「有」という側面を保持したまま、その「無限定」性、「全体」性に着目するものである。しかし、「虚無」というのも、また、単純に「無」なのではなく、本来、「有」をも包み込む、「無限定」なものであるのは同じである。だから、両者の違いは、着眼の違いによるもので、決して、相入れない訳ではない。
ところで、ドンファンは、「無限の活動的な側」(the active side of infinity)という言い方をしている。これは、逆に言えば、無限には、「非活動的な側」というべきものがあるということである。全体として「無限」と捉えられるものにも、「動」的な側面と「静」的な側面、あるいは「有」的な側面と「無」的な側面があるということである。やはり、「無限」においても、そのような、「無」の側面は意識されているのである。
一方、「虚無」にしても、それと実際に出会われる状況に目を向ければ、「実体」としての側面、あるいは「有」の側面に着目することができる。むしろ、現実に、「知覚」される限りでの「虚無」とは、まさしく、そのような「実体」そのものというべきである。それは、ドンファンのいう、「無限の活動的な側」 とピタリと一致はしない(着眼が違うので)だろうが、かなり重なるものがあると思われる。
私は、その、いわば、「虚無」の「活動的な側」のことを、「闇」と呼びたいと思う。
私の体験のところで、「補食者」とある程度の決着がついた後に、最終的には、「虚無」と接触したと述べた。この「虚無」というのは、実際には、その「活動的な側」としての、「闇」というのが正確である。
それは、形や、一定の枠組などはなかったが、巨大な「暗黒」の「塊」のような「みかけ」のもとに、実際に、「動」的に、私に迫って来た。また、強烈なエネルギーと意志のようなものすら孕んで、明らかに、「実体」として意識された。そのような、「暗黒」の「実体」という「みかけ」からいっても、「闇」という言い方は適当と思う。もちろん、これは、「虚無」の全体ではない、ある側面には違いないだろうが、しかし、「虚無」そのものを、背後に孕んだ、不可分のものと思われるのである。
だから、このような「闇」というのも、もちろん、単なる「比喩」でもなければ、抽象的な「観念」でもない。また、単に、「光」に対する「闇」、または「光」の不在としての「闇」なのでもない。むしろ、あらゆる「存在」を超えた、より根源的な「実在」というべき、「闇」なのである。
一方、シュタイナーでも「アーリマン存在」のことを「闇の存在」というが、「補食者」もまた、「闇」の存在として捉えることは、できると思う。また、心の否定的部分、暗黒の部分を、「心の闇」などと表現することがある。これらは、明らかに、「光」に対置された「闇」であり、「光」の「不在」あるいは「影」という意味で、言われている。
これら「闇」と称されるものと、先の根源的な「闇」とは、どのような関係にあるのだろうか。これらは、確かに、互いに、通じるものがあると思われる。特に、「補食者」は、ひとつの確固とした「存在」であり、その「闇」は、単なる「光」の不在ということでは、言い尽くせない。それは、いわば、背後に、根源的な「闇」を、強く映し出す、「媒体」のようなところがあるともいえる。
実際、両者には、特定の「存在」の心や、一定の在り方などの枠組を、根本から破壊する、共通の性質がある。分裂病的状況で、心を崩壊させる要素も、これらの両者によるものだし、ドンファンが、(なかなか変わらない)カスタネダに、さかんに仕掛けていたのも、これらの、破壊的な力なのである。
しかし、そのレベルは、両者で、根本的に異なっている。やはり、特定の「存在」に過ぎない「補食者」に対して、根源的な「闇」は、あくまで、絶対的な「虚無」の、一側面だからである。根源的な「闇」は、本質的に、あらゆる「存在」の枠組を破壊するものであり、「補食者」のように、ただ、「心」の枠組みを破壊するというだけのものではない。
むしろ、根源的な「闇」は、当の「捕食者」や「心の闇」をこそ、破壊するということができる。本来、あらるものを破壊する性質があるにしても、「闇」としての「みかけ」を有する「補食者」や「心の闇」こそは、真の「闇」の中では、 真っ先に、その存在を「剥奪」されるのである。
実際にも、「闇」と接触するぎりぎりの状況においては、これら、「補食者」や「心の闇」などが入り込む「隙間」は、全くない。つまり、(たとえ、それ以前には、それらが活躍していたとしても)、それらは、その状況においては、いわば、一瞬にして「消し飛ば」されるのである。
これは、次のようなたとえで、言い表せるかもしれない。
暗黒の宇宙空間を、根源的な「闇」とする。その宇宙の中に、太陽という「光」を発する存在がある。太陽は、地球に「光」を降り注ぐ。その結果、地球の太陽を向いている側は、「昼」となるが、その反対側は、地球自身の「影」となり、「夜」となる。「夜」とは、「光」によって、その「不在」として、あるいは「影」として作られたものである。
その「夜」は、「暗黒」の、「光」の当たらないものとして、原初の、根源的な「闇」と類似の性質を帯びている。それは、「光」に対しては、その独自の「存在性」を有している。しかし、それが、根源的な「闇」の中に、ほうり込まれるとき、それは、その「闇」の中に解消し、もはや、それとしての独自の存在などはない。つまり、それらの存在は、もはや「剥奪」されてしまうのである。
ここでいう「夜」または「影」が、「補食者」や「心の闇」としての「闇」に当たる。それらは、「闇」の「みかけ」を有するが、あくまで、「作られ」たものであり、真の「闇」なのではない。そして、そのようなものこそ、真の「闇」の中では、いわば、真っ先に解消してしまうということである。(前に、「闇」というのが、一種の「治癒」効果をもつと言ったが、それは、要するに、そういうことに基づいている。)
前々回、宇宙の創造者ですら、原初の「虚無」を恐れるという話が出てきた。それと同じように、「闇」の「みかけ」をもつ「捕食者」こそ、実は、最も強く、真の「闇」を恐れている存在、ということができるのである。
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