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2008年8月

2008年8月23日 (土)

「虚無」・「闇」との出会われ方-3種

前回、「虚無」の「実体的」な側面としての、「闇」との「接触」について述べた。

「虚無」については、日常性のある瞬間に「かいまみる」という形で、あるいは、間接的に感じ取るという形で、出会われることは、ままあることである。最も日常的には、ふとした瞬間に襲ってくる、「虚無感」というのも、そうである。

しかし、「実体」としての「闇」そのものと、直接、出会われるということは、かなり特殊な状況に限られる。それが、身体的な「接触」まで至るとなれば、なおさらである。「実体」としての「闇」ということが、これまでほとんど取り沙汰されることがなかったのも、そのためと思われる。

体験のところで述べたように、私の場合、この「闇」との「接触」は、「分裂病的状況」が極まって、いわば、行き着くところまで行ったところで起こった。「死」を受け入れたのは当然のこととして、もはや「自己」のみか、「宇宙」すら消滅するというぎりぎりの状況であった。恐らく、「闇」が、身体に「接触」するまでに迫るということは、この場合のように、自己(自我)の「破壊」が極まって、 極限的に「無」に近づくような状況でしか、行われないものと解される。

しかし、実は、それ以前にも、「接触」までは至らないが、この「闇」が、空間に漂うのを「見る」という体験をしたことがある。それは、その時点で、意識されたのではなくて、まさしく、分裂病的状況で、「思い出さ」れたのだが、やはり、「虚無」の実体的側面としての「闇」であることは、間違いないと思われる。

それは、学生のとき、先輩にこっぴどく(といっても直接的にではなく、かなり陰険なやり方で)「やられる」ことを通して、大きなショックを受けて、しばらく放心状態にあったときに起こった。それは、直接には、もちろん、人間に「やられた」のだが、しかし、その背後には、やはり、「補食者」がいたことを、はっきり「覚え」ている。それは、体育館でのことだったが、その時、その天井に「穴」が空き、そこに開いた空間に、巨大な「暗黒」の「実体」が、何か意志のようなものを帯びて、「漂う」のを、放心状態のさ中に「見た」のである。

(といっても、それは、無意識下に「抑圧」されて、意識的な記憶には残らなかった訳だが。そのように、「闇」と出会ってはいるが、意識的な知覚として残らないという例も、多いと思われる。)

いずれにしても、「闇」との出会いは、「自我」という自分の枠組みが、かなり根本から、揺さぶられ、「破壊」されようという瞬間に、起こっている。「虚無」が、実体的な「闇」として現れるのは、まさにそのような時と解されるのである

そして、私の場合、それは、いずれも、「補食者」による「攻撃」がらみであるのが、特徴的である。そして、この点でも、やはり、それを通して「無限」との出会いをなすことになった、カスタネダの場合と通じるものがある。つまり、「闇との出会い」ということに着目する限り、「補食者」の破壊作用は、そのための「媒介」のようなところがあるのである。

しかし、この時の、「破壊」は、「分裂病的状況」でのものに比べれば、まだまだ、根源的ではなく、日常性の中の、ほんの一エピソードのようなものとして、なされたに過ぎなかった。だから、「接触」ということには至らず、ただ、距離をおいて、「見る」ということに止まった。また、意識に残ることもなかったのだと思われる。

それに対して、「分裂病的状況」では、「自我」は徹底して、「破壊」に向けて、さらされ続けたということができる。もはや、「日常性」というものは崩壊し、ただ、すべてが、その「破壊」という一点に向けて、収束していった。それは、はっきり意識化されるものとなったし、自己の内部というだけでなく、「宇宙」という外的なものまで、含み込むものとなった。それで、その極限に、「闇」との「接触」ということが起こったものと解される。

このように、私の場合、これらは、「虚無」そのものというよりも、実体としての「闇」という面が、強く現れている。それに対して、もっと純粋に、「虚無」そのものと出会われたと解されるのが、バーナデッド・ロバーツの『自己喪失の体験』である

ロバーツのいう「虚無」も、まさに「実体」としての「闇」という面を濃厚に含んでいる。しかし、それは、もっと純粋に「虚無」そのもの、「虚無」の全体といったものを思わせる。恐らく、ロバーツの場合、「虚無」は、単に「自我」が、「破壊」される状況で出会われたというのではなく、(完成された)「自己」が、その極点において、そこに溶解するように、出会われているからである。それは、いわば、出会われ方が、「全面的」なのである。それで、「虚無」の側もまた、「全体」としての「顔」をみせている、ということがいえる。

そして、その過程は、全く意識的に、詳細なプロセスとして、明晰に述べられている。
それは、「虚無」との、最も純度の高い出会われ方の、貴重な例ということができる。

2008年8月 7日 (木)

「虚無」・「闇」あるいは「無限」

注)「虚無」と「闇」について、「無限」と関連づけて説明する重要な記事です。

分裂病的状況にとって、「補食者」と同様、「虚無」と表現して来たものとの関わりも、重要である。いずれも、自己の心という枠組にとっては、「破壊」的なものとして現れる。「補食者」による「攻撃」は、自己の心を激しく揺さぶり、大きな「風穴」を空ける。そのような「風穴」こそ、「虚無」に通じる窓になる。

この「虚無」を「無限」と解するなら、この点でも、ドンファンと通じるものがある。ドンファンは、カスタネダに、「無限」の「猛襲」を体験させると宣言した後、「捕食者」を体験させ,さらに「無限」へと飛び込ませることを試みた。

ただし、カスタネダ自身は、「補食者」と「無限」の関係というものは、取り立てて意識しなかったか、単純に、分からなかったようだ。しかし、ドンファンは、両者との遭遇を、明確な関連のもとに、行わせたはずなのである。

まずは、「虚無」あるいは「無限」という捉え方について、ざっとみておく。

「虚無」にしても、あるいは「無限」にしても、本来、言葉で表現できない「不可知」のあるもの、「絶対的」なあるものを、指し示す言い方である。もちろん、これらは、単なる「比喩」でもなければ、抽象的な「観念」でもない。分裂病的状況にしても、ドンファンのように、「呪術」的な実践の果てにとしても、それらは、ひとつの「実体」として、具体的な「力」のあるものとして、出会われるのである。

ただし、「虚無」というのは、文字通り、何も無い「無」という面を、浮かび上がらせた表現である。我々は、「有」として、つまり、ある枠組をもった「存在」として、それに対峙する。だから、それは、まず、そのような、限定的な枠組をもった「有」ではないもの、つまり、「無」として、意識されるのは当然である。

それは、実際、我々の「有」としての枠組を脅かすので、根源的ともいえる、「恐怖」の対象となる。しかし、我々が、実際に、「有」として生きている以上、それと対置された、「虚無」という言い方は、その実際上の現れに忠実なもので、ふさわしい表現というべきである

「無限」というのは、「無」ということよりも、むしろ、「無限定」であること、個々の枠組みを超えた「全体」的なものを、指し示す言い方といえる。いわば、あくまで、「有」という側面を保持したまま、その「無限定」性、「全体」性に着目するものである。しかし、「虚無」というのも、また、単純に「無」なのではなく、本来、「有」をも包み込む、「無限定」なものであるのは同じである。だから、両者の違いは、着眼の違いによるもので、決して、相入れない訳ではない。

ところで、ドンファンは、「無限の活動的な側」(the active side of infinity)という言い方をしている。これは、逆に言えば、無限には、「非活動的な側」というべきものがあるということである。全体として「無限」と捉えられるものにも、「動」的な側面と「静」的な側面、あるいは「有」的な側面と「無」的な側面があるということである。やはり、「無限」においても、そのような、「無」の側面は意識されているのである。

一方、「虚無」にしても、それと実際に出会われる状況に目を向ければ、「実体」としての側面、あるいは「有」の側面に着目することができる。むしろ、現実に、「知覚」される限りでの「虚無」とは、まさしく、そのような「実体」そのものというべきである。それは、ドンファンのいう、「無限の活動的な側」 とピタリと一致はしない(着眼が違うので)だろうが、かなり重なるものがあると思われる。

私は、その、いわば、「虚無」の「活動的な側」のことを、「闇」と呼びたいと思う

私の体験のところで、「補食者」とある程度の決着がついた後に、最終的には、「虚無」と接触したと述べた。この「虚無」というのは、実際には、その「活動的な側」としての、「闇」というのが正確である。

それは、形や、一定の枠組などはなかったが、巨大な「暗黒」の「塊」のような「みかけ」のもとに、実際に、「動」的に、私に迫って来た。また、強烈なエネルギーと意志のようなものすら孕んで、明らかに、「実体」として意識された。そのような、「暗黒」の「実体」という「みかけ」からいっても、「闇」という言い方は適当と思う。もちろん、これは、「虚無」の全体ではない、ある側面には違いないだろうが、しかし、「虚無」そのものを、背後に孕んだ、不可分のものと思われるのである。

だから、このような「闇」というのも、もちろん、単なる「比喩」でもなければ、抽象的な「観念」でもない。また、単に、「光」に対する「闇」、または「光」の不在としての「闇」なのでもない。むしろ、あらゆる「存在」を超えた、より根源的な「実在」というべき、「闇」なのである。

一方、シュタイナーでも「アーリマン存在」のことを「闇の存在」というが、「補食者」もまた、「闇」の存在として捉えることは、できると思う。また、心の否定的部分、暗黒の部分を、「心の闇」などと表現することがある。これらは、明らかに、「光」に対置された「闇」であり、「光」の「不在」あるいは「影」という意味で、言われている。

これら「闇」と称されるものと、先の根源的な「闇」とは、どのような関係にあるのだろうか。これらは、確かに、互いに、通じるものがあると思われる。特に、「補食者」は、ひとつの確固とした「存在」であり、その「闇」は、単なる「光」の不在ということでは、言い尽くせない。それは、いわば、背後に、根源的な「闇」を、強く映し出す、「媒体」のようなところがあるともいえる。

実際、両者には、特定の「存在」の心や、一定の在り方などの枠組を、根本から破壊する、共通の性質がある。分裂病的状況で、心を崩壊させる要素も、これらの両者によるものだし、ドンファンが、(なかなか変わらない)カスタネダに、さかんに仕掛けていたのも、これらの、破壊的な力なのである。

しかし、そのレベルは、両者で、根本的に異なっている。やはり、特定の「存在」に過ぎない「補食者」に対して、根源的な「闇」は、あくまで、絶対的な「虚無」の、一側面だからである。根源的な「闇」は、本質的に、あらゆる「存在」の枠組を破壊するものであり、「補食者」のように、ただ、「心」の枠組みを破壊するというだけのものではない。

むしろ、根源的な「闇」は、当の「捕食者」や「心の闇」をこそ、破壊するということができる。本来、あらるものを破壊する性質があるにしても、「闇」としての「みかけ」を有する「補食者」や「心の闇」こそは、真の「闇」の中では、 真っ先に、その存在を「剥奪」されるのである

実際にも、「闇」と接触するぎりぎりの状況においては、これら、「補食者」や「心の闇」などが入り込む「隙間」は、全くない。つまり、(たとえ、それ以前には、それらが活躍していたとしても)、それらは、その状況においては、いわば、一瞬にして「消し飛ば」されるのである。

これは、次のようなたとえで、言い表せるかもしれない。

Photo


暗黒の宇宙空間を、根源的な「闇」とする。その宇宙の中に、太陽という「光」を発する存在がある。太陽は、地球に「光」を降り注ぐ。その結果、地球の太陽を向いている側は、「昼」となるが、その反対側は、地球自身の「影」となり、「夜」となる。「夜」とは、「光」によって、その「不在」として、あるいは「影」として作られたものである。

その「夜」は、「暗黒」の、「光」の当たらないものとして、原初の、根源的な「闇」と類似の性質を帯びている。それは、「光」に対しては、その独自の「存在性」を有している。しかし、それが、根源的な「闇」の中に、ほうり込まれるとき、それは、その「闇」の中に解消し、もはや、それとしての独自の存在などはない。つまり、それらの存在は、もはや「剥奪」されてしまうのである。

ここでいう「夜」または「影」が、「補食者」や「心の闇」としての「闇」に当たる。それらは、「闇」の「みかけ」を有するが、あくまで、「作られ」たものであり、真の「闇」なのではない。そして、そのようなものこそ、真の「闇」の中では、いわば、真っ先に解消してしまうということである。(前に、「闇」というのが、一種の「治癒」効果をもつと言ったが、それは、要するに、そういうことに基づいている。)

前々回、宇宙の創造者ですら、原初の「虚無」を恐れるという話が出てきた。それと同じように、「闇」の「みかけ」をもつ「捕食者」こそ、実は、最も強く、真の「闇」を恐れている存在、ということができるのである。

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