まとめ-「補食者」について
わしが言っているのは、われわれが相対しているのは単純な捕食者ではないということだ。そいつはすごく頭が切れるし、てきぱきと仕事をこなす。組織的な方法にしたがってわれわれを無能にする。不思議な存在になるよう運命づけられている人間は、もはや不思議な存在ではなくなってしまう。どこにでもころがっている肉片にすぎなくなる。人間にとって夢はもうどこにも存在しない。あるのはただ肉にするために飼育される動物の夢だけだ。くだらん、ありふれた、愚かしい夢だ。
(カルロス・カスタネダ著『無限の本質』 p.279)
ここでは、「補食者」について、簡単なまとめだけをしておきたい。箇条書き風にまとめて、簡単なコメントを付しておく。
1 我々人間の葛藤や苦痛から発する(感情的、エーテル的)エネルギーを「補食」する、「見えない」存在である。
「補食」といっても、人間や他の動物のように、物理的な成分を捕食するわけではない。彼らは、物理的な存在ではないからである。しかし、彼らも、エーテル的な「身体性」をもった存在である以上、新陳代謝をし、栄養源を必要とする。
人間も、意識を有する存在だが、肉体という、さらに強度の制限の中に縛られている。いわば初めから、葛藤と苦痛を予定された存在である。彼らは、そこにつけ込んで、その間の「摩擦」を拡大しようとする。そして、そこから、発される「熱」(感情的、エーテル的エネルギー)を、栄養源として、捕食するのである。
2 特に、「恐怖」から発するエネルギーを好む。
明らかに、「恐怖」を好み、「恐怖」を生み出すことに、専念する。恐らく、「恐怖」という感情は、もっとも強烈なエネルギーを有し、葛藤を持続させる基盤だからである。それは、思考や創造力を果てしなく膨らませ、多様に展開させる。分裂病者の「奇怪」で、「多彩」な「妄想」も、要は、そこから生じている。文化的には、「天国」が、一様で平坦なのに対して、「地獄」は、異様な深みと、多様な広がりのあるイメージであることが、それを証明している。
3 「補食」のために、我々人間を組織的に「管理」し、「支配」する。
一般に、「支配」や「管理」といえば、「征服」とか、「破壊」が目的のように連想され易い。実際、何らかの支配者的な存在を察知した、分裂病者の「妄想」も、そのような方向に行ってしまい易い。しかし、彼らは、文字通り、「補食」のために、我々を管理・支配するのである。つまり、彼らは、我々が食用のために家畜を飼うのと同じように、我々を「飼育」するということである。ただし、その支配、管理のやり方は、人間の場合以上に堂が入っていて、冷酷かつ戦略的である。
4 「信念体系」や、「欲望」「感情」を通して、「心理」的に支配する。
彼らは、我々を(「心」の内部を含めて)意識レベルで、明確に知覚している。が、我々は、彼らを、ほとんど意識下で、無意識的に知覚するのがやっとである。彼らは、我々の心を手に取るように「見ている」ので、それに働きかけることができるが、我々は、ほとんど、そのことを知る由がないということである。そこで、彼らの「支配」「管理」は、我々の無意識的な「心」を通して行われる。具体的には、善悪その他の様々な「信念体系」、「欲望」「感情」などを、植え付けることを通して行われる。
5 さらに、 彼らの「心」そのものを与えて、根源的に支配する。
しかし、彼らは、単に外から、間接的に影響を与えることで、支配するというだけではない。彼らは、彼らの「心」そのものを我々に与えて、いわば、内から直接に支配するという、手の込んだやり方をとった。もはや、人間の「進化」そのものに、彼らが、分かちがたく組み込まれているということである。あるいは、人間にとって、「補食者」とは、ほとんど、「内なる存在」と化したということである。そして、同時に、人間は、そのような2つの心を通して、より強烈に、葛藤するほかなくなった。
分裂病者が、他人の内心の「声」を聞くことがあるが、それは、明らかに、その「外来の心」に発したものである。それは、陰湿な攻撃性と否定性に満ちている。表にはっきりと現れることは、少ないにしても、そこでは、その「本性」が露わにされている。あるいは、その「心」は、生みの親である「補食者」の、道具のようなものともいえる。だから、彼らは、それを、いくらでも、増幅させるようにして、発現させることができるのである。
6 その「克服」、あるいは影響を「脱する」ことに向けては、彼らを、「補食者」として、あるがままに認めて、「受け入れる」ことが第一歩である。
これについては、多少多めにコメントしておく。
彼らの戦略そのものが、人間に知られず、その影響力を行使するということなので、これまで、人間には、それとして「知られる」ことが、ほとんどなかったのも、仕方がない。文化的には、「悪魔」「鬼」などとして、ある程度その存在を示唆するものは流布しているが、これらも、人間がその回りに勝手に築き上げたイメージに過ぎない。あるいは、そのような、イメージの流布自体が、彼らの戦略の一部ともいえる。それらは、人間の「恐怖」や「混乱」を拡大しはするが、彼らの本質を、何ら明らかにするものではないからである。
分裂病の「妄想」でも、そこに何か超越的なものを察知した者は、既製の観念で、「神」や「悪魔」、「宇宙人」などとして表現する。が、それは明らかに、内容とちぐはぐな、不自然なものとなる。「妄想」自体には、幻覚などを通して、それなりに、彼らの性質を伝えるあるものが含まれている。が、それを、無理やり、「既成の観念」で埋めようとしたため、ちくはぐで、不自然になるのである。それは、「補食者」として捉えられて、初めて、(その恐怖に満ちた奇怪な内容も含めて)いくらかなりとも、意味をもつものというべきである。
要するに、彼らは、人間が勝手に想像するように、あるいは、投影するように、「悪」の権化なのでもなければ、「破壊」の使者なのでもなく、ましてや、「おどろおどろしい」「怪物」なのでもない。
彼らは、「戦略」に長けた、「合理的」な存在なのであり、我々と同じように、「食糧」を必要とし、そのために、汲々としている。ただ、そのために、人間を支配・管理する方法を洗練させたので、それに人間が翻弄されているというだけである。「未知」の性質を有すとはいえ、我々人間から、遠いものでもなければ、推測のつかない代物でもないのである。
ドンファンも、彼らを「永遠の伴侶」と言っているが、まさに、互いに近いところがあるからであろう。
事実、我々も、他の動植物を補食し、そのために飼育するということをやっている。だから、その「捕食」ということを通して、彼らのあり方を推測することは、十分可能のはずである。また、我々は、彼らの「心」そのものを与えられている。ということは、逆に言えば、それを通して、彼らの「心」を、類推するとっかかりがあるということである。やはりドンファンが、「彼らの心は、粗野で矛盾だらけで、陰気だ。そして、いまにも見つかってしまうのではないかという恐怖に満ちている」と言っているが、まさに、そのような性質も、我々自身の「心」を顧みれば、十分予測がつくというものである。その意味では、彼らも、「たかが知れる」ところがあるのである。
このように、彼らを、「補食者」として、あるがまに認めるとは、単純に、人間の上に立つ、手に負えない存在を、認めることだけを意味するのではない。それは、本来、彼らが、知られたくないことを、知ることであり、彼らの戦略にとっては、大きな痛手となるものである。彼らは、むしろ、自分らには、恐怖と想像力によって、いつまでも、(「悪魔」でも「宇宙人」でも)「投影」を続けていてほしいのである。あるいは、むしろ、意識レベルでは、彼らの存在など、「あり得ない」ものにしておきたいのである。その方が、戦略的に都合がよいからである。
初めは、「補食者」という捉え方自体が、なじみがないために、かなり「おどろおどろしい」ものに見えるかもしれない。が、冷静に考えれば、それは、むしろ、事実に即した、客観的なもので、観念的なイメージを廃するものであることが、分かるはずである。また、我々自身とも深く関わる「身近」なものとして、「受け入れ」ざるを得なくなるはずのものである。(むやみに、反発したり、排除しようとすることには、意味がない。)
そういう訳で、「補食者」という捉え方ができること自体が、その影響から脱する、大きな一歩なのである。
「声への対処法」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post-5c47.html)のところでも述べたが、彼らの「戦略的」なあり方に気づくことが、その要である。
特に、彼らが言ったり、仕掛けてくることは、真実かそうでないかが問題なのではなく、「恐怖」を生み出すための「戦略」であることに気づくことである。そうすれば、それを「真に受ける」必要もなく、また、変に「気をもむ」必要もないことが分かる。彼らの「戦略的」な在り方の、多くが、それにより、見えてくる。そして、彼らは、我々に対する、多くのとっかかりを失うことになる。
とはいえ、これらは、まさしく、「第一歩」に過ぎない。彼らの影響を本当に脱しようとすることは、結局、我々自身の「心」(外来の心)を脱するということである。つまり、もはや、我々の血肉と化している、「心」そのものを、手放すということである。それは、また、この「世知辛い」世の中で、敗北してすみっこに追いやられている、か弱い「本来の心」だけで、生きて行くということを意味している。それは、決して容易なことではないし、そもそも、誰もが望めることではない。
しかし、たとえば、分裂病的状況に遭遇するなど、少なくとも、ごまかしがきかない形で、(意識にはっきりした痕跡を残す形で)「補食者」との接触を間近にした者は、それとの「折り合い」を必要とする状況に立ち至ったというべきである。つまり、その者は、上に述べたような、「第一歩」を踏み出さざるを得ない状況に、立ち至ったということなのである。
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