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2008年7月

2008年7月30日 (水)

まとめ-「補食者」について

わしが言っているのは、われわれが相対しているのは単純な捕食者ではないということだ。そいつはすごく頭が切れるし、てきぱきと仕事をこなす。組織的な方法にしたがってわれわれを無能にする。不思議な存在になるよう運命づけられている人間は、もはや不思議な存在ではなくなってしまう。どこにでもころがっている肉片にすぎなくなる。人間にとって夢はもうどこにも存在しない。あるのはただ肉にするために飼育される動物の夢だけだ。くだらん、ありふれた、愚かしい夢だ
       (カルロス・カスタネダ著『無限の本質』 p.279)

ここでは、「補食者」について、簡単なまとめだけをしておきたい。箇条書き風にまとめて、簡単なコメントを付しておく。

1 我々人間の葛藤や苦痛から発する(感情的、エーテル的)エネルギーを「補食」する、「見えない」存在である

「補食」といっても、人間や他の動物のように、物理的な成分を捕食するわけではない。彼らは、物理的な存在ではないからである。しかし、彼らも、エーテル的な「身体性」をもった存在である以上、新陳代謝をし、栄養源を必要とする。

人間も、意識を有する存在だが、肉体という、さらに強度の制限の中に縛られている。いわば初めから、葛藤と苦痛を予定された存在である。彼らは、そこにつけ込んで、その間の「摩擦」を拡大しようとする。そして、そこから、発される「熱」(感情的、エーテル的エネルギー)を、栄養源として、捕食するのである。

2 特に、「恐怖」から発するエネルギーを好む

明らかに、「恐怖」を好み、「恐怖」を生み出すことに、専念する。恐らく、「恐怖」という感情は、もっとも強烈なエネルギーを有し、葛藤を持続させる基盤だからである。それは、思考や創造力を果てしなく膨らませ、多様に展開させる。分裂病者の「奇怪」で、「多彩」な「妄想」も、要は、そこから生じている。文化的には、「天国」が、一様で平坦なのに対して、「地獄」は、異様な深みと、多様な広がりのあるイメージであることが、それを証明している。

3 「補食」のために、我々人間を組織的に「管理」し、「支配」する

一般に、「支配」や「管理」といえば、「征服」とか、「破壊」が目的のように連想され易い。実際、何らかの支配者的な存在を察知した、分裂病者の「妄想」も、そのような方向に行ってしまい易い。しかし、彼らは、文字通り、「補食」のために、我々を管理・支配するのである。つまり、彼らは、我々が食用のために家畜を飼うのと同じように、我々を「飼育」するということである。ただし、その支配、管理のやり方は、人間の場合以上に堂が入っていて、冷酷かつ戦略的である。

4 「信念体系」や、「欲望」「感情」を通して、「心理」的に支配する

彼らは、我々を(「心」の内部を含めて)意識レベルで、明確に知覚している。が、我々は、彼らを、ほとんど意識下で、無意識的に知覚するのがやっとである。彼らは、我々の心を手に取るように「見ている」ので、それに働きかけることができるが、我々は、ほとんど、そのことを知る由がないということである。そこで、彼らの「支配」「管理」は、我々の無意識的な「心」を通して行われる。具体的には、善悪その他の様々な「信念体系」、「欲望」「感情」などを、植え付けることを通して行われる。

5 さらに、 彼らの「心」そのものを与えて、根源的に支配する

しかし、彼らは、単に外から、間接的に影響を与えることで、支配するというだけではない。彼らは、彼らの「心」そのものを我々に与えて、いわば、内から直接に支配するという、手の込んだやり方をとった。もはや、人間の「進化」そのものに、彼らが、分かちがたく組み込まれているということである。あるいは、人間にとって、「補食者」とは、ほとんど、「内なる存在」と化したということである。そして、同時に、人間は、そのような2つの心を通して、より強烈に、葛藤するほかなくなった。

分裂病者が、他人の内心の「声」を聞くことがあるが、それは、明らかに、その「外来の心」に発したものである。それは、陰湿な攻撃性と否定性に満ちている。表にはっきりと現れることは、少ないにしても、そこでは、その「本性」が露わにされている。あるいは、その「心」は、生みの親である「補食者」の、道具のようなものともいえる。だから、彼らは、それを、いくらでも、増幅させるようにして、発現させることができるのである。

6 その「克服」、あるいは影響を「脱する」ことに向けては、彼らを、「補食者」として、あるがままに認めて、「受け入れる」ことが第一歩である

これについては、多少多めにコメントしておく。

彼らの戦略そのものが、人間に知られず、その影響力を行使するということなので、これまで、人間には、それとして「知られる」ことが、ほとんどなかったのも、仕方がない。文化的には、「悪魔」「鬼」などとして、ある程度その存在を示唆するものは流布しているが、これらも、人間がその回りに勝手に築き上げたイメージに過ぎない。あるいは、そのような、イメージの流布自体が、彼らの戦略の一部ともいえる。それらは、人間の「恐怖」や「混乱」を拡大しはするが、彼らの本質を、何ら明らかにするものではないからである。

分裂病の「妄想」でも、そこに何か超越的なものを察知した者は、既製の観念で、「神」や「悪魔」、「宇宙人」などとして表現する。が、それは明らかに、内容とちぐはぐな、不自然なものとなる。「妄想」自体には、幻覚などを通して、それなりに、彼らの性質を伝えるあるものが含まれている。が、それを、無理やり、「既成の観念」で埋めようとしたため、ちくはぐで、不自然になるのである。それは、「補食者」として捉えられて、初めて、(その恐怖に満ちた奇怪な内容も含めて)いくらかなりとも、意味をもつものというべきである。

要するに、彼らは、人間が勝手に想像するように、あるいは、投影するように、「悪」の権化なのでもなければ、「破壊」の使者なのでもなく、ましてや、「おどろおどろしい」「怪物」なのでもない。

彼らは、「戦略」に長けた、「合理的」な存在なのであり、我々と同じように、「食糧」を必要とし、そのために、汲々としている。ただ、そのために、人間を支配・管理する方法を洗練させたので、それに人間が翻弄されているというだけである。「未知」の性質を有すとはいえ、我々人間から、遠いものでもなければ、推測のつかない代物でもないのである
ドンファンも、彼らを「永遠の伴侶」と言っているが、まさに、互いに近いところがあるからであろう。

事実、我々も、他の動植物を補食し、そのために飼育するということをやっている。だから、その「捕食」ということを通して、彼らのあり方を推測することは、十分可能のはずである。また、我々は、彼らの「心」そのものを与えられている。ということは、逆に言えば、それを通して、彼らの「心」を、類推するとっかかりがあるということである。やはりドンファンが、「彼らの心は、粗野で矛盾だらけで、陰気だ。そして、いまにも見つかってしまうのではないかという恐怖に満ちている」と言っているが、まさに、そのような性質も、我々自身の「心」を顧みれば、十分予測がつくというものである。その意味では、彼らも、「たかが知れる」ところがあるのである。

このように、彼らを、「補食者」として、あるがまに認めるとは、単純に、人間の上に立つ、手に負えない存在を、認めることだけを意味するのではない。それは、本来、彼らが、知られたくないことを、知ることであり、彼らの戦略にとっては、大きな痛手となるものである。彼らは、むしろ、自分らには、恐怖と想像力によって、いつまでも、(「悪魔」でも「宇宙人」でも)「投影」を続けていてほしいのである。あるいは、むしろ、意識レベルでは、彼らの存在など、「あり得ない」ものにしておきたいのである。その方が、戦略的に都合がよいからである。

初めは、「補食者」という捉え方自体が、なじみがないために、かなり「おどろおどろしい」ものに見えるかもしれない。が、冷静に考えれば、それは、むしろ、事実に即した、客観的なもので、観念的なイメージを廃するものであることが、分かるはずである。また、我々自身とも深く関わる「身近」なものとして、「受け入れ」ざるを得なくなるはずのものである。(むやみに、反発したり、排除しようとすることには、意味がない。)

そういう訳で、「補食者」という捉え方ができること自体が、その影響から脱する、大きな一歩なのである

「声への対処法」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post-5c47.html)のところでも述べたが、彼らの「戦略的」なあり方に気づくことが、その要である

特に、彼らが言ったり、仕掛けてくることは、真実かそうでないかが問題なのではなく、「恐怖」を生み出すための「戦略」であることに気づくことである。そうすれば、それを「真に受ける」必要もなく、また、変に「気をもむ」必要もないことが分かる。彼らの「戦略的」な在り方の、多くが、それにより、見えてくる。そして、彼らは、我々に対する、多くのとっかかりを失うことになる。

とはいえ、これらは、まさしく、「第一歩」に過ぎない。彼らの影響を本当に脱しようとすることは、結局、我々自身の「心」(外来の心)を脱するということである。つまり、もはや、我々の血肉と化している、「心」そのものを、手放すということである。それは、また、この「世知辛い」世の中で、敗北してすみっこに追いやられている、か弱い「本来の心」だけで、生きて行くということを意味している。それは、決して容易なことではないし、そもそも、誰もが望めることではない。

しかし、たとえば、分裂病的状況に遭遇するなど、少なくとも、ごまかしがきかない形で、(意識にはっきりした痕跡を残す形で)「補食者」との接触を間近にした者は、それとの「折り合い」を必要とする状況に立ち至ったというべきである。つまり、その者は、上に述べたような、「第一歩」を踏み出さざるを得ない状況に、立ち至ったということなのである。

2008年7月10日 (木)

『魂の体外旅行』-「ルーシュ」の生産

3のロバート・モンロー著 『魂の体外旅行』(日本教文社)について。

意識または霊的身体が肉体を抜け出る、「体外離脱」という現象は、偶発的には、「臨死体験」などで、よく起こることが知られている。しかし、ロバート・モンローは、これを意志的に行うことで、さまさまな体験をした者である。後に、「ヘミシンク」という音響効果を使って、類似の意識体験を誘発する方法を編み出したことでも有名である。

この本では、モンローが、体外離脱中に体験した、さまざまな事柄が述べられている。その内容は、用語などが新奇で、分かりづらいものもある(翻訳の問題もあるかもしれない)。が、これも、「補食者」の場合と同じく、これまでの既製の観念に縛られないという意味では、望ましい面もあろう。

その中に、「インスペックス」と呼ぶ知的生命体を通して「知っ」たこととして、「ルーシュ」の話が出てくる。

ここでも、やはり、人間という存在が、「補食」の対象として前面に出てくる。ただ、これまでは、「捕食者」という特定の「存在」に注目していたのに対し、この話では、そのような「補食」のシステムが、宇宙全体でどのような意味をもつかが問題とされる。実際、「補食」ということを問題にする限り、どうしても、このようなことも、問題とせざるを得ないはずである。

宇宙の「補食」のシステムとは、要するに、全体として、宇宙または宇宙に生きる生命体が活動して行くために、必要とされる「エネルギー循環」のことにほかならない。「ルーシュ」というのは、その宇宙全体を動かして行くための、効率の良い「燃料」というほどの意味である。そして、宇宙全体にとって、その「ルーシュ」生産の要となるのが、人間という、肉体と意識を有する存在なのである。

物理的にも、宇宙は本来、「エントロピー増大」の法則で、放っておけば、「熱的死」といわれる「一様」な状態に至るとされる。よく、部屋を掃除しないで放っておけば、乱雑さが増すこと。一滴のインクを水に垂らせば、一様に溶け込んでしまうことにたとえられる。そのような状態を阻止するには、その法則に逆らって、それなりの「仕事」がなされなければならない。

これは、あくまでたとえだが、「ルーシュ」というのは、この場合の「仕事」に相当するものといえる。つまり、宇宙全体の活動状態(低エントロピー状態)を維持するための、一種の「犠牲」的な労力ということである。人間は、そのような役目を負わされている、というよりも、むしろ、そのためにこそ創造されたということにもなる。

カスタネダのドンファンも、「捕食者」は、宇宙の本質的一部であり、人間は、意識ある存在として、宇宙そのものの探索のための道具となる、ということが述べられていた。しかし、ここでは、もっと端的かつ具体的に、宇宙全体が人間に対してなしたことが述べられている。

―「誰か」と呼ばれる、「宇宙の創造に関わる者」たちは、様々に、宇宙の活動のために効率の良い「ルーシュ」の生産方法を試した。が、その結果、結局、人間から、苦痛と葛藤のエネルギーを抽出することが、その最も効率の良い方法であることが判明したという。それは、初め、人間同士の争いから、良質の「ルーシュ」が採取されることから分かった。次に「誰か」は、自らの一部を人間に注入したみた。すると、人間は、それとの完全な「一体性」を求めて、より強く葛藤し、さらに良質の「ルーシュ」が採取された。さらには、「男女」を分断することによって、いわば引き裂かれた人間から、さらに良質の「ルーシュ」が採取されることとなった。

そのような、様々な試行の結果、現在は、この「誰か」を見習った(あるいは「任された」)「ルーシュ」の「収集役」が、「地球の管理者」として、独自に、効率的な収集を行っているという。それは、「愛」「友情」「家族」「欲望」「憎しみ」…「国家」「戦争」「飢餓」などを通して、行われる。―

要するに、人間を、より「分裂」した状態におき、「達成不可能な欲望」を植え込むど、苦痛や葛藤が、より強烈で深刻であるほど、宇宙全体にとって、効率の良い「ルーシュ」となるというのである。そのようなことを通して、宇宙全体に、活動状態維持のための、「燃料」が供給されるということである。

また、「補食者」ということでは、ここでは、現在の「ルーシュの収集役」または「地球の管理役」として登場しているものが、それに当たるだろう。しかし、もちろん、すべての宇宙の存在が、「補食者」的であるということなのである。

これらは、一見奇異に聞こえるが、前回みたように、宇宙一般の霊的存在にとって、人間の苦痛から発する感情エネルギーが、「食糧」または「資源」となるということであれば、その延長上に、理解できることではあるはずである。かなり、一面的ではあるが、要するに、突き詰めればそういうことになるということは、否定できないと思われる。

カスタネダと同様、モンローも、この話を聞いて、強いショックを受けて、しばらくは、立ち直れなかったという。確かに、このような話は、ショックには違いないだろう。が、冷静に考えると、それは、決して「補食」というシステム全体に関わるものではないことが分かる。我々は、現に他の動植物に対して「補食者」として立っているのであり、「補食」というシステムがあること自体は、疑いようのない現実として受け入れている。だから、その点について、いまさらショックを受ける理由はない。

それは、要するに、我々が「補食」の頂点に立つものではなかった、ということに関わるのであって、逆に言えば、それは、単に、我々が(「井の中の蛙のように」)補食の頂点に立つと思い込んでいたことの、反動に過ぎないともいえるのである。

また、この話にも、我々人間自身が、いわば「創造された」「創造者」なのだという話が出てくる。このようなシステムの創始者である「誰か」とは、まさに、その一部を注入された、一種の「分身」でもある、「我々自身」ということにもなるのである。決して、人間が、一方的、他律的に、「被害者」的な立場にいるものとばかりは、いえないのである。

我々自身もまた、現在、高度にシステム的な、産業社会を築いているが、これは、まさにここで述べられた、宇宙的「ルーシュ」生産システムの「ミニチュア」版のようなものともいえる。まさに、我々自身、同様なことをしでかしてもいるのである。

(そのシステムの中では、一見些細で意味のない仕事も、全システムの存続に、何らかの意味で貢献しているのが明らかである。それと同じように、この宇宙の中で、さまざまに苦悩し、葛藤することは、全体としての宇宙の存続に、大いに貢献していることになる!)

ただ、この話では、結局、その「ルーシュ」による「宇宙のエネルギー循環」は、何のためになされるのか――端的には「宇宙の存在目的」――ということには触れられていない。あるいは、そのようなものはどうあれ、何しろ、宇宙の活動状態が維持されなければならないから、そうされているだけなのだというのが、本当のところなのかもしれない。

しかし、やはりモンローから指導を受けた、ブルース・モーエンという人が、「ヘミシンク」を通して、体験した話として、この点について、興味深いことを述べている。(『死後探索4―人類大進化への旅』ハート出版)

それによると、初め、「創造者」である「存在者」は、自分の回りを取り巻く、得たいの知れない「大いなる未知」に恐れを抱いた。「存在者」は、その探索をしたいと思い、自らの一部を「分身」としてさまざまに集めたものを創造して、そこに飛び込ませた。ところが、それらは、「大いなる未知」に突入すると、崩壊してしまって、戻ってくることがなかった。

そこで、「存在者」は、さまざまな実験を繰り返すが、結局、それらの分身は、「無条件の愛」をもって、全体を「統一」していない限り、そこで崩壊せずに、帰ってくることができないことが分かったという。

かなり単純化された、「物語」のようなものではあるが、非常に示唆的ではある。「存在者(創造者)」を取り巻く「大いなる未知」とは、これまで述べてきた、「虚無」または、ドンファンのいう「無限」そのものと解される。「創造者」は、自らにとっても「未知」で、恐怖の対象である、「虚無」または「無限」の探索のために、人間その他の生命を創造した、ということになる。

しかし、その過程で、そのためには、「無条件の愛」を獲得させることが、必要なことが判明した。そこで、まずは、「無条件の愛」の獲得に向けて、いわば進化的に、迂遠な道をとらざるを得なくなったという風にも解される。

そうすると、先にみたような、「ルーシュ」生産のシステムは、まさに、この「無条件の愛」獲得に向けて、宇宙が回って行くための、外的条件のようなものといえる。しかし、それとともに、最終的には、そのシステム自体が、そこに至るめの、よくできた(あるいは、極端に迂遠な?)方策ともみなし得る。「無条件の愛」自体が、最終的には、最良の「ルーシュ」となる可能性があるからである。

しかし、それはもちろん、あくまで、「創造者」自身の「大いなる未知」の探索を、全うするために作られたシステム、ということである。

「虚無」への侵入や崩壊という、まさに分裂病の原点ともいえるような事柄が、宇宙的な創造の根本的な原因として出てくる訳である。多くの者にとっては、まったく、奇妙奇天烈な視点かもしれないが、私自身は、これまで聞いたものの中でも、最もと言ってよいほど、説得的なものを感じる。

それはともかく、いずれにしても、「補食者」という捉え方を、本当になそうとするなら、その背景となる「宇宙全体」のシステムのことにも、思いを寄せることが必要になるのは、確かなことのはずである。

2008年7月 2日 (水)

『恐怖を超えて』-捕食者的な「精霊」

次に、2ドン・ミゲル・ルイス述恐怖を超えて(コスモス・ライブラリー)について。

ミゲル・ルイスは、ドンファンと同じく、トルテックの伝統を引き継ぐシャーマンである。『4つの約束』という著書は、割と知られているようだが、この『恐怖を超えて』は、ネルソンという人が、ミゲルの言葉を編集したものである。これには、『4つの約束』にはあまり表れていない、「秘教」的な内容も、かなり詰め込まれている。

そこで、ドンファンのいう「捕食者」と、「外来の心」に類似の事柄が述べられている。

ただし、ドンファンがいう「捕食者」とは、肉体を持たない「非有機的存在」のうちの、ある特定の存在を意味していた。ところが、ミゲルは、「捕食者」という特定の存在ではなく、「盟友」と呼ぶ「精霊」または「神々」一般が、人間に対して、「捕食者」的であることを述べているのである。

たとえば、

「盟友たちは脳を欠いている。それは彼らが感情をつくりだす機能をもたないことを意味するが、自分の生命を維持するためには感情のもつエーテルエネルギーを必要とする。人類は牛が人に対してもつのと同じ関係を彼らに対してもっている。……
感情エネルギーは、私たち自身の心と、盟友たちまたは神々のための食糧を供給する。私たちはまさに神々の資源なのである。
盟友たちは人間に心の傷を作り出すよう仕向けるが、それは彼らが食糧とする恐怖を作り出すのが目的である。私たちは生まれつき、自分の夢を通じてこれらの神々によってある程度コントロールされるというハンディを負っている。……
盟友たちの圧制に抵抗するには、あなたはかれらに気づかなければならない。」


               『恐怖を超えて』 p.2~3


「精霊」または「神々」一般が、人間に対して、「捕食者」的であり、人間に「心の傷」を作るよう仕向けるというのは、かなり衝撃的なことかもしれない。しかし、いくらかの「精霊」的存在と接した私も、これには、頷かざるを得ない。(たとえ、キリスト教的に「天使」などといっても、そのような面がないとは言えない。さらに言えば、ドンファンも示唆するように、創造者である「神」そのものにすら、そのような面は否定できないのである。)

「精霊」または「神々」も、何らかのエネルギーの供給を必要としていることは、「捕食者」と同じであり、「心の傷」というのは、それらの存在にとって、人間に対して影響を及ぼそうとするときの、最も強い「とっかかり」のようなのである。

ただし、そこには、「捕食者」の場合とは、多くの違いがあるのも確かなことなので、その点は、後に述べる。

また、「外来の心」に類するものとして、「パラサイト(寄生体)」ということが述べられる。これは、やはり、人間に苦悩や葛藤をもたらす、「心」そのもの(または一種のエネルギー体)のことである。

これも、否定的な感情によってエネルギーを補填され、ウイルスのように、増殖するとされる。また、その心を人格化して表すならば、「裁判官」と「被害者」の2つに大別できる。「人を裁く」こと、または、「自己を被害者に仕立てあげること」が、その主要な性質なのである。それは、そうやって、人を「地獄的現実」に縛りつける。

『4つの約束』でも、この「パラサイト」が作り出す「地獄的現実」を、いかに脱するかがテーマとされていたが、それが、どこからくるのかについては、ほとんど触れられていなかった。ところが、この本では、それが「精霊」または「神々」によって、作り出されたものであることが、はっきり述べられる。そもそも、「パラサイト」(寄生体)という言い方自体が、それが「外部」から来て、人間に「寄生」したものであることを、示している。

たとえば、


「裁判官、犠牲者、そして信念体系または地獄の書が、一緒になって私たちの心の中に一匹のパラサイトを生み出す。そのパラサイトはエーテル的エネルギーでできた一個の生きた存在である。生き延びるために、そのパラサイトは人間の脳によって作られる感情を食糧とする。」            
    『恐怖を超えて』 p.91

「裁判官と犠牲者が神々によって私たちの意識に押し付けられた。……神々はどの子供も経験する飼い馴らしのプロセスの間に人間精神を侵略する。……神々は不正の感覚をしみこませようとする。それは精神を傷つけるナイフのようなものである。」 
   同 p.9

「バラサイトは、内なる子供と呼ぶことができる。……
私はまたパラサイトを、ルシファーまたはチャレンジャー、あるいは濃密な物質の中に入って自分が神的なものであることを忘れた最高位の天使として描写することもできる。」

                       同 p.263

ドンファンでは、「本来の心」と「外来の心」の2つ心が、葛藤と矛盾をもたらすとされた。が、それは、「外来の心」を「捕食者」からくるものに、集約したからである。ミゲルのいう、さまざまな「精霊」、「神々」によって作り出された「パラサイト」は、むしろ「複数の心」ということができる。(人間の他者の個人的または集合的な「エレメンタル」(想念)も含めれば、さらに「雑多」な心となる。)

実際、ミゲルも、そのような「心」は、「ミトーテ」という儀式にたとえられるとしている。「ミトーテ」とは、たとえば、幻覚性植物などを服用したときに現れる、「千人が同時に大声で(意味のない)話をかわす」というような、「混沌」そのものの状況を表している。(これは、まさに、「分裂病的状況」で現れるものそのものでもあるが。)

ただし、それは、否定的な意味ばかりではなく、日常的には、一見「統一」を保っているようにみえる「心」の本性を、如実にみる体験として、肯定的な意味でも言われている。そのような心の本性を自覚しない限り、それを超えようという意図も生じようがないからである。

ただ、この「複数の心」という面を強調することは、心の一貫しない、分裂した状況を言い表すには、適当かもしれないが、問題の焦点をぼかしてしまうところがある。ドンファンは、「外来の心」を、「捕食者の心」に集約することによって、単純化はしつつも、問題の焦点を明確にし、鋭く絞り込んだのだと言える。

ドンファンのいう、「捕食者」そのものと、ミゲルのいうような、「捕食者」的な性質を有する「精霊」一般との関係も、ほぼ同じように解することができる。「精霊」一般に、「捕食者」的な性質があるのは確かだとしても、「捕食者」というのは、専らその性質を強く、鋭く体現する存在として、やはり「特別」なのである。

具体的には、私は、次のように対比できると思う

「精霊」一般も、確かに、人間の否定的な感情、特に恐怖の感情を「捕食」する。しかし、肯定的感情(たとえば喜び、高揚感など)を好むものも多いようである。「精霊」一般は、人間の感情的エネルギーを「捕食」するにしても、特に否定的な感情に絞るということはなく、その時の状況で、いわば気まぐれに「捕食」する。

しかし、「捕食者」は、明らかに、否定的感情それも特に「恐怖」を、いわば「主食」にしているのであり、他の感情を「食う」としても、それは、あくまで、それを際立たせる、「おかず」のようなものとしてなのである。そして、「捕食者」は、人間に、そのような否定的感情を作り出すために、組織的、体系的に、戦略的手段をもって当たっている。

さらに、同じようなことだが、「精霊」一般は、特にその「捕食」のために、人間を組織的に管理・支配するというような発想には立ってはいない。しかし、「捕食者」は、明らかに、人間を組織的に管理・支配することで、その目的を達しようとしている。少なくとも、主観的には、彼らが人間を管理・支配するという意味で、上に立つものと自覚していることは、明らかと思われる。

そういう訳で、「捕食者」を捉えるうえでも、ミゲルも言うように、「精霊」一般の「捕食者」的な性質を無視することはできないのは確かだといえる。つまり、「捕食者」に限らず、人間の、そのような存在一般に対する関係というのは、決して「容易」なものではないことは、はっきり押さえておかなくてはならない。

しかし、やはり、我々の現実の「心」の問題をはっきり浮かび上がらせるのには、より強力かつ組織的に人間に関わる、「捕食者」に問題を絞るのが、適当と思われる。あるいは、それによって、十分、「精霊」一般の問題も含ませることができるのである。

そこで、そのようなことは一応押さえたうえで、これ以後も、問題を「捕食者」に絞って述べることにする。

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