「捕食者」についての本―『無限の本質』
注)「捕食者」について記述された数少ない本を紹介する重要な記事です。
既に述べたように、「捕食者」という捉え方は、これまで文化的、歴史的にもほとんどなされてこなかったし、多くの者にとって、なじみのないものであるはずである。
しかし、人間が、人間的な利害や善悪などの観念を交えず、事実に即して、この存在をあるがままに捉えようとするなら、「捕食者」という捉え方が、是非とも必要と思われる。「捕食者との折り合い」というテーマにしても、「捕食者」という捉え方が可能(認められる)かどうかが、かなりの重点を占めるのである。
この点では、一神教的な文化圏は、「神」と「悪魔」または「善」と「悪」という対立に縛られて、また、人間こそが、「神の似姿」として創造され、他の被造物に君臨するという発想に縛られて、人間の上に立つ「捕食者」という発想を受け入れる基盤は、ないに等しいといえる。
「近代社会」は、そのような「一神教的発想」によって築かれたものなので、「捕食者」という発想には、全くなじまない。さらに、物質的なものだけが存在するという「唯物論」的な発想が生じてくると、「捕食」というのも、物質的な観点からだけみられるので、「捕食者」という発想をいれる余地はなくなる。
「捕食者」とは、物質的なものだけでなく、精神的、霊的なエネルギーを含めた、「宇宙」の全体としての「捕食」(エネルギー循環)のシステムにおいて、上に立つものという意味なのである。
そういう訳で、現在、一般に、たとえば本などによっても、正面から「捕食者」について書かれたものを見いだすことは、ほとんどできないはずである。
しかし、私が知る限り、そういった内容を含むものを、いくつかあげることはできる。
1 カルロス・カスタネダ著 『無限の本質』(二見書房)
2 ドン・ミゲル・ルイス述 『恐怖を超えて』(コスモス・ライブラリー)
3 ロバート・モンロー著 『魂の体外旅行』(日本教文社)
1の『無限の本質』は、これらの中でも、最も集約的に、しかも体験に基づいて、端的に「捕食者」についての「真実」が述べられていると感じられるものである。
これは、古代メキシコの秘教的(呪術師)集団、トルテックの伝統を引き継ぐ、カスタネダの師ドンファンが、「捕食者」について語ったものである。現在のところ、ここまでの内容が述べられたものは、他に見いだすことはできないと思う。
カスタネダは、これまで、ドンファンの個人的な教えや、トルテックの伝統的な知識を伝えてきた訳だが、この遺作において、初めて「捕食者」のことが、正面から取り上げられる。そこで、古代トルテックにとって、「捕食者」というのは、最も重大な関心事で、「主題中の主題」とみなされたということが明らかにされるのである。
(カスタネダは、ドンファンから「捕食者」の話を聞いて、人類学者として、他の文化圏にも「捕食者」のことが伝えられているか文献で調べたが、見つけることはできなかったという。)
カスタネダの師ドンファンについては、その実在が疑われもする。が、2の著者で、やはりトルテックの伝統を受け継ぐメキシコのミゲル・ルイスというシャーマンも、トルテックに伝わる重要な知識として、「捕食者」に類することを述べている。だから、古代トルテックにとって、これが「主題中の主題」とみなされたこと自体は、疑いがないと思われる。
わたし自身は、「捕食者」のことに限らず、カスタネダの伝えるドンファンの教えや、体験内容の「具体性」、「真実性」からして、少なくともドンファンのモデルとなった人物がいたことは、間違いないと思っている。
この本では、「捕食者」については、後半の部分で初めて述べられ、前半では、その伏線のようなものが張られている。特に、人間には「二つの心」があり、本来の「心」と、外から与えられた、「外来の心」に分かれていて、それらが様々な葛藤をもたらすことが述べられる。ただし、本来の「心」は、敗北して、すみっこに追いやられており、人間が何かなすときの心は、すべて「外来の心」になっている。そして、その「外来の心」というのは、なすことすべてを、結局は、いかに「愚か」で「無意味」なものにするかが、示されるのである。
(その象徴のような「話」として、マダム・ルドミラという娼婦の「鏡の前の踊り」という話が出てくる。カスタネダは、友人に連れられて、その娼婦のところに行き、是非見ておけという「鏡の前の踊り」を見る。彼女は、おそらく悦に入りながら、その踊りを何度も繰り返す。が、カスタネダは、そこで、何ともいえぬ絶望的な感覚に襲われて、逃げ出してきてしまう。ドンファンは、その話は、多くの者の心の琴線に触れるものだという。そして、誰でもいいから、お前の回りの者を思い浮かべてみれば、その者の行為は、結局は、マダムミドルラの「鏡の前の踊り」と同じ、「無意味」な行為であることが分かるはずだという。人は、誰であれ、マダム・ルドミラと同様、「鏡の前の無意味な踊り」をしていることに変わりはないというのである。)
そうして、後半では、その「外来の心」こそが、「捕食者」から与えられたものであることが明らかにされる。そして、「捕食者」という存在のことが、いろいろと明かされる。
つまり、「捕食者」というのは、何も特殊で、どこか遠くに存在するものではなく、我々の「心」そのものとして、ごく身近に住み着き、働いているものであるということである。そして、それこそが、人間のさまざまな矛盾や葛藤の根にあるもので、それは、我々をいかに、「愚か」で「無意味」な行為に駆り立てているかということである。
だから、ドンファンが、「捕食者」について述べるのは、あくまで、そのような現状を脱しようと意図させることに意味がある。「捕食者」についての認識は、結局は、いかにその「心」を脱し、あるいは、その影響を脱する(「食われ」ないようになる)かということにおいてこそ、意味をなすというべきなのである。
さらには、この「外来の心」を破壊する力として、「無限」という「不可知」のものが述べられている。「外来の心」を脱するということにおいては、この「無限」との関わりもまた、重要な側面となる。「呪術師」は、最終的には、この「無限」と一体となるべく旅をするものとされる。この「無限」は、タイトルにもなっているものだが、基本的に、これまで述べてきた「虚無」と同じものと解される。
前回、多くの者は、潜在的には、「捕食者」との「折り合い」がとれているいからこそ、「集団性」に適応できるのだと言った。しかし、この場合の「折り合い」とは、恐怖または利害に基づく、一種の無意識的な「服従」なのであり、真の「折り合い」からは程遠い。それは、むしろ、「捕食者」の「集団」的な支配に、自ら屈するということである。そして、その「服従」的な「折り合い」というのは、まさにこの、「捕食者」によって与えられた、「外来の心」を通じてこそ行われるのである。
しかし、分裂病予備軍の者は、そのような「外来の心」が、少なくとも、多くの者ほどには、発達していない者だということができる。そのために、「集団性」や「捕食者」との間に、緊張関係も生じ易い訳である。
そのような者が、「分裂病的状況」で生じる「錯乱」や「妄想」などの反応は、その意味では、もともと「脆弱」であった(外来の)「心」が、まさに崩れかかるような、限界状況においてみせる、「悪あがき」のようなものといえる。
だから、それは、前に言ったように、傍から見ても、「愚かさ」の集大成のようなものになる。まさに、それは、先にみた、「外来の心」の「愚か」さや「無意味」さが、極端なほどに、現れ出ている状況なのである。
ところが、もしその者が、そのような状況の自分を客観視することができるならば、それは、その「外来の心」の「愚かさ」や「無意味さ」を、いやというほど痛感できる、またとない機会ということでもある。さらに、「捕食者」の嫌気の指すような「攻撃」にさらされ続ければ、いやでも、その支配や影響から脱したいという動機づけを生じる機会になる。また、非常に否定的な形ではあるかもしれないが、「虚無」として、「無限」との何らかの関わりを生じているという意味でも、そこには、通じるものがあるはずである。
そういう訳で、カスタネダの『無限の本質』での、「捕食者」の影響を脱するという方向をみすえた、「捕食者」の説明(捉え方)は、多くの者にとっては、違和感や受け入れ難いだけのものであるかもしれない。しかし、「分裂病的状況」を体験し、何らかの形で「捕食者」や「無限」と向き合った経験のある者にとっては、切実で、共感し得るものとなり得ると思われるのである。
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