« 2008年3月 | トップページ | 2008年6月 »

2008年5月

2008年5月 7日 (水)

「集団性」との「折り合い」

分裂病予備軍の者は、「集団性」への違和感のようなものを、ずっと抱えて成長する。

それは、恐らく、前にも取りあげた、精神分析家のラカンがいうように、幼児期に、母親との二者関係から、「集団」世界への移行が、うまくいかなかったためでもあろう。

しかし、この、一口に「集団性」への「移行」というのも、本質的には、非常に謎めいた、ブラックボックス的なものである。「集団性」なるものは、表面的には、要するに「人の集合」なのだとしても、実質的には、とてもそれに尽くせない、あるものがある。その「あるもの」を「受容」し、「身につける」とは、どういうことなのか。そのような過程が、どのようにしてなされるのかは、ほとんど不明だからである。

ラカンは、そのような移行にとって本質的なものは、「他者」としての「言語」なのだという。確かに、「言語」は、それ自体が集団を規定する、「他者」的な「権威」であり、「秩序」といえる。しかし、私は、何にせよ、そのような「権威」の背景には、「捕食者」の具体的な「力」が潜んでいるとしか思えない。

いずれにせよ、分裂病予備軍の者にとっても、「集団性」とは、単なる「人の集合」などではない。彼は、そこ(またはその背後)に、実際、何か謎めいた、異質なものを「予感」せざるを得ないのであり、それが、「違和感」のもとになる

それは、単なる「違和感」ではなく、「反発」や「反感」へと発展することもある。ただし、分裂病予備軍の者も、「集団性」と「折り合う」こと自体を拒否している訳ではない。むしろ、その思いがあっても、それがなかなか適わないからこそ、そのことが強く意識されるのである。しかし、その「違和感」には、根本的で、どうにもしがたいものがあり、いたずらに、内的葛藤を膨らませていく。

分裂病の者が、発病する契機というのは、そのような「違和感」ないし内的な「葛藤」が、「爆発」する瞬間だということができる。それは、思春期であったり、社会生活の始まる時期であったり、いずれにしても、「集団性」ということが、今まで以上に大きなものとしてのしかかる時期である。

そこで、それまで積み重ねられてきた「折り合い」の「失敗」が、根本的に明らかになるような、一種「決定的」な出来事が起こる。そこで、それまで、「集団性」との関わりで生じていた、内的葛藤、さらにはその奥にあったものが、一気に噴出するのである。

それは、まさに根本的な「爆発」で、それまで、何とかごまかし、過ぎていた「日常性」の殻を、大きく「揺さぶる」ものとなる。さらに、そのような「爆発」と、「日常性」の殻の「崩壊」は、その背後にあった、「霊界の境域」をも開くものとなる。

しかし、ここでの問題は、とりあえず、彼は「集団性」との「折り合い」に失敗したという厳然たる事実である。

彼は、これまで、何とかごまかし、ごまかし来たが、その「集団性」と真に「折り合う」ことはなかった。それは、常に「謎めいた」ものとして、「異質」な何物かとして、彼に迫ってはいたが、決して、彼は、それと正面から「対決」したり、「理解」したうえで、「受け入れる」ということはしていなかったのである。

しかし、今や、彼を悩まし続けた、「謎めいた」何物かが、その「正体」も露わに、彼に迫って来ている。彼が、分裂病的状況で、「迫害」されると感じる、「声」にしろ、「他者」にしろ、まさに、彼が、それまで「集団性」の背後に予感していたもの、そのものである。彼の漠然と恐れていた「集団性」の背後にあるものが、今や、彼にはっきりとした「攻撃」を仕掛けてくる。その「妄想」に頻出する、「グルになって」とか、「(ネットワーク的な)組織」なども、まさに、そのような「集団性」を象徴しているのである。

しかし、彼には、さらに、その背後に、真に露わにされるべきものが待ち構えている。それは、「集団性」なるものの、真に背後にあるもの、つまり「捕食者」である。それこそ、彼が、真の意味で、これまで、「違和感」や「恐れ」を抱き続け、「受け入れる」ことができずに、葛藤を抱き続けてきた、当のものなのである

つまり、彼の問題である「集団性との折り合い」とは、本当のところ、その背後の「捕食者との折り合い」であったということである

実際、彼が、「集団性」の背後に漠然と恐れを抱いていた時から、無意識レベルでは、「捕食者」との様々な具体的「格闘」が、演じられていたはずである。そして、潜在し続けていた、その真に「受け入れ難い」当のものが、まさに分裂病的状況では、意識され得るものとして、眼前に現れ出たのである。

だから、その意味では、彼にとって、「分裂病的状況」とは、そのような根源的なものと、真に「折り合い」をつける絶好の「チャンス」ということでもある。

しかし、そもそも、そうであるならば、「集団性」にそれなりに「適応」している多くの者は、分裂病予備軍と違って、そのような「集団性」の背後にある「捕食者」と、「折り合い」がついているということになるのか。

それは、実際、そうである、といえる点があるのである。

そのようなことは、ラカンがいうように、最初には、幼児期の「集団性」への移行期に、謎めいた仕方で、なされてしまう部分が多いのかもしれない。だから、その「折り合い」がいかにつけられるのか、意識し得る者などはいない。

しかし、「集団性」への適応とは、結局は、その背後の「捕食者」の「権威」を、どこかで「受容」し、あるいは、それが自然と「身につく」ということなしには、決してあり得ないのである。つまり、それは、潜在的レベルにおいて、何らかの仕方で、背後の「捕食者」と「折り合い」がついているということがあってこそ、可能なことなのである。

そこには、一種の逆説があって、分裂病予備軍の者は、「集団性」の背後の「捕食者」を、表面上、どこかで敏感に「予感」はする。そして、それについての、漠然とした恐れをもち、その意識をも持つ。しかし、実質的には、それを明確に意識している訳ではなく、それを、潜在的に「受け入れる」ということもしていないのである。だから、彼にとっては、いだすらに、「集団性」なるものは、どこか謎めいた、恐ろしいものであり続け、しかも、受け入れ難いものであり続ける。

ところが、多くの者は、表面上、「集団性」の背後にあるものなどには、興味もないし、予想だにしない。しかし、無意識レベルの深いところでは、どこかで、「捕食者」を「知っ」ているところがあって、しかもそれは、どうにも逆らい難い「権威」として、一種「受け入れ」られてもいるのである。つまり、実質的に、彼らにとって、「集団性」は、決して謎めいたものではなく、その本当の「恐ろしさ」についても、いわば、十分「体で知っている」ところがあるのである

(私が一連の分裂病的体験を通して、最もショックを受けたことの一つは、多くの者が、無意識レベルでは、「捕食者」を何からの形で、「受け入れ」ていることを、まざまざと知ったことである。)

とういうわけで、分裂病予備軍の者にとって、「集団性」との「折り合い」とは、表面上はどのように言おうと、結局は、「捕食者」との「折り合い」ということにならざるを得ない。そして、現に「分裂病的状況」に陥った者にとっては、もはや「集団性」との折り合いとは、現に眼前に迫っている、「捕食者」との折り合い以外ではあり得ないのである。

そこで、次回は、「捕食者」との「折り合い」ということを、正面に打ち出してみる。

« 2008年3月 | トップページ | 2008年6月 »

新設ページ

ブログパーツ

2023年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

コメントの投稿について

質問の募集について

無料ブログはココログ