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2008年3月

2008年3月28日 (金)

「分裂病」と「エレメンタル」(生き霊)

前回は、「分裂病」が、一般に「憑依」といわれるものと異なることをみた。しかし、この「憑依霊」と似たものとして、<「分裂病」は「エレメンタル」の影響によるもの>という見方もある。

「エレメンタル」(「神智学」に基づく概念)とは、要するに「想念のエネルギー」が、霊的に、「人格的」な形態をとって「実体化」したものである。

霊的には、人の「想念のエネルギー」は、実際に、様々な現象を起こす具体的な「力」を有するものとみなされる。それが物理的な現象として、直接に現れる場合としては、「PK」(サイコキネシス)や「念写」などがある。

つまり、元々存在する「霊的存在」というのではなく、いわば、想念によって(一時的に)、「霊的存在」であるかのように、作り出されたものということである。日本でいう「生き霊」のようなものと言えば、分かり易いだろう。

特に、ダスカロスというキプロスのヒーラーが、『太陽の秘儀』という本(太陽出版)で、この「エレメンタル」という観点から、かなり踏み込んだ「分裂病論」を展開している。それは、自ら分裂病者に関わった経験を基にしたもので、それなりの説得力がある。

簡単に説明すると、まず、ダスカロスは、分裂病者が聞く「声」というのは、決して主観的な「幻覚」ではなく、霊的に実在するものという。実際、ダスカロス自身、その者に「同調」することによって、その同じ「声」を聞くことができるという。

つまり、分裂病者は、単に主観的な「幻想」の中にいるのではなく、実際に、霊的な現象にみまわれていることは、確かである。しかし、それは、望まずして、霊的器官である「チャクラ」が開いてしまった結果である。神秘家などは、自ら、意志的に霊的器官を発達させて、霊的なものとも、自覚的に関わる。しかし、分裂病者は、ただ、それらに翻弄されてしまっているというのである。

そのような場合に、その者が発する「波動」が低いと、それに相応する霊的「存在」が呼び寄せられる。しかし、分裂病者が聞く「声」は、実際の霊的存在である、「悪魔的存在」とか「憑依霊」のものであることは少ない。それは、多くの場合、他者の「エレメンタル」なのである。つまり、「他者」の想念によって生み出されたものが、その者の周辺につきまとい、それに翻弄されているということである。

『太陽の秘儀』では、大体こんなことが述べられている。ただし、他の『メッセンジャー』という本では、このような「エレメンタル」は、ダスカロスが「ルシファー」と呼ぶ「悪魔的存在」によって「管理」されていると言っている。その「管理」ということの具体的内容は、必ずしも明らかにされてないが、だとすれば、このような「エレメンタル」も、少なくとも、間接的には、「霊的存在」そのものと関わっていることになる。

この「エレメンタル」という観点についてだが、私自身も、特に最初期のころ、特定の人物の「声」にまとわりつかれる状態になったことがある。それは、もちろん、私が生み出した「イメージ」というのではなく、実際に、それ自体として「外部」的に存在するものである。それはまさに、その者の「エレメンタル」であったと言ってよいと思う。実際、それは、その者の特徴をかなり備えていて、感情的な面など、「人間的」な要素が多くある。

それは、もちろん、それまでに経験のないことで、様々に混乱したし、また、人間的な感情を有するからこそ、「恐ろしい」という面もある。が、はっきり言うと、それは、それだけでは、決して、これまで述べて来たような、本当の意味での、得たいの知れない「未知」の恐怖などは、醸し出せないものでもある

また、よほど強烈な「想念」に発するものか、常に「エネルギー」を「補強」され続けない限り、そう長い間、それ自身が「力」を発し続けるというものではない。一時的に「猛威」をふるうことがあるにしても、いずれは、解消してしまうものである。要するに、それだけで、人を長い間、「分裂病状態」に陥らせることはできないというべきなのである。

実際、私の場合も、ほどなくして、それは力を失い、最終的には、「捕食者」そのものが、直接私の身辺に「姿」を現わすことになった。それで、両者の比較も、はっきりするものになった訳だが、その存在は、その時になって、急に現れたというものなのではない。それは、それ以前にも、ずっと背後にいて、様々に働きかけていたのが明らかで、「エレメンタル」が表面に現れ出ているときにも、その背後で、それなりに影響を与えていたのである。

本当に「得たいの知れない」恐ろしい面というのは、表面的に常にあるというよりも、そのように、ある間隙に、いわば、背後から忍び寄るようにして、現れ出るのである。

一般にも、「声」は、特定の誰かのものというみかけをもつ場合が多いといえる。その場合、それは確かに、表面上、このような他者の「エレメンタル」である可能性がある。

しかし、同時に、そのような「声」は、単に人間的なものとしては持ち得ない、特別の力や未知の恐れを、醸し出すことが多いのである。そして、それこそが、途方もない迫害妄想などの基になるのである。このような面は、表面的な、「エレメンタル」ということでは、とても説明のつくものではない。それは、「エレメンタル」そのものではなく、その背後に立つ「捕食者」によってこそ、醸し出されているというべきなのである。

ダスカロスも、そのような「エレメンタル」は、「悪魔的存在」によって「管理」されていると言っている。その「管理」ということが、ある目的のもとに、その「背後」に立ち、あるいは、それを「使用」するということを意味するなら、それは正しいというべきである。

ただし、何も、そういったことは、「エレメンタル」に限るものではない。「捕食者」は、(人間に好意的でない)「精霊」や、いわゆる「悪霊」など、様々な霊的な存在の「背後」に立ち、または、それらを「使用」することで、人間に関わることの方が、むしろ多いと思われる

ただ、「エレメンタル」というのは、実際に、人と人の「間」の「軋轢」をもとに、具体的に発生したものであるだけに、その者にとっては、より切実で囚われを生む要素が強いといえる。その分、「葛藤」を生み出すものとしては、より「利用」価値が高いということがいえるのだと思う。

ダスカロスは、『太陽の秘儀』では、すべての現象は、「エレメンタル」(想念のエネルギー)によって起こるということを、一般的に言おうとする文脈の中で、分裂病の問題にも触れている。それで、恐らく、そこでは、「エレメンタル」という観点からのみ述べるに止まったものと解される。決して、「エレメンタル」のみで理解できるという趣旨ではないと思われるのである。

そういう訳で、<分裂病は他者の「エレメンタル」による>という見方も、結局は、「憑依」の場合と同じことがいえる。つまり、表面上は正しいことがあるにしても、分裂病を理解するうえでは、実際には、あまり意味をなさないものというべきなのである。

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