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2008年2月11日 (月)

「声」への対処法

注)正面から「声」への対処法を論じた重要な記事です。

前回区別したような、「分裂病的状況」で聞かれる、「声」についての対処法である。

「対処法」といっても、結局は、そのような「声」の、影響を受けなくなるということにつきる。そのような「声」の影響を受けることによって、「妄想」、「錯乱」、「被支配感」その他の問題が生じるので、それに影響を受けなくなれば、実質的には問題はないのである。また、「声」の方でも、その者が影響を受けなくなれば、もはや無闇に、無意味な「仕掛け」をしてはこなくなるのである。

しかし、一般には、そのような「声」については、それが「忌避」され、聞かなくなること、または取り除くことが、目指される。「治療」というのも、まさに、そのようなものを「症状」として、取り去ろうとするのである。確かに、それで「声」を聞かなくなることに成功すれば、とりあえずは、問題が生じなくなる可能性がある。しかし、再び「声」を聞き始たときに、また、「妄想」その他の問題を生じるというのであれば、本当に対処したことにはならない。

「声」の影響を受けなくなれば、「取り除く」までもなく、自然に「声」を聞かなくなる(少なくとも、その頻度は大幅に減少する)のだから、対処法としては、その方が勝っているのは明らかである。

ただし、「影響を受けなくなる」とは、一旦は、「影響を受ける」ということを意味してもいる。初めから、「影響を受けない」ことが、目指されるのではないし、そんなことは、ほとんど不可能なのである。

また、それはあくまで、そのような、「声」との「付き合い」または「格闘」を通してこそ、「抵抗力」や、さらには、何ほどかの「理解」を得るということで、達せられるものなのである。そのようなこと抜きに、「影響を受けなく」なるということが、可能なわけではない。

そもそも、そのような「声」は、それまでの経験に照らしても、「未知」のもので、その延長上では対処し得ないものであったからこそ、「妄想」、「錯乱」のような、かつてない「反応」を、生じさせるのであった。そのような、「未知」のものに、人間が全く影響を受けないということは、困難である。

また、「声」の側でも、我々の「弱点」と「恐れ」を、巧妙について、「影響力」を行使して来るので、その戦略や、やり方を知らずして、初めから影響を受けないということは、まず考えられないのである。

何しろ、そのような「声」に、一旦は振り回されて、痛い目に会うとしても、それとの「格闘」を通して、自分なりに、確認していくことでしか、本当には身につかないのが、「対処法」なのだといえる

とはいえ、それは、もちろん、その「敵」に出会う前には、何も知っているべきではない、ということを意味するわけではない。

むしろ、「敵」はそれだけ侮りがたいので、バランスとしても、このような「声」の特徴や「対処法」について、予め知っているぐらいで、やっと、「つりあい」がとれる(かもしれない)くらいのものと心得るべきである。

どのみち、単なる観念的な「知識」だけで、対処し得るようなものではないので、それは、事実上、「苦闘」の中で、確認していくことによって、やっと実際に「使える」ものになるはずである。

実際、以下に述べる「対処法」は、ある意味、「単純」極まりないものだが、実際の状況下で、容易に「実行」できるというものではない。しかし、実際の状況下で、その意味が十分に納得できるものになれば、それはもはや、かなりの程度「声」の影響力を脱したことを意味する。現実に「未知」の状況にあることから来る、特有の困難さは、依然あるとしても、もはや、ことさらに、「声」によって振り回されたり、支配されるようなことはなくなるはずである。

以下、そのように、「声」に「影響を受けなくなる」ための、いくつかの具体的な対処法をあげてみる。

1 「声」のいうことを、「真に受けない」こと。
2 ことさらに、「怖がらない」こと
3 「依存」を断ち切ること


1 まずは、「声」のいうことを、「真に受けない」ことである

執拗な「声」の攻撃に、「反発」したり、「逆ら」えばいいというものではない。そのような反応も、また、「声」のいうことを、「真に受け」てしまっている部分があることを示しているからである。むしろ、流行りの言葉風に言えば、「右から左に受け流す」ことである。

但し、場合によっては、毅然とした態度で、「声」の言うことを聞く意思のないことを、示す必要のある場合もあるだろう。

「妄想」というものは、多かれ少なかれ、「声」のいうことを「真に受ける」ことに発している。それは、それだけ「声」というものが、特別の「力」を帯びて感じられ、また「真実味」を帯びて感じられてしまうことによっている。

これは、一つには、やはり我々が、何か「未知のもの」、「力」あるものに接したときには、心のどこかで、一種の「無力感」あるいは「依存」を生じ、それが、いうことを「真に受ける」しかないと思わせる傾向を生むのだと思う。

このようなことは、「声」を、意識上は、特に通常の人間のものと区別できないでいる場合にも、いえることには注意すべきである。というのは、もし、本当に目の前の人間自身が言ったのであれば、まともに相手にはしなかったような内容の言葉も、この「声」が発する場合には、どこかで、素通りされるように、「真に受け」られてしまっているからである。

そこには、やはり、無意識のうちに、「声」の特別な「力」を感じ取って、「真に受ける」ことをしてしまっているところがあるのである。

ただし、その「声」のいうことの「真実味」というのは、そのように、特別の「力」を予感させることからのみ、生まれているわけではない。それは、実際に、その者の経験や内心の反応などを読み込んだうえで、周到に「仕組まれ」ている面があるのである。

たとえば、その「声」がいうことが、ただの「こけおどし」や、「デタラメ」で固めたものであったら、いずれ、それに対する「恐れ」も「依存」も失うことは目にみえている。しかし、それは、たとえば、本人が知らないことで、「客観的」には正しいことを、含んでいることもある。もちろん、本人が知っていたり、心の中にあることなら、それをいくらでも利用できる。その者にとって、「リアル」となりえる、「真実味」を醸し出す要素は、十分に持ち合わせているのである。

しかし、当然ながら、本当に「真実」であることを述べるだけでは、際限なく発展する「恐れ」や「混乱」は生まれない。それは、通常はあり得ないはずの、「虚偽」であることに、強い「真実味」が織り込まれるときに、生み出されるのである。あるいは、たとえ「真実」だとしても、非常に一面的な要素によって、それが捻じ曲げられるときに、生み出されていくのである

そのような「虚偽」の内容は、通常の状態では、信じられるはずもないものであるかもしれない。しかし、「分裂病的状態」では、自己と外界が明確に区分されていた、それまでの「現実」の「枠組」が大きく揺らぎ、実際に「未知」の状況が開かれる。そのように、それまでの基盤を失い、不安定で、危機的な状況では、それらも、容易には疑い得なくなるのである。

そして、さらに、そのような「虚偽」の内容は、その揺らいだ「現実」のはざまに、「幻覚」その他の方法で、「真実」であるかのように「演出」されもする。従って、一旦、その「声」のいうことを「真に受け」、それに乗せられると、いくらでも、それは、「補強」されていく可能性をはらむのである。

しかし、そのような場合にも、結局、初めは、「声」のいうことを、「真に受ける」ということに発していることに注意すべきである。表面上は、「声」のいうことに従っていないつもりでも、どこかで、「声」のいうことを「受け入れ」てしまっている部分があれば、それは既に、「真に受け」ていることになるのである。

そのように、「真に受ける」ということを断ち切りさえすれば、「声」としても、その者に影響を与える大きなとっかかりを失うことになる。「未知」の状況にあっても、ことさらに、「声」によって、振り回されることはなくなる、ということである。

さらには、「声」が、脅しめいた「攻撃的な内容」を仕掛けてくる場合でも、その内容を「真に受け」なければ、それに一々反応する必要もなくなることに注意すべきである。次に詳しくみるように、そのような攻撃的な内容も、彼らにとっては、「恐怖」を生み出すための手段でしかなく、「真意」ではないので、やはり一種の「虚偽」なのだからである。

ただ、その「真に受ける」ということは、既にみたように、ほとんど抵抗し難い、「未知」への恐れと、一種の「依存」という、容易には克服し得ないものにも基づいている。そこで、それを可能にするには、さらに次のようなことも必要になる。

2 次に、ことさら「恐れない」ことである。

結局のところ、「声」が意図しているのは、その内容を伝えたり、信じ込ませること、そのものにあるのではない。そうではなく、それらのことを通して、人間の「恐怖」と「想像力」を「際限なく」膨らませることにあるのである。その結果生じる、尽きることのない「葛藤」と「苦痛」のエネルギーを、「吸収」するためである。

ある意味で、「内容」などはどうでもいいのであって、また「虚偽」であろうと、「真実」であろうと、関わりないのである。ただ、それらは、より「恐怖」を効果的、継続的に発生させる限りで、利用されているに過ぎない。

実際、人間にとって、「恐怖」という感情ほど、「想像力」を刺激し、それを際限なく、また多様に膨らませるものはないといえる。たとえば、どこの文化でも、「天国」というものは、非常に平坦で通り一遍のものとして描かれるが、「地獄」は、非常に複雑かつ多様なものとして、また「リアル」このうえないものとして、描かれる。これは、「恐怖」という「想像力」のなせる技としか言いようがない。

つまり、他のどんな感情に比しても、「恐怖」という感情と、「想像力」から絞り出せる「エネルギー」には、ほとんど際限がないということが言えるのである。

まずは、そのようなこと、つまり、彼らの戦略的な意図が、「恐怖」という感情そのものに向けられていることを、知ることが重要である。彼らが、仕掛けて来る「攻撃」や「暗示」は、その「実質的意味」や、「内容」が問題なのではなく、我々の「恐怖」と「想像力」を膨らませること自体に、向けられているということである。

このことが分かれば、いかに「声」のいうことに「真実味」が装われ、あるいは、「示唆」的なものであっても、その「内容」自体に囚われる必要がないことが実感できる。そして、実際、そのことが本当に頷かれるならば、「恐怖」自体が大幅に減少するはずなのである。

(ただし、「未知」のものに対する「恐怖」というのは、一種本能的なものがあり、それ自体を、全くなくすことはできない。ここで問題にしているのは、それに上乗せされるように、膨らまされる「恐怖」と「想像力」なのであって、それは、ことさら、「声」による「攻撃」や「暗示」によって、拡大されている面が大きいのである。)

だから、要は、「声」の術中にはまって、「ことさら」怖がらないことである

また、実際、「恐怖」を大幅に減少できたときには、そのこと自体が、彼らにどういう効果を及ぼすかを実感することもできる。

たとえば、彼らを身近にしたとき、彼らが、我々の発する「恐怖」を「吸収」することにより、エネルギーを充填されたかのように、急速に勢いづくのは、目を見張るものがある。こちらも、その「勢い」の増大を、手に取るように、体感できるのである。しかし、同時に、我々が「恐怖」を生み出さなくなったときには、彼らが、驚くほど急激に、目に見えて、力を失うのも、また手に取るように、実感することができるのである。

そのように、「恐怖」の影響が、彼らにどう作用するかを如実に体感することができれば、彼らの戦略的意図は、もはや明確になるはずである。

そうなれば、ほとんど、「声」の術中からは、逃れたも同然である。

ただし、あえて言うならば、そのような危機的状況では、もはや、彼らの意図・戦略にすら拘らないこと、つまり、彼らの意図・戦略がどうあれ、もはや何が起ころうと、「開き直る」という面も必要ということはいえる。それができなければ、本当には、「恐怖」を脱却したことにはなり難いだろうし、また、逆にそうできれば、もはや事実上、彼らの意図などにも、そうは左右されなくなるからである。

3 最後に、「依存」を断ち切ること。 

これまで、「声」の「攻撃」的な面や、「怖がらせる」面ばかりを強調して来たかもしれない。しかし、「声」は、直接に「怖がらせる」だけでなく、ある種「甘い言葉」で、我々の「欲望」や「自尊心」を刺激することもある。(これは、前にみたように、これまで述べた「捕食者」とは「別の存在」―シュタイナーでいえば「ルシファー存在」―こそが得意とするものだが)

「声」の仕掛けというのは、決して、単純に、一枚岩的ではないのである。

「迫害妄想」ではなく、「誇大妄想」や「恋愛妄想」の基になるのは、主に「声」のそういった側面だといえる。そして、そういったものもまた、彼らの「声」に基づく場合には、非常に「突拍子」もなく、「途方もない」ものになるのが、特徴である。そういったものにもまた、特別の「真実味」や「リアル」さが織り込まれてしまうからである。

私は、このようなものも、結局は、より強烈な「恐怖」と葛藤へと「転覆」させる、「伏線」のようなものではないかと思う。が、何しろ、このような場合、「声」には、「恐怖」というよりも、むしろ「依存」を生じ易いことになろう。

「自己」や「世界」が大きく揺らぐ、危機的な状況において、「声」が、むしろ自尊心やアイデンテティを、補強してくれることになっているからである。

さらに、そのような場合に限らず、「分裂病的状況」では、「声」は、ただ恐れられるだけではなく、同時に、「依存」ということも伴っている場合が多いといえる

そもそも、「声」のいうことを「真に受け」てしまうというのは、どこかに、「依存」の要素があるからである。あるいは、それ以前に、「声」を「聞こう」と心を向けてしまうこと自体に、既に一種の「依存」が入り込んでいるともいえる。

何度も言うように、それらの「声」を聞く者は、既にどこかで、それまでに経験のない「未知」の要素を感じ取っているはずなのである。そして、「未知」なるものには、「恐怖」だけではなく、同時にまた、不思議に「魅惑」する要素がある。それは、平凡な「日常性」においては、決して味わえないものであり、深いところで、自己を「刺激」し、あるいは「高揚」させる面がある。たとえ、そこに、「恐怖」や「不安」がつきまとうとしてもである。

たとえば、分裂病の者が、いざ、「声」を「剥奪」されるとなると、むしろそれを拒むことがある、という話を聞く。それは、一つには、分裂病状態という、「孤独」で、「訳の分からない」状況において、「声」は、まがいなりにも、「慣れ親しんだ」ものだからだろう。が、そこには、「未知」のものだからこそがもつ、不思議な「魅惑」に、どこかで依存してしまっている部分があるのだと思う。

このように、「声」には魅惑する要素、「依存」する要素もあるので、それが断ち切られない限り、本当に「影響を受けなくなる」ことにはならない。ある意味では、「恐怖」という、克服さるべき性質がはっきりしているものより、こちらの方が、より厄介といえる。

また、ある程度「恐怖」が克服されてきた場合など、本当に、それから「解放」されることから、最後に足を引っ張るのは、むしろ、このような「依存」させる要素といえるかもしれない。

実際、この「依存」を断ち切るのには、「恐怖」ほどのはっきりした方法はみつからない。ただ、要は、自分がその「依存」に「気づい」ているかどうかで、そのような「依存」からは、結局は何も生まれないことを、自覚していくしかない

私の場合も、このような「依存」する、「魅惑」させられるという要素は、「恐怖」と併存するようにして、確かにあったと思う。それは、本当に、「未知」のものこそがもつ、独特のものとしか言いようがない。

ただ、私の場合、やはり体験のところで述べたように、最終的に、根源的な「闇」または「虚無」と遭遇するという体験が大きく作用したと思う。それは、そういったものの、「恐怖」させる面も、「依存」させる面も、いわば、ともに削ぎ落としてしまったところがある。一瞬のことではあるが、その瞬間、そういったものも、根源的なレベルからすれば、一種の「幻想」(「存在しない」という意味ではない)のようなものに、成り下がってしまったところがあるのである。

それは、それまでの一連の体験に、いわば「決着」をつけ、むしろ、「日常性」への回帰を方向づけるものともなったのである。このような、「非日常的」なものへの「依存」を断ち切るのには、やはり、何らかの意味で、「日常性」への回帰を方向づけるような要素が必要かと思う

そして、その場合の「日常性」への回帰とは、単に、「日常性」と「非日常性」を区別することによって、「日常的」なものが「非日常的」なものより重要になる、ということなのではない。そのようなことでは、決して、「非日常的」なものを、本当には超えられない。

それは、「日常性」と「非日常性」という区別そのものが、根本的に変わってしまうこと、あるいは、ほとんど「意味を失う」ことでなければならない。そして、それまでの「日常性」とは全く違った意味で、「日常性」が、いわば「非日常性」をも取り込むような形で、新たに蘇るということでなければならない

そして、そのためには、ある程度、それまでの一連の過程に、「決着」がつくことが必要である。つまり、そこで出会った「非日常的」なものに、(少なくとも潜在的レベルで)何ほどかの「理解」を得、態度を明確にするということがなければならない。それによってこそ、それは、「日常性」へと取り込まれることも、可能になるからである。

また、そのためには、やはり、ある程度の危険は当然伴うとしても、「未知の状況」の「深み」へと降りて行くことを、厭わないということも必要なのである。「日常性」と「非日常性」の対立を超えた、より「根源的」なものに触れるとすれば、それは、そのような「深み」においてしかないからである。

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