「幻聴の声」と「物理的な声」の区別
注)「幻聴」と出会ったときに、真っ先になすべき重要なことです。
これまでみたきたように、「妄想」にしても「つつぬけ」「さとられ」にしても、いかに「分裂病的状況」で聞かれる「声」というものが、大きく影響しているかが分かる。実際、それらは、その「声」を核として、そのまわりに築かれたようなものである。
つまり、「分裂病的状況」においては、それだけ、この「声」というものが、「強力」かつ「リアル」で、心に強く作用するということである。また、多くの場合、そのような「声」を聞くこと自体が、「分裂病的状況」へ入っていくことの、大きな契機ともなる。それは、その者のそれまのでの経験に照らしても、特別の「意味」または「力」をもって体験されるということである。
だからこそ、その「声」のまわりには、通常ではとても考えられない「解釈」が、築かれてしまうことにもなる。そのような「解釈」自体は、一種の「幻想」とみなされるにしても、そのもとにある「声」そのものは、ひとつの確かな「存在」と受け止めなければならないのである。
そういう訳で、「分裂病的状況」に対処するとは、まずもって、何よりも、このような「声」に対して、いかに対処するかということである。
実際、「分裂病的状況」では、視覚その他の知覚形態よりも、圧倒的に「声」が聞かれることが多い。そこで、まずは、なぜ、「声」なのかということについて述べよう。
分裂病的状況で、「声」が聞かれることが多いのは、「声」という知覚自体の特色からくる面もあるだろう。が、そこには、やはり、その「声」の背後にいる、「捕食者」等の霊的存在の戦略的意図があると思われる。
「声」とは、何よりも、人間の「伝達」手段であり、一つの「言葉」、「意味」である。たとえ、曖昧な「言葉」、意味のない「言葉」であっても、それは、全体として、あるいは状況との関係で、何らかの「意味」を帯びるのである。視覚等の他の知覚では、そのように、直接の「意味」を帯びるということはない。
また、「声」というのは、他の知覚より、知覚する者に対して、より「直接」的な伝達性があるといえる。それは、まさに「意味」であることからくる面もあるが、知覚の過程そのものが、直接、その者の内部へと「伝達」されるものとして感覚されるということがある。これが、視覚的な「映像」などでは、むしろその者の「外部」にあるものとして、感覚されるはずである。
さらに、「声」というのは、物理的には、空気の振動にほかならないのだが、視覚的な映像などに比べて、それとしての「実体」または「形態」というのは、明確でないということがいえる。たとえば、「見えるもの」と「見えないもの」といえば、その境界は、割合はっきりしたものが浮かぶが、「聞こえるもの」と「聞こえないもの」と言ったときには、その境界は、かなり不明確のはずである。
つまり、「声」というのは、それ自体の形態が明確ではないため、物理的な「声」とそうでない「声」(たとえば、テレパシー的な「声」)との区別というのが、曖昧になり易いのである。
そのような訳で、「声」というのは、他の知覚に比して、人に対して、より直接的で伝達的な、「影響力」をもつものということができる。それは、とりもなおさず、直接的な「意味」であり、心の内部への「浸透性」が強いのである。人間にとっては、他の知覚は無視することができても、「声」に無関心でいることは難しい。何らかの知覚を通して、直接に「影響力」を行使しようとする場合、「声」は最も効果的なものといえるのである。
さらに、「声」は、形態として曖昧で、物理的な「声」と区別がつけにくい分、それを発する側からすれば、より「匿名性」が高く、「惑わせる」要素が強いといえる。たとえば、人間の「背後」に「隠れる」ことなどによって、その「声」を発する「主体」そのものは、割合表に露出せずとも、効果を発揮することができるのである。視覚的な「映像」などでは、なかなかそうはいかない。
このようなことから、分裂病的状況での、「声」による「仕掛け」というのは、やはり「捕食者」等の霊的存在によって、戦略的に、特に「選ばれ」てなされていると思われるのである。
そこで、それへの対処法ということだが、そのためには、まず何よりも、そのような「声」と「物理的な声」を区別することが、第一の前提となる。両者を混同していたのでは、特にそのための「対処法」ということも、云々できないからである。
そのような区別は、曖昧になり易いと言ったが、実際には、一応可能であり、また、口調や内容等の違いを合わせれば、より明確になる。
まずは、このような「声」も、物理的な声に近いものとして聞こえるし、やはり外部から伝わって来る感覚があることを、確認しておかなくてはならない。そのような「声」は、頭の中で生み出されたものに過ぎないから、容易に区別できるはずだ、などと思っていたら、逆にこのような「リアル」な感覚を理解できないだろう。(むしろ、その「リアル」な感覚に翻弄されて、実際の物理的な「声」と混同してしまい易いだろう。)
ただし、これには、物理的な「声」と比べれば、やはり微妙な感覚の違いがあるのも確かである。外部から伝わる感覚はあるにしても、より「直接性」が強く、自分の「内部」に直接響いて来るような感覚なのである。それで、例えば、「頭の中に声が聞こえる」とか、(私は、「胸」のあたりに直接響くことも多かったが)、そのような言い方がされることもある。
しかし、これは、正確には、外部的に伝わっては来るが、それが、直接身体の内部に「響く」という感覚なのである。そして、このように、内部的に「響く」という感覚も、「声」が、「力」をもったものとして、あるいは「侵略性」のあるものとして、感じ取られる一要因といえる。
ただ、そのような区別は、やはり、「声」の形態だけではなく、その実質的な特徴によってこそ、よりはっきりする点がある。「声」の特徴については、既に何度も述べたが、ここでは、区別の点から、最も重要な点を、振り返っておく。
1 「圧倒させる」要素。
まず、「声」の特徴として第一にあげられるのは、「圧倒させる」要素である。これには、はっきりと、普通、人間によっては醸し出せないだけの、特別(独特)のものがある。それまでに、聞いたことのないだけの、特別の「力」をもったものとして、印象づけられるということである。(ただし、それを即座に認めてしまうことは、「未知性」を正面から認めることにつながるから、抵抗も多いはずである。)
これには、「声」がもつ実質的な「意味」、つまり、攻撃的であったり、あるいは脅かすような内容なども、大きく影響するだろう。しかし、それは、内容というよりも、その「声」自体のもつ独特の口調や強さなどから、醸し出される面が強いのである。
(ただし、「声」の表面的な「口調」そのものは、現に前にする人間の口調のものと同じものと感じられることも多い。つまり、「声」は、見かけ上、現に前にする人間等の「声」を「模倣」または「借りる」ことも、できるようなのである。しかし、そのような場合でも、見かけの口調に惑わされなければ、その口調が帯びている独特の要素というものは、明確に感じ取られるはずである。)
それは、端的に言えば、「ぞっとさせる」とか、「怖じけづかせる」という言い方が適当になるだろう。そこには、ちょっと、普通の(対象のはっきりした)「恐怖」と違った、何か、本能的ともいうべき、恐怖を呼び起こすだけのものがある、ということである。
このような「圧倒」させる面は、特に、「声」を(意識して)聞き始める初めのころに、顕著だといえる。まさに、そのように「圧倒」させられ、強く印象づけられるからこそ、「声」が意識して聞かれるようになるのだともいえる。そこには、恐らく、「声」を意識させることによって、より強い「影響力」を行使しようとする、発する側の意図的なものもあるのだと思う。
2 「嫌気」を催す「独特」の要素
「声」は、必ずしも、「圧倒させる」というのではなくとも、そこには、ある種の「嫌悪」を催す、独特の口調がつきまとう。この感じは、「声」を聞いたことのある者なら、一発で分かるだろうが、そうでないものに、具体的に説明するのは難しい。(「嘲笑的」な響きであったり、「軽蔑的」な響きとして、分かりやすい場合もあるが、そのように具体的に言い表し難い微妙なものである場合も多い)
何しろ、その「声」の口調そのものが、何かしらこちらの「感情」(「嫌悪」や「反感」「不安」など否定的なもの)を強く刺激して来るものであるということである。その意味で、「声」は、心に何らかの「痕跡」を残さずにはおかないし、「無視し難」く、「囚われ」を生まないのも難しいのである。また、これは、既に述べたように、こちらの「過去の体験」や「トラウマ」に関わることを、巧みについてくることによっても、より助長される。
次に、特に内容的な面について。
1 攻撃的または迫害的内容。あるいは、それらを示唆する内容。
必ずしも、直接的なし方で、危害を加えるようなことを言い掛けてくる訳ではない。むしろ、それらは、明瞭な形で示されることはなく、常に示唆的、暗示的に示されるということがいえる。つまり、こちらが、それを補うべく、「解釈」を施すことによって、初めて明確な意味をもつものとなることが多いのである。
むしろ、そのような、暗示的な示唆によって、こちらが、恐れと想像力を膨らませ、「迫害される」というような「観念」を、自らもってしまうことが「狙い」なのである。また、そのような「観念」を一旦もってしまうと、その観念をさらにとっかかりに、補強または攻撃をすべく、「声」の攻撃がより勢いづくのである。
2 本人しか知らないはずのこと、あるいはそれを前提にした内容。
前回みたように、これは、「さとられ」「つつぬけ」という感覚の基礎となる。特に、「さとられ」「つつぬけ」という形で意識されずとも、「声」の内容には、必ずこういった要素が含まれているといえる。実際に、本人の内的な思考やコンプレックスなどを読むことができるのである以上、それらが内容に含まれるのは当然ともいえる。そのことも、また、何か得たいの知れないものに、自分の内面を侵されるという感覚が伴い、やはり恐怖や不安を煽るのである。
「声」の特徴として、大体以上のようなものを押さえておけば、まずそれとしての区別、つまり「物理的な声」との区別は十分可能のはずである。それらは、要するに、(たとえみかけは、人間の「声」だとしても)、口調からいっても、内容からいっても、通常の人間が発するものとしては、到底信じ難いものということである。そこには、これまでに経験のない、未知の「恐れ」を、催すだけのものがあるということである。
そのような「声」を、振り払うことができず、どうしても囚われてしまうという場合、それは、やはり、心のどこかで、そこに何か特別の「力」を予感しているからこそということがいえる。つまり、それは、通常の人間の発する「物理的な声」ではない可能性が、高いと言わなければならない。
さらに、最後にあげたように、内容として、本人しか知らないことを言ってくるようであれば、それはむしろ、その「声」が、通常のものではないことの、決定的な証しというべきなのである。
そのような口調、内容の「声」を聞いたときには、たとえ「形態」としては、人間の物理的な「声」と似ていても、まずそういった「声」であることを疑うべきである。そうすれば、注意力も増し、その「声」に伴う微妙な感覚の違いにも、気づくようになるはずである。(さらに、視覚的な感覚も発展して、明確に区別できるようになる可能性もある)
繰り返すが、そのような「声」は、たとえみかけは人間の「声」に似ていても、本来、直感的に、それらとは異質のものであることが分かるはずのものである。だから、そのような直感に素直に従う限り、それを物理的な「声」と混同するということはあり得ないのである。
ただ、それを認めることが、さらに強大な不安や恐れを喚起するので、みかけのままに、通常の人間の「声」と受け取ってしまう傾向が生じるということである。ある意味では、自ら欲して、「物理的な声」と混同してしまうのである。しかし、その内容は、通常はあるべきもないようなものであることに変わりはなく、それを「無理」に、他者の声として、現実レベルで埋め合わせようとすれば、かえって、現実には起こるはずもない「妄想」的な解釈になってしまうのである。
逆にいえば、それを通常の「現実」に当てはめる限り、「非現実」的で、あり得ないものになってしまうだけの、途方もない内容を含むものこそが、そのような「声」の実態なのである。だから、そのこと自体が、「声」が、通常の人間のものでないことの、証しのようなものである。「妄想」的な解釈にひた走ってしまう前に、そのような面に注意深くあり、そのような「声」を、通常の「物理的な声」と区別できなければならない。
ただ、そのような「声」を区別するといっても、その者が、「声」というものについて、通常の物理的な声以外にどのような可能性をみることができるかが、大きく影響するはずである。たとえば、物理的な「声」以外のものは、すべて「幻聴」に過ぎないと思っているか、他に「テレパシー」的な声や、他の霊的「存在」の発する声があると思っているかなどである。
物理的な「声」以外のものは、すべて「幻聴」に過ぎないと思っている場合、その「幻聴」ということのイメージも手伝って、それを物理的な声と区別することは、むしろ難しくなるだろう。その「強烈」で、「リアル」な「声」は、決してイメージしていた「幻聴」などとは思えず、しかし、他の可能性ということも、認める余地をもたないからである。
実際、「現実レベル」に当てはめられた「妄想」にひた走ってしまうのは、そのような場合が多いと思われる。(もちろん、「テレパシー」とか、他の霊的存在の「声」の可能性を認めていれば、「妄想」に走らないわけではないが、その内容は、かなり違ったものとなる。)
このように、「分裂病的状況」に遭遇する時点で、「霊的なもの」の可能性に関して、どのような「ものの見方」をしているかは、やはり、その後の展開にとって、大きく影響せざるを得ない。この点については、近いうちに、分裂病的な状況だけでなく、広く一般的な観点から、そのような「ものの見方」の影響を、かなり本質的に踏み込んで、述べてみたい。
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